13 可憐な花はまもなく開く
顎を掬い上げられて、レナとラフィールの視線が真正面から交わった。
ラフィールの一対の美しい琥珀には何か不思議な力があるようで、魅入られたようにレナは目が離せない。
徐々にそして確実に近付く2人の距離。
しかしレナの実感は、現実にまったく追い付いていなかった。
ラフィールの低く響く囁きが、レナの衝動をぐらつかせる。
「お前はなぜそれほどまでに俺に怯える? 何か疚しいことがあるからだろう?」
ラフィールの吐息は甘い毒薬。
触れるか触れないかの境界線上にある唇。
耳を擽り、じんわりと注がれる毒に思考力が奪われて、無垢な身体は忽ち不可解な熱におかされた。
「騙したら承知しない」
「は……い……」
犬の獣人に変化はしているが、あまりに距離が近かった。自分の正体が、匂いでラフィールに暴かれてしまうのではないかと心配になる。
それと同時に身体の深いところがきゅんとして、熱くなる身体は自分のものではないようだった。
敏感過ぎるレナが、蜂蜜のような甘い感覚に連れていかれそうになった寸前。
「お前……!」
急にラフィールがレナから身体を離したので、彼女もまた我に返った。
「ラフィール隊長?」
彼の顔は見逃してしまいそうな程度に、ほんのわずかに赤かった。レナの気遣わしげな声に、ラフィールは巧みに動揺をしまいこむ。
「……まぁ、いい。なるべく早く親許に帰してやる。詳しいことはまた明日聞かせてもらうから、今日はもう休め」
「?」
ラフィールの態度の変化にポカンとしながら、どうやら許してもらえたらしいことに、レナは心から安堵した。緊張の糸が途端に緩む。
「あの……」
「なんだ、まだあるのか。もう用はないだろう。なるべく早くこの部屋から出ていってくれ」
ラフィールは漆黒の髪を無造作にかきあげて、努めて冷淡に言葉を紡ぐ。その動作は彼の表情をよく隠していた。
獰猛だった狼に、レナは淡くはにかんだ。
「本当にありがとうございます。私の大切なお薬を返してくださって」
「…………」
そんな彼女の天使の笑みを、ラフィールは複雑な気持ちで眺めていた。しばらくの沈黙。そして徐に切り出した。
「……ここは男所帯だ。明日の朝、迎えが来るまでは絶対に部屋から出るなよ」
「? はい」
午前零時で変化は解けてしまうので、次に薬を飲める明け方までは、もとより部屋から出るつもりはなかった。
退室の挨拶をして廊下に出る。もう既にマチルダいなかった。
もといた部屋まで1人で帰ろうとするレナを、ラフィールが呼び止める。
「マチルダはいないのか?」
「帰っちゃったみたいですね」
「仕方ないな」
するとラフィールが廊下に出て、止まっているレナを追い越した。そして少し行った先で振り返る。
「行くぞ」
「どこに行くんですか?」
レナはくるりとした瞳をぱちくりさせて、可愛らしく小首を傾げた。
「もちろんお前の部屋だ。俺が送ってやる」
「え? ちゃんとお部屋は覚えていますから、大丈夫ですよ」
「まさか逆らうのか?」
ラフィールの苛立ちを乗せた声に、レナは慌てて首を振る。
「……逆らいません」
そうして彼女は小走りでラフィールに駆け寄った。
* * *
部屋までレナを送った後、ラフィールは耐えきれないように廊下の壁に凭れていた。そして「落ち着け」とばかりに深呼吸を繰り返す。
(あの香り……)
包み込むような、それでいてとても印象的な甘い花のような、優しい香り。
ラフィールはレナの首筋に近づいたとき、逆にその香りに囚われそうになっていた。
それは酔いそうになるほど、彼の本能に絡み付いて……。
今日最後になるはずの溜め息をそっと漏らす。
(あれは間違いなく発情香だった)
発情香は発情期を迎えた獣人の女が放つ一種のフェロモンだ。その濃淡や甘さ等、誰一人として同じではなく、その香りが魅力的であればあるほど、雄を強く狂わせる。
レナの初な様子やまだまだ弱い香りから推察するに、彼女はまだ本格的な発情期を迎えたことはないのだろう。その香りにラフィールが気がついたのは、嗜虐心がもたらしたまったくの偶然だった。
どちらにせよ固く閉ざした蕾の開花は近そうだ。
(あの容姿に、あの発情香……。危険すぎる……。無事に保護者のもとに帰してやらないと、下手したら途中で行きずりの男に喰われてしまうかもしれない)
初めての花を散らすことに執着する男もいる。ほんの微かな香りにもかかわらず、ラフィールの本能を刺激したほどだから、その危険性は高かった。
(発情期を人為的に抑える方法もいくつかあるが、命に関わる病を患っているレナにそれらを使っていいものか……。厄介なのを、拾ってしまったな……)
頭の中がレナの笑顔で満たされる。あの笑顔が失くなるのは、あまりに惜しい。
そこまで考えを巡らせたラフィールは、美少女の魔性に、また自分も翻弄されていることに気が付いて、今度こそ今日最後になる溜め息を盛大に漏らすのだった。
長老「どうやらラフィールに、レナ専用過保護スイッチができたようじゃな」
レナ「過保護スイッチ?」
長老「お前さんがボーッとしているからじゃ」