出発……出来ず。
「ワン、ワン、ワワン、ワン。」
「どしたの、すばゆ? にーゆくんのまねなの?」
「気にしなくて良いのよ、プリ。 この女は今犬なの。そーよね、ポチ。」
「ワ、ワン。うううっ。ワン。」
大好きなプリ様の前で犬扱いされる屈辱に昴は泣いていた。紅葉からは「ほら、ちょっと泣き声が人間だったわよ。泣くんじゃなくて、鳴くの。」という容赦のない指導が出されている。
「エロイーズが手元に戻って来て嬉しいのはわかるが、あまりやり過ぎるなよ。外見はエロイーズでも、中身は昴なんだから。」
「良いのよ。こいつ私達を下人とか言って、時々上流階級に属する人間の驕りが出ているから、調教……じゃなくて教育しているのよ。」
いや、やってる事前世そのまんまだし。絶対楽しんでいるだけだよな。和臣は嬉々として「お座り。」「お手。」と言っている紅葉を見て思った。
「ところで『にーゆくん』って『ニール君』で良いのかな。誰の名前?」
「うううっ。ニール君はプリ様のペットで……。」
「ほら、犬。喋らない。私はプリと人間同士の話し合いをしているの。あんたも今はペットでしょ。」
「うううっ。ワンワン、ワーン。」
プリ様はトテトテと床に置いてあった金属製の籠を持って来た。
「ほや、にーゆくん。」
「チワワかぁ。小っちゃいね。可愛い。」
褒められて、ニール君も嬉しげに「ワン。」と吠えた。
「すばゆ、にーゆくんのまね、おじょうず。ぷいぷいきゅーてぃはだめだけど、こっちはおじょうず。」
お座りさせられ、待ての姿勢をとらされていた昴の頭をプリ様が撫でた。それを聞いて昴も「本当ですか?」と目を輝かせた。
「ワン、ワン。キャウーン。」
「おじょうず。おじょうず。」
「クゥーン、クゥーン。」
鳴きながら昴はプリ様に頭を擦り寄せ、プリ様も「よち、よち。」と抱き寄せて上げている。昴至福のひと時であった。
「いつまでも遊んでいるな。出発するぞ。」
和臣が全員に言った。とりあえず、羊皮紙を信じて新橋に行ってみようという結論になったのだ。近いし、嘘だったらそのまま渋谷を目指せば良い。
「あーっ。私のトートバッグが何か変なのになっている。」
網棚を見た昴が不満気な声を出した。
「おっ、懐かしいな。あんたが前世でいつも持っていた鞄じゃん。」
それは魔界の蔓で編まれた、射られた矢も弾き返すというエロイーズ自慢の逸品だった。
「すばゆ、あーん。」
「あら、あら。プリ様お腹減りました? えーと、確か私の焼いたクッキーが……。」
鞄をまさぐっていた昴は何かを探り当てたが、出してみて悲しげな顔になった。
「クッキーも何か変な物に成っている……。」
昴は悲しげだったが、和臣と紅葉は歓声を上げた。
「それ、エロイーズ特製牛乳クッキーじゃん。一つ頂戴。」
二人が同時に手を出した。昴はちょっと考えたが、一枚ずつ手渡した。彼等が「前世で好きだったんだよね。」とか言いながら食べるのをずっと観察していたが、完食後しばらくしてから「良し。」と呟いた。
「はーい、プリ様。大丈夫みたいだから、食べても良いですよ。」
「待ちな。あんた今、私達に毒味させたわね。」
「し、知りません。何の事だか私にはさっぱりですぅ。」
追求は更に続きそうだったが、プリ様が「すばゆ~。」と言いながら催促して来たので、何とか免れた。
昴が「はい。お待ち兼ねのオヤツですよぉ。」と腰を屈めてクッキーを差し出したが、プリ様は「あーん。」と可愛いお口を開けたままだ。
「あら、あら。食べさせて欲しいんですか。プリ様はいつまでたっても赤ちゃんですねぇ。」
言葉とは裏腹に、自分に甘えてくるプリ様の愛らしさに、口元が緩み切っている。口内に入れてあげたクッキーを、蕾の様な口でカシッと齧り、モグモグと咀嚼してはまた齧り、とうとう昴の指先まで来ると、彼女は指でそっと残りを口の中に押し入れた。その二人の息のあった様子は、オヤツは毎日こうやって食べさせているのではないかと思わせるものだった。
「プリがトールなんだと思うと鳥肌が立ってくるな。」
あの筋肉の塊がエロイーズに甘えているところを想像したのか、和臣がボソッと言った。
