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ヤミの6月【Ⅱ】


  † †


 

 さて、運が回ってきたのは良いけど……これからどうするべきなのか。

 雨の日に地面に寝転がっていた私は一種の泥のモンスターのようになっていて、自分で言うのも悲しいがとても近寄りがたい。

 ホムラは話を聞いてくれるだろうか、聞いてくれたとしても上手く説明できるだろうか、見なかったことにされたらされたらどうしよう、頭の中で思考がグルグル渦巻くも口からは何もでてこない。微かに漏れる嗚咽に近い声も、降り続ける雨の轟音にかき消されてしまう。

 そんな私を見かねたのか、先にホムラが切り出す。


 「ま、事情は分からないけどさ、怪我はしてないんだよね?」

 「……う、うん。転んだだけ」

 「それは良かった。でもそのままだと風引いちゃいそうだし……早く屋根のあるところに行って……というか汚れが酷いな」


 ホムラは顔を近づけて私の体をジロジロと見る。なんか気恥ずかしい……。

 というかホムラから良い匂いがするな。香ばしいパンみたいな香りが漂ってくる。不思議に思ってホムラの手元を見てみると、綺麗な紙袋が一つ抱えられていた。そうか、良い匂いはこれから――

 「そうだ、どうせなら私の部屋来る?」

 「…………え?」

 パンの匂いに気を取られていた私は何か特別なことを聞き逃してしまったような気がする。なのでもう一度聞いてみることにした。

 

 「今……なんて?」


 するとホムラは自分の顔を私の顔と数センチの距離に近づけて……。

 「だから私の部屋に来るかって、すぐそこだし」

 「……へ……な……な」


 『なあああああああああああああああああああああああっ!!!!』


 危うく目の前のホムラにぶつけるところだった叫びを、既のとろこで飲み込み心の叫びに昇華する。

 あまりの驚きに状況が飲み込めない。私がホムラの部屋に行くとはどういうことなんだ。

 ホムラに会っただけでも今日の不運を取り返した逆転ラッキーだと思ったのに、まだラッキー続くなんて頭が変になりそうだ。

 ああ、疲労と驚きからか目の前がクラクラしてきた……。


 「……ヤミ?」

 「ふぁっ!」

 「なんか困ってる? 私はヤミの部屋の場所分かんなし、そっちに帰ったほうが近いならそれで良いと思うけど……」

 「いいいいやっ! ぜひお願いっ!」

 「……お願い?」

 

 ぬぁあ! それだけ言うとまるで私がホムラの部屋にどうしても行きたいみたいじゃないか。微妙な気恥ずかしさで、さっきまで冷えてたはずの耳が軽く火照ってくる。

 いや行きたいか行きたくないかで言ったら行きたいとは思うけど……違う違う。今はそういう話をしてるんじゃなくて……。


 「あ……だからその……ね? 私の部屋はまだ遠いから……迷惑じゃなければご厚意に甘えよう的なニュアンスの……」

 「ふふっ」

 笑われた、もっと恥ずかしい。

 「うぅぅ……」

 

 「分かった、なら私の部屋に来るってことでいいんだね」

 「……う、うん」

 「ついてきて、すぐそこだから」


 そう言ってホムラは真っ直ぐ雨の道を歩きだし、私もその後に続いた。


 

 ホムラは時たま歩きながら私のほうを振り返り、遅れてるようだと自然に速度を落とす。ふらつく私の足取りを心配してくれているようだ。

 転んだ時に怪我してないという言葉に嘘はないけど、転ぶ前から私の体力はすっからかんなのだ。至って普通の速さで歩いてるはずのホムラにさえ追いつくのがやっと。

 そんな様子だから「どうせなら一緒に傘に入ってく?」とも誘われたけど、泥人形の私が同じ傘に入るのは気が引けたので断った。どうせもう濡れるだけ濡れてるし。

 

