ブライアン・ウィルソンが長い旅に出る前
2012年の夏にビーチ・ボーイズがブライアン・ウィルソンを含む生存しているベスト・メンバーで来日するという報せを聞いたとき、僕は呆気にとられましたよ。多分、そんなとてつもないものを観られるチャンスは、今回を逃したらもうないと思ったからね。
でも、悲しいかな、大阪公演の会場となった府立体育館の公演に僕はたどり着けなかった。何せ当時は学生で、まあ金もないし、それに将来を考えるととてつもなく重要な年だったから、会場に行く精神的な余裕が無かったのですね。激しく後悔した僕は、その次の年のポール・マッカートニーの大阪ドーム公演は観に行きました。2回も。何をやっているのか。
1979年のデビュー作「風の歌を聴け」で村上春樹は、しつこい程に1970年の神戸の街にビーチ・ボーイズを流しました。僕の大好きな作品ですが、当時の日本の若者にとって全盛期のビーチ・ボーイズの曲は、ドゥー・ワップをルーツとする繊細なファルセットのコーラスワークの音作りに魅かれた者こそいるものの、その歌詞世界にまで親しみを覚えた人は数少なかったでしょう。そういう意味では「僕」も「鼠」も「小指のない女の子」もそういった数少ない一人だったわけです。
1963年から66年にかけての全盛期のビーチ・ボーイズの歌詞世界は、アメリカ西海岸を舞台とした「車・サーフィン・女の子」でした。日本でも主に東芝レコードが、車は「ホット・ロッド」として、サーフィンはそのまま「サーフィン」というリズム・ステップとしてブームを仕掛けますが、ハッキリと流行ったとまでいえる彼らの曲は殆どありませんでした。当時のレコード業界の常で、ヒットした洋楽は大抵が日本語詞で日本の歌手やグループにカバーされるのですが、ビーチ・ボーイズ場合その楽曲がカバーされたというケースが無いのです。
イギリスのヤードバーズの二代目ギタリストだったジェフ・ベックは「アメリカ公演で西海岸まで辿り着いた時、自分よりも若い女の子が見たこともないような大きなハードトップを運転しているのを見た。……イギリスでは一生かかっても手に入れられないようなヤツをね」と語っています。当時のイギリス人から見ても、西海岸の中産階級のティーンエージャーはそう映ったのです。いわんや、高度成長の半ばにあった日本からしたら、ビーチ・ボーイズの歌詞世界はそれより遥かに遠いものでした。
ビートルズというグループがアメリカに出現する前年にブレイクしたビーチ・ボーイズは、イギリスの四人組によって従来の歌手やグループが次々と失速する中、生き残りました。先にも書いた巧みなコーラスワークという武器と共に、レノン&マッカートニーに匹敵する作曲能力を持ったリーダー、ブライアン・ウィルソンがいたからです。ビートルズの猛威がもっとも強烈なものだった1964年と65年、ビーチ・ボーイズは6曲のトップ10ヒットをチャートに送り込み、アメリカのバンドとして一人気を吐きます。そして、そのすべてはブライアンのペンによるものでした。
しかし、ビートルズ以降の数多のイギリス出身のバンドに比べて、彼らにはある弱点がありました。コーラスワークに秀で、演奏力も当時としては水準レベルにはあるグループでしたが、アイドル的人気を獲得するような容姿をメンバーがしていなかったのです。まあ、ドラムスのデニス・ウィルソンだけは男前でしたが。
当然、人気の維持はブライアンのソング・ライティングにかかるようになります。ビートルズの向こうを張ってアメリカのバンドとして活躍していくには、歌詞世界を今までの「車・サーフィン・女の子」からある程度前進させていかなければならないと彼は気づきます。しかし、当時の他のメンバーもファンもそんなことを彼に望んではいませんでした。
周囲の期待との葛藤、そしてプレッシャーのなか、ついにブライアンの神経は疲弊してしまいます。
ツアーには出ず(ツアー用の新メンバーを加入させた)、テレビ出演も殆どせずにスタジオに一人こもった彼は、自らの楽曲をより鋭くするためだけの作業に取り掛かります。ブライアンが自らの楽曲の先鋭化として採用した手段は、スタジオ・ミュージシャンの徹底した起用でした。
そして、彼の試みが最初に成功したのが1965年春に全米チャートで首位を獲得した「ヘルプ・ミー・ロンダ」だったのです。
「ヘルプ・ミー・ロンダ」のバッキングは絢爛豪華なものでした。ドラムスには、数万曲を叩いた伝説的なドラマー、ハル・ブレインを迎えます。ピアノはレオン・ラッセル、ギターはグレン・キャンベル。また、ベーシストは女性セッション・ミュージシャンのパイオニアであるキャロル・ケイが努めます。こうして、従来のメンバーによる演奏以上に音に厚みを出すことに成功したブライアンの試みはまずは商業的に成功します。
この曲のもう一つの特徴は、それまでのビーチ・ボーイズとは違う歌詞の微妙な陰りにもありました。それまでの彼らの歌詞世界は、明朗快活で男性的な部分が多くを占めていました。しかしここで初めて、打ちのめされ、他者に臆面もなく甘えようとする男の姿をブライアンは提示します。「車・サーフィン・女の子」からの助走でした。
しかし、ブライアンの試みは誰にも理解されませんでした。相変わらずにレコード会社もメンバーもファンも、従来の世界を彼に求めました。ブライアンの不安定な精神はその後も続きます。
1966年の1月にビーチ・ボーイズは来日しますが、そこにブライアンの姿はありませんでした。精神が削られ、難聴まで抱えた彼が極東に来れるはずもなかったのですが、日本のファンはそう思いませんでした。なめられたと感じたのです。会場ではヤジが飛びかい、気がつけば前座で出ていた日本のスパイダースの方がオーディエンスに喝采を浴びるという始末でした。
ブライアンの密かな試みはこの年に出したアルバム「ペット・サウンズ」が思ったような評価を得られなかったことで挫折します。その後も意欲的にスタジオには籠るのですが、作品をまとめられず、周囲からの理解も得られなかった彼はやがて、さらに精神をボロボロにして隠遁してしまいます。ブライアンが消えたと同時にバンドも長いトンネルに入っていきます。何年かに一度、ヒット曲が出ることは出るのですが、かつてのようにトップ10を連発した頃の勢いは遂に取り戻せませんでした。それでも70年代、80年代とトップ10ヒットやチャート1位の曲を送り出しているところは流石なのですが。
バンドは離合集散を繰り返し内紛も多くありましたが、それでもブライアンはバンドを去りませんでした。バンドのオリジナルメンバーだったカールとデニスという弟二人を病気と事故で失いましたが、彼は死にませんでした。
長い隠遁を終えた彼は、今、時折はバンドと一緒にツアーをまわっています。元々はベーシストだった彼は、もうベースを持ってステージにはたたず、大抵片隅でキーボードを静かに弾いてる様です。
ブライアンが今度来日する事があれば、その時は必ず観に行こうと思うのです。