次は昴が「いただきます。」と一礼して、お口周りに付いたクッキーの欠片を摘み始めた。プリ様は大人なしく立って、されるがままになっている。最後に摘み切れない粉を昴が舌で拭ったのを見て、我慢出来なくなった紅葉が彼女の頭を引っ叩いた。
「何で叩くんですか?」
「あんたね、それは立派な児童虐待よ。」
「私だって児童ですぅ。」
確かに普段通りの十歳の昴がやるのなら、妹の面倒を見るお姉ちゃんよろしく、微笑ましい日常の一光景に見えるだろう。だが、今のエロイーズの姿の彼女がやれば、痴女が幼女にイタズラをしている様にしか見えない。「おかお、きえいになったの。」とはしゃいでいるプリ様も「あんたも喜んでんじゃないわよ。」と叱られていた。
「よし、今度こそ出発するぞ。」
和臣が車内に備え付けのランプを外しながら言った。中は油と火ではなく魔法で精製された光のオーブが入っていた。魔法力を充填しておけば、その力を消耗し切るまで光を発し続ける。どんな人間でも大なり小なり魔法を扱えた前世の世界では一般的な物だった。
「俺達が前世で住んでいた世界と現世って絶対地続きじゃないよな。」
「魔法が一般的だった時代なんてないもんね。」
「その割には神様の名前が同じなんだよな。」
「だって神様じゃん。時間も空間も超越しているのよ。」
紅葉の返事を聞きながら、悩まなくていい奴は気楽で羨ましいなと和臣は考えていた。
「じゃあ用意は良いな。行くぞ。」
「ぎんぎょすゆ。」
改めて声を掛けると、プリ様が解析不能の一文を口にした。
「ぎんぎょ……する? どういう意味よ。」
「あれぇ、わからないんですかぁ? 簡単なのになぁ。」
昴が完全に馬鹿にした口調で言った。
「少し痛い目見とく?」
「……。説明させていただきます。銀魚を出しますので、少々お待ち下さい。」
昴が再び鞄を掻き回し、サテン地に見える布を取り出した。白ぽっい色なのだが、光の加減によって銀色に輝いて見える。
「これはプリ様が古い衣装箪笥の中から見付けて来た物なんです。」
それをプリ様の幼児独特のポッコリ出たお腹周りに巻いてやった。背中でリボン結びにしてやると、余った布と結び目が魚の鰭に見える。その格好で動き回ると、布が靡き銀色にうねった。
「まるで銀のお魚ですねと私が言ったら、じゃあ銀魚なの、ってプリ様がおっしゃって。それから私達二人の間では、この布を着ける事を銀魚するって言うようになったんです。」
私達だけの共通語なんです、と自慢した。
「ニール君に……銀魚か……。ニール君のケージには何か名前があるのか?」
和臣の質問に昴が微笑んだ。
「名前なんてないですよ。あれはプリ様がお家の宝物庫から見付けて来た物なんです。西洋の腕利きの職人さん、確かグレイさんが作った物です。」
また、プリ様の事は何でも知っています、という自慢が入り、紅葉から叩かれていた。
「ニール、銀魚、グレイ……。ううむ?」
和臣は繋がりそうで繋がらないもどかしさを感じていた。何かが露骨に示唆されている気がするのだ。一方、紅葉も「あれ?」と疑問に思っていた。トートバッグや中に入っていたクッキーさえも前世の物になっていたのに、何故、銀魚は形が変わらなかったのだろう? 昴が特に騒がなかったので、変わってないのだと思う。この空間では人間さえも前世の物に置き換えられているのに。
『あれも古い物だからかな? うーん。いや、でも。』
考えながら、もっと大事な問題を見逃している気がしていた。その思考は「ようし、今度こそ出発するぞ。」という和臣の呼び掛けで中断した。
「あのぅ、和臣さん?」
昴が遠慮がちに手を上げた。
「プリ様がまたオネムみたいです。」
見ると、はしゃぎ疲れたプリ様は、床に座り込んで、ウトウトと舟を漕いでいた。
紅葉の昴に対する扱いが、酷過ぎたみたいです。ギャグのつもりで書いてましたが、紅葉が不快という指摘を受けました。
書いてしまった部分は、改訂してませんが、以降は、虐めるシーンは減らしています。(少し有ります。)
不快な思いをされた方が居ましたら、お詫びいたします。