ゾンビーズとカーナビーツ
拙作は、1967年(昭和四十二年)から始まる物語と、1970年(昭和四十五年)という「現在」が交差するという、ホントにしょうもないことをやっています。やった理由は分からない。多分、作者が「こうしたらイカす」とでも思っていたのでしょう。
そんなこの、「恋のほのお」の1967年の初夏を音楽から語ってみたいと思います。
1967年という年は、前年のビートルズの来日公演と、そのさらに前の年から始まっていたベンチャーズ・ブームを経験した日本人が「ロック」というものに改めて向き合った年でもあります。もちろん、それまでにも「ロック」という音楽自体は日本にありました。しかし、それは進駐軍キャンプ廻りの営業バンドが発展していった戦後日本ジャズ史の外枠でしかなく、聴き手はともかくにして演奏者にはどこか「生活の為」といった雰囲気が残存していました。
また、ロックという音楽媒体には市民権がなく、強烈な個性で成功したロック歌手であっても、ともすればやれ「ミュージカル」だ「青春歌謡」、はたまた「ジャズ」といった形で転身を図ろうとするケースが多々ありました。要は、ロックはマトモな音楽として見做されていなかったので、演者も別の音楽媒体への脱出を企てたくなる程度のものでした。
まあ、あれです。大正時代、漫才師の社会的地位の低さを嫌った砂川捨丸が、紋付き袴で「高級漫才」を演じたようなものです。
しかし、先にあげたビートルズとベンチャーズの登場を受けて現れた連中は、そういう「生活」や「音楽的地位の低さ」を考えずともすむ連中でした。高度経済成長の中、「生活」のためではなく趣味の延長線上として楽器をもってプロになった連中が、雨後のタケノコのように現れたのはちょうどこの時期でした。戦後の教育を小学校から受けた彼らは、経済的な後ろ盾を武器に「好きだから好き」と断言できた最初の世代といえます。
作曲家に弟子入りしたり、名門バンドのローディーを経験してからプロになる、というそれまでのプロセスを無視した形でスターダムに登りつめる歌手やグループが出たこの時期こそ、現在まで連なるJポップの黎明期と言ってもいいかもしれません。1964年(昭和39年)には、アマチュア・エレキ・バンドは慶大、立教、学習院あたりの富裕な家庭の学生の間にしか存在していなかったのが、1965年にはアマチュア・バンド・コンテストがテレビで毎週放映され、高視聴率をあげるといったくらいに時代が激変したのです。
そういう若者の一部で起こった音楽革命は1967年、更に活発になっていました。進駐軍相手に営業をやっていた系統の最後のグループであるスパイダースが、この時期に堺正章をボーカルに据え、洋楽的なメロディーのヒットを連発します。ビートルズ的なロックセンスのある楽曲を、日本人が自作して自ら演奏することは不可能ではない、ということを最初に実証したのがスパイダースでした。
そんなスパイダース、それから渡辺プロ系列のブルーコメッツが米英に負けないセンスでオリジナルを量産して人気が出た結果、次々と後を追うバンドが出現します。京都のタイガース、埼玉大宮のテンプターズ、横浜のゴールデン・カップスなどなど……。
第二話でちょっとだけでるザ・カーナビーツもそんな一組です。東京の蒲田で結成された彼らは1967年6月、「好きさ好きさ好きさ」でビクター系列のフィリップスからデビューします。ロンドンのファッション街にかこつけて「カーナビートサウンドのエース」というキャッチコピーと一緒となったデビューでした。
そんなカーナビ―ツがデビュー曲でカバーしたグループこそ、イギリスのザ・ゾンビーズでした。
ザ・ゾンビーズは前進がジャズ・ピアノのトリオであり、ジャズ思考の作曲センスで作り上げた純度の高いボップスで、名声を今も保つグループです。が、名前の通りの運命をたどったグループとしても有名であります。
ロンドンの名門男子校で結成された彼らは、ビートルズ人気の中で行われたバンドコンテストで入賞すると1964年にデビュー、デビュー曲の「シーズ・ノット・ゼア」がいきなりアメリカで2位、イギリスで12位の大ヒットを記録します。
ハスキーボイスのボーカル、コリン・ブランストーンにVOXのオルガンでジャズタッチのソロを弾きまくるロッド・アージェント、独特の拍のドラムスを叩くヒュー・グランディ…………。彼らの個性は当時の音楽界では異色で、若干二十歳にもならない彼らは、続く「テル・ハー・ノー」をアメリカで最高位6位に送りこむことでクオリティと人気を両立させた…………かに見えました。
