あの頃のビートルズと日本人
ポール・マッカートニーがまたまた日本にやって来る!
ジョン・レノンが死んで四十年近くなった今、日本人のビートルズ熱に応えられるのは御年76のポール・マッカートニー卿だけとなっています。
リンゴさん? あの人はまあ、楽隠居だからね。
さて、ビートルズは1970年の解散時には、もう既にポピュラーミュージックの古典となっていました。1962年に、ハーモニカの意外性以外は貧弱な音で構成されていた「ラブ・ミー・ドゥ」で世に出てからたった8年で金蔵建てた家建てた。そんなイギリスの港町の連中に対する富と名声と音楽的評価は解散時にポップ・ミュージックの枠を超えて既に確立されていました。
でも、それは全世界的な話であって、日本ではどうだったのか?
日本でのビートルズのデビューは、まあ一般的には1964年ということになっています(※1)。この年の二月にアメリカでの熱狂を受けて東芝レコードから「抱きしめたい」が発売されますが、売り上げは五万枚程でした。これは、初めて紹介された外国のグループとしては決して悪い数字ではないですが、「全米を熱狂させた」といった事象も含めて紹介された歌手としては物足りない数字でした。それでも、イギリスでのメジャーデビューからのストックは大量に蓄積されていたので、東芝はこの年だけで実に12枚のシングルを発売します。
長髪(あくまでも当時としては)で、電気楽器を操りながら唄い、コーラスワークもこなすという四人組は、当時の日本人の理解に追いついていない面があったのは確かです。この2年前にベンチャーズが初来日した際、諸事情でベースとドラムスは日本のミュージシャンを雇って興行したのですが、ドラマーはエイトビートを解せず、ベースはウッドベースで巡業に参加したという逸話があったくらい、電気楽器はまだ浸透していませんでした。
しかし64年当時はいささか状況が違ってきていて、63年にアメリカで人気を披露したサーフィン・ホットロッドものをコピーする為に電気楽器のみで構成されたロックバンドが既に2つ結成されていました。ブルージーンズとスパイダースです。彼らはビーチボーイズやサーファリズを演奏していた延長線上にビートルズがあると解釈、ステージで取り上げ始めます。こうしてビートルズの楽曲は東京圏のジャズ喫茶を中心に静かに評判となっていき、主演映画の公開もあってその人気は全国に広がります。
彼らの人気が決定的になったのは、65年5月にリリースされたシングル「ロック・アンド・ロール・ミュージック」でした。アルバム「ビートルズ・フォー・セール」から日本独自の判断でシングルカットされたこの曲は66年の武道館公演の時点までに実に80万枚を売り上げ、遂に日本でもブレイクを果たすのです(※2)。
この曲が現在に至るまで売れたビートルズの曲の最上位というのは、いささか不思議な面があります。オリジナル・シングルではないし、そもそもがオリジナルの曲でもない。チャック・ベリーのカバー曲です。じゃあなぜ、売れたのか? 思うに、ひとえにタイトルのせいでしょうね。「ロック・アンド・ロール・ミュージック」というそのまんまのタイトルは、普段ロックを聴かない人にも興味を持たせるに十分なインパクトがあったのでしょう。別に日本向けのセットリストというわけではなかったですが、日本公演の一曲目もこの曲が飾りました。
ビートルズは66年の来日公演を経ることで、日本での人気と評判を不動のものとします。武道館公演はテレビ中継されて56.5%の視聴率をあげ、楽曲ごとに一礼するという礼儀正しいステージを全国に届けることで「長髪の不良」というイメージを払拭する事に成功。折から前年のアルバム「ラバー・ソウル」と楽曲「イエスタデイ」の音楽性の高さが評価されていたこととあいまって、実力・人気共にナンバーワンのバンドとしてベンチャーズに代わるトップ・バンドと化します。
もっとも、公演自体はメンバーたちがツアーに飽きてしまっていたせいもあって散漫な出来でしたが(※3)。
68年1月に発足したオリコンチャートの数字をみると、ビートルズは売上においても国内の歌手やバンドにまったく劣らない人気を披露していたことが証明されています。この頃には、日本独自のシングルカットも殆どなくなり、英国オリジナルのシングルとほぼ同じものがリリースされるようになっています。解散までの主要なシングルの順位と売り上げをオリコンで確認すると、大体こんな感じとなるのです。
68年1月 ハロー・グッドバイ 15位 14.2万枚
68年4月 レディ・マドンナ 10位 10.5万枚
68年9月 ヘイ・ジュード 5位 38.3万枚
69年3月 オブ・ラディ・オブ・ラダ 7位 18.9万枚(※4)
69年6月 ゲット・バック 10位 17.9万枚
69年7月 ジョンとヨーコのバラード 11位 17.5万枚
69年11月 カム・トゥゲザー 6位 21.4万枚
70年3月 レット・イット・ビー 6位 52.3万枚
1位の獲得こそないものの、洋楽シングルが400円で邦楽のそれは370円の時代に、これだけオリコン10位内に繰り返しチャートインさせた洋楽アーティストは皆無です。60年代の最末期、既にビートルズは日本人の老若男女の間で「聞いたことある有名なバンド」としての地位をしっかりと築いていたのでした。
※1 実はイギリスメジャーデビュー前にドイツで修業していたころにトニー・シェリダンという歌手のバックバンドとして録音した「マイボニーツイスト/ザ・セインツ」が何故か1962年にポリドールからリリースされています。名義はビートルズではなく「トニー・シェリダンと彼のビート・ブラザーズ」。もちろん、イギリス経由ではなく、ドイツ・ポリドールから廻ってきた音源。最初期のビートルズの商業録音ということで、現在世界中のコレクターの間ではウルトラ・レアの珍品として滅茶苦茶な値段で取引されているとか。
※2 この年、1965年の紅白歌合戦で紅組のザ・ピーナッツが「ロック・アンド・ロール・ミュージック」をビートルズの演奏に忠実なカバーで披露しています(日本語詞での歌唱)。バックバンドはジャッキー吉川とブルーコメッツ。
※3 日本公演は意外な人物が観に行っていますが、作家の中では三島由紀夫と遠藤周作、小林信彦が武道館まで訪れています。このうち、三島由紀夫と遠藤周作は公演が散漫だったこともあって、否定的な文章を遺しています。三島は川端康成と共に初期のロックを聴いたこともあるので、この音楽形態自体は理解していたようですが、粗探しを会場でしようとしたのをファンの女の子に見とがめられて罵声を浴びたようで。
小林信彦はこの時期は放送作家としての活動がメインでしたが、後に小説家に完全転身した後、「ビートルズの優しい夜」という奇跡的な傑作を発表。この中で、羽田空港の日航機から降りるバンドの姿を「天尊降臨」とまで表現しています。
※4 欧米ではあまり評判が良くないらしいですが、日本人はこの曲大好きですね。1969年当時ですら、ビートルズをはじめとして実に4曲ものバージョンがオリコンチャート上に同時ランクされるという事態になっています。日本ではザ・カーナビーツが日本語詞でカバーしましたが、彼らの人気が落ちた後だったのでヒットまでには至りませんでした。「太郎」と「花子」で進行する奇妙な歌詞世界はモンド感いっぱいですが。