姉様を、穢れた子なんて言うなー!!
お姉ちゃんが欲しい。翔綺は、小さい頃から、そう思っていた。兄弟は、上も下も男。母は堅物。家族の中で、女の子のお話が出来る人間は皆無だった。
加えて、兄も弟も、名門美柱庵家のプライドを肥大させた、自意識過剰の塊みたいな性格をしていた。そこらの庶民の男の子達みたいに、カードだの、ゲームだのに夢中になっていれば、まだ、可愛気もあったのに……。
煩い事に、二人は、彼女の趣味嗜好にまで、度々口を挟んで来た。可愛い服が着たい。綺麗なお花を愛でたい。美味しい物を食べたい。という、女の子らしい感性は、彼等には理解不能、むしろ唾棄すべき悪習、と映っているらしかった。
お気に入りの一着が出来れば、誰かに見てもらいたい、褒めてもらいたい、のは当然だと思うのだ。しかし、家の中で、まず出る一言は「そのフリルの部分は、戦闘に邪魔なのではないか?」などの、無粋極まりない批評であった。
だから、彼女は、女兄弟が欲しかった。出来れば、お姉ちゃん。一緒にお買い物に行ったり、歳上のセンスで服装のアドバイスをくれる、お姉ちゃん。そんな姉の居る生活を、彼女は、時々、夢想していた。でも、それは最早、叶えようのない願望であった。
ところが、小学校に入った頃、双子の弟の克実が、妙な事を言い始めた。「おい、俺達には、姉も居るらしいぞ。」と。翔綺の胸は踊った。
早速、兄の英明に訊いてみると、物凄く不機嫌な声を上げた。そして、姉など居ないと一蹴された。だが、その態度は、逆に、姉の存在を確信させた。
母は苦手だったけれど、確証を得たい翔綺は、恐る恐る、訊いてみた。すると、案外すんなり、母は首肯した。知らずに、翔綺は顔を綻ばせていた。
「あの子は、私の恥です。使い物にならなければ、英国から呼び戻す気はありません。あまり、喜ぶのは、お止めなさい、翔綺。」
それなのに、続いて出た母の言葉は、非常に冷たい一言だった。
お姉様、可哀想……。翔綺の中では、まだ見ぬ姉への憧れと同情心が、広がっていった。
美柱庵地下屋敷に入ったプリ様、昴、リリスの三人は、その、荒れように驚愕していた。
「特殊合金で出来ている、屋敷の骨組みが、破壊されるなんて……。」
「かべが きりさかれて いゆの。」
プリ様は、壁面の傷跡を指で触りながら、呟いていた。特殊合金を、ここまで鋭利に切断する武器との戦いなんて、流石のプリ様でも、ゾッとするものを覚えた。
「あそこに、誰か、倒れていますぅ。」
昴の指差す方向には、必死に起き上がろうとする、朝顔の姿があった。
「お母様!」
「天莉凜翠、来てはなりません。」
駆け寄って、抱き起こそうとする娘を、母は残った左腕で制止した。
「お母様こそ、もう、動かないで。そんなに血が……。」
「私は、這ってでも、本陣を守りに行きます。お前も、私になど構わず、早く行くのです。」
「出血多量で、死んでしまいます!」
なおも近付こうとする娘