彼らの苦難のはじまりはそこからが続かなかったことです。数多のバンドが当時の英米にいて覇権を争っていましたが、彼らの多くは男性アイドルとしての要素も持っていました。
ゾンビーズはそうではなかった。決してアイドル的なルックスではない彼らの失速は早かった。1965年にリリースした三枚目と四枚目の曲がかろうじて全米チャート58位と95位に入ると、もうヒットとは一切無縁のバンドと化しました。長い低迷の時代の始まりです。
しかし、楽曲の良さは保たれていました。彼らの楽曲「好きさ好きさ好きさ」はアメリカではピープルというバンドのカバーにより最高14位になります。そしてバッキンガムズもチャート1位の大ヒット曲「カインド・オブ・ア・ドラグ」のカップリングとしてゾンビーズの「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・グッド」を採用します。二話で石堂が買った一枚です。
そして日本のカーナビ―ツの「好きさ好きさ好きさ」のカバーも1967年の初夏、猛烈な勢いでヒットします。陰りのあるメロディーと日本語訳詞の妙、そしてドラムス兼ボーカルの当時若干16歳だったアイ高野の派手なステージアクションがウケたのです。カーナビ―ツはゾンビーズによって世に飛び出し、グループサウンズ第二期の代表的バンドとして数曲のヒットをこの後も世に放っていきます。
このように世界の東西を問わずに楽曲は評価されつつも、肝心のゾンビーズ自身の見通しはあくまで暗いものでした。作詞作曲を担当するオルガンのロッド・アージェントとベースのクリス・ホワイトという作曲能力のあるメンバーにはカバーされる度に印税が入るのですが、そうじゃない残りの連中は日干しです。
かくして1968年、疲れはてたゾンビーズは契約上の都合でアルバム一枚を作成した後、解散しました。発表時、いつものとおり世間の反応もなく、経済的にも追い込まれてしまったから。
ところが、アメリカのCBSレコードのプロデューサーでもあった奇才、アル・クーパーがこのアルバムの中の一曲「ふたりのシーズン」を気にいり、翌1969年の春にシングルとしてアメリカで発売したのです。既に解散していたからジャケット表紙はサイケデリックなイラストで、メンバーの顔など映っていません。
今までの、人気を失ってからのゾンビーズのレコードと同じように「ふたりのシーズン」は黙殺された存在でした。しかし、ラジオから火がつくと徐々にチャートを上昇、ついには初夏に最高3位にランキングされ、ミリオンセラーとなったのです。日本でもオリコンの7位につけます。バンドが人知れず消えて行ってからの話でした。
CBSはバンドに再結成を打診しましたが、長い低迷にうんざりしていた彼らは別の仕事に転身したり、新グループの結成に全力を注いだりで、この提案を断りました。昔の名前に未練はなかったようです。しかし「ふたりのシーズン」はバンドの意志に関係なくヒットを続け、遂にはアメリカ南部を「ゾンビーズ」を名乗ってツアーを行い、ローカルテレビに出る偽物まで現れるという珍現象が発生してしまったのです。
バンドとしての実態がなくなった後の快挙と、それに伴う騒動は、まさに「ゾンビーズ」の名にふさわしい幕切れだったのかもしれません。
2018年現在、ゾンビを辞めてから50年たったメンバーは、それぞれ新しい業界と新しいバンドで成功をおさめた後、また「ゾンビーズ」として再結成、イギリスを中心にツアーを行い、往時と変わらぬ演奏でファンを楽しませています。
ゾンビの力によって世に出たカーナビ―ツはデビューの一年後には失速しました。加熱するグループサウンズブームの中、カバー曲に重きを置きすぎた彼らは飽きられるのがあまりにも早かったのです。それでも、彼らは二曲のオリジナルの名曲を遺しました。日本最高峰のリバプールサウンド、マージ―ビートの傑作「恋をしようよジェニー」と、十代にしか許されないティーンエイジ・イノセンスを唄いこんだファズ・ロックの名曲「すてきなサンディ」がそれです。
ボーカルのアイ高野はいくつかのバンドを転々とした後、2006年に55歳の若さで亡くなります。「好きさ好きさ好きさ」をNHKで熱唱してから僅か十日あまり後のことでした。