ブルーコメッツの大いなる贈り物
ジャッキー吉川とブルーコメッツという名前は、切り口が多すぎてどういう風に語ればいいのかが判りかねるバンドです。結成自体は昭和三十二年にまで遡る、日本最初期のロカビリーバンドの一つであるこのバンドは、やがてメンバー変遷を経てグループ・サウンズ・ブームを牽引し、その後も女性ボーカル二名を加えての活動を経験したりして、今なお八十のメンバーもいる中現役です。この前、『徹子の部屋』にメンバーが出ていたのにはひっくり返りました。
ジャッキー吉川とブルーコメッツ(以下、『ブルコメ』)が遺した偉業は、その一部をとっても半端ない。例えば……
・日本ではじめてロックバンドとしてボーカルモノのシングルをヒットさせた(『青い瞳』)
・ロックバンドとして初めて紅白に出た(三年連続)
・ロックバンドとして初めてレコード大賞を獲得した(『ブルー・シャトウ』)
・美空ひばりのバックバンドもこなした(『真赤な太陽』)
・武道館でビートルズの前座を勤めた
・『エド・サリバン・ショー』に出演した
・オリコン最初の一位を獲得した(『北国の二人』を試験版チャートで)
など、枚挙にいとまがありません。しかし、ネガティブに捉えよう動きというものはあるもので、そちらを挙げていけば……
・昭和四十三年の暮れから歌謡曲・演歌に転向した
・最末期を除けば、ひたすらスーツと短髪でステージをこなしているところがロックっぽくない
ブルコメはハッキリいって、この二点だけで不当に評価を貶められたといってもいいでしょう。
ただ、当時のバンドが歌謡曲・演歌に流れてしまうというのは別にブルコメが最初であったわけではありません。グループサウンズブームの全盛においてもそういった系統の曲でヒットを出したバンドは沢山いたのですが、傍流だったのでそこまで注目されなかったというだけのことです。
転向には理由がありました。ブルコメは、当時のバンドが担っていたアイドル的要素に乏しいグループでした。ロック・バンドが一部の音楽ファンの支持のみで成り立っていた時はそれでもよかった。井上忠夫という傑出したコンポーザーがメンバーにいて、おまけに全員がロカビリーからバックバンドとしての修練を積んできた連中です。だから洋楽しか相手にしない耳の肥えたファンからも一定の支持を得、スパイダースと共に洗練された楽曲と演奏だけでいわゆる『ブル・スパ時代』と言われる一時代を築くことが出来ました。
しかし昭和四十二年の半ば以降、タイガース、カーナビ―ツ、テンプターズといった若く、長髪の似合うアイドル的要素を強烈に備えたバンドが出てくるようになると旗色は変わります。デザイナーに完璧にコーディネートされた華やかな衣装を着た十代後半のボーカルを擁する彼らを相手にするには、二十代半ばの年齢(ベースは三十代)で、短髪にスーツという出で立ちの彼らは分が悪すぎました。ブルコメが『銀行員』やら『ジジコメ』と言われるようになるには時間を要しなかった。もっとも彼らは気にしませんでした。元々ファン層の年齢が高く、ステージを観にくる客も熱狂的な洋楽ファンの男性かデートのカップルか、といった具合だった彼らは、無理なアイドル化をする必要はないと考えたのです。
それでも昭和四十三年、事態は悪化していきます。この年のブルコメのシングルの最高順位は5位→15位→15位と緩やかに下落していきます。凄まじい勢いでバンドがデビューしていったこの年、バンドが増えれば増えるほどにファンの奪い合いが激しくなったのです。大御所の地位にいたはずの彼らが、大御所の地位のまま過去の人になることは時間の問題でした。
だから、結局彼らは路線転換をせざるをえませんでした。すなわち、少なくともシングルからはロック色を排除し、大人向けのムードコーラス・演歌路線へと切り替えたのです。
路線変更は正解でした。昭和四十三年の秋に発売された『さよならのあとで』は純然たるムードコーラスでしたが、オリコン三位かつ五十万枚のヒットとなりました。判断はあたったのです。
彼らが不幸だったのは、この『さよならのあとで』の成功が「ロック→歌謡曲」という路線転向こそ正解だという誤解を他のバンドに与えてしまったことです。既に人気が飽和状態になっていたグループサウンズブームの中の他のバンドは、こぞってこの波にのりました。多くのバンドがロック・ビートポップス路線を捨て、ブルコメの二番煎じを狙った転向をしました。そこにはブーム当初の斬新さはなく、ファンが失望するだけの未来しかなかったのですが。
結果、昭和四十四年の夏にはグループサウンズという日本最初のバンドブームは死滅します。それまでバンドに声援を送っていた若い層はより純度の高いアイドル歌謡か、もしくはフォークソングに流れ、ロックバンドは「はっぴいえんど」ですら受け入れられることがない時代となったのです。再び日本でロックバンドが商業的に成功するのは、昭和五十年代にゴダイゴ、ダウン・タウン・ブギウギバンド、ツイストがシングルヒットを連発するまで待たなければなりませんでした。
グループサウンズブームを支えた多くのバンドは昭和四十五年までに消え去りました。が、ブルコメは業界にとどまりました。徹底したアダルト歌謡路線を維持した彼らは、その路線で昭和四十六年までヒット曲を叩きだします。その後はメンバーチェンジを経て、女性ボーカルを含めた形態で昭和四十八年に再デビューしヒット曲を再度出し、現在に至るまで息の長い活動を繰り広げるのです。
ブルコメはスパイダースと共にグループサウンズという巨大なバンドブームの時代を産み出し、そして終わらせました。産み出したことには誰も大きな注目をはらいませんが、終わりのきっかけを作ったことは後世の人間ほど注目する時代が続きました。
それでも、日本人がロック色ある楽曲をバンドとしてヒットさせるという歴史的事実を作ったのが彼らであることに変わりはないのです。また、ロック=不良という単純な図式がまかりとおっていた当時にあって短髪でスーツを着こなす彼らは、清潔な存在として保護者や教育者からのウケもいい存在でした。後のロック界を支えるミュージシャンには、彼らの音のみ聴くことを許され、そこから音楽を志したといった人々が実はものすごく多いのです。
ブルコメの贈り物とは、そのあたりに尽きるのかもしれません。
近年、昭和四十四年から四十六年にかけて、当時人気を失いつつあったブルコメが片手間に録音し発売したカーステレオ用のカセットテープ音源が復刻されました。そこでの彼らは演歌からポップス、ロックに至るまで灰汁のない手堅い演奏を披露されています。要はブルコメにとって、ロックとは全てではなく、音の職人として披露する技芸のほんの一部にしか過ぎなかったのかもしれません。
メンバーのうち作曲を担当していた井上忠夫は後に改名をして井上大輔を名乗り、日本屈指のヒットソングメーカーとなります。その傍らで歌手活動もし、『機動戦士ガンダム』の『哀・戦士』をヒットさせます。
今となっては「ブルコメのメンバーがガンダムを唄った」ではなく、「『哀・戦士』の歌手は昔バンドをしていたらしい」と言われる機会の方が多いから驚くばかりですが、それもいいことでしょう。それもまた、ブルコメの贈り物なのです。