 「もうすぐ、ここ上がったところから入れるよ」

 「うん……B寮は初めて来る」


 私たち候補生の寮は四つの建物に分かれている。私の部屋があるのがD寮と呼ばれるところで、ホムラの部屋があるのはB寮らしい。

 この寮分けにはこれといった法則があるわけでもなく入寮した際に適当に割り振られるものだ。候補生として過ごす間はずっと同じ部屋であり、何か特別な理由がない限りは移ることもない。

 一階には食堂や多目的ホールなどの候補生が利用できる施設があって、エントランスでは警備員さん的な人が一応チェックをしてたりする。分かりやすい不審者……まぁ今で言う私みたいなのは止められるんじゃないかな。

 だが泥モンスターを連れているホムラは、その正面のエントランスを避け寮の裏に回ると、非常階段のような所から上階へ昇っていく。

 

 「あれ?ここから?」

 「そっ、表から入ると色々面倒でしょ」

 「う、うん……?」

 階段を昇りながら私は首を捻る。

 別の棟とは言え建物としての構造は同じ。裏手に非常階段から中へ繋がる扉があるのは知ってるけど、この手の扉は内から開けることはできても外から開けることはできないはずだ。いったいホムラはどうする気なんだろう。


 そう考えてるうちに扉の前に辿り着く。傘を閉じて立てかけたホムラはレバーハンドル式のドアノブに手をかけると――

 「……はっ!」

 レバーを思っきりガシャガシャと上下左右に引っ張りだした。

 ガシャン! ガシャン!

 金属が派手にぶつかり合う音が周囲に響く、豪雨だから音は掻き消されてるみたいだけど……。


 「えぇ! ちょ! ちょっと待って!」

 「あー大丈夫大丈夫、壊してるわけじゃないから」

 「本当にっ!?」

 「雨だから多少適当にやってるだけで、普段はもっと慎重にやってできるものだし。こうやって……上上下下右上左下って順番に強く引っ張っていくと……」

 ガシャン!

 「ほら外れた」

 

 「おぉぉぉ……?」

 歓声を送っていい場面なのか迷う。確かにホムラの手つきは泥棒の手口というより、立て付けの悪くなったドアを開けるコツみたいな感じではあった。

 「代々ここの寮生に伝わってる秘密の扉の開け方らしいよ。誰でも存在自体は皆知ってる」

 「へー」

 「内側から捻って掛けるだけの簡単な鍵だけど内部が微妙に歪んでて、こうして上手くガシャガシャやると動いて開くみたい。ガシャガシャには回数短くするパターンがあって先輩にお菓子を上納すると教えてくれたりする。私は下手だから十五ガシャガシャくらいする必要があるけど上手い人は三ガシャで開く最速パターンを極めてるって噂」

 「お、おう……」

 なんだろう、極めて無駄な情報な気がする。おそらく私の人生には関わらないものだろう。

 

 「じゃあ入って。あ……靴はここで脱いでった方がいいかもね」

 「うん」

 私は廊下に泥をつけないように靴を脱いで裸足になり、ホムラが開いた扉の先の廊下へ足を踏み入れる。

 ぺた。ぺた。

 ヒンヤリとした床の感触が足裏に伝わってきて何とも変な感じ。


 「私の部屋はこの扉から入ってすぐ近く、向かって右側の五番目」

 「五番目……ここ……?」

 「そう、こっちはちゃんと鍵で開けるから待っててね」


 ドクン!


 あれ。

 ここに来て急に冷たくなってた心臓が動き始めた。雨の音が遠くなった静かな廊下で、今度は自分の心音が大きく聞こえてくる。

 雨の中を歩き疲弊したせいで鈍くなっていた“ホムラの部屋に入る”という事実が、冴えた脳内に一気に吹き上がってくる。

 ドクン! ドクン!

 「あ……あわわ……あわわわわ…………!」 


 そして緊張でカチンコチン泥人形になった私は招かれる。

 「何もない部屋だけど、どうぞあがってくださいな」


 

 まだ見ぬ聖域。ホムラの自室へと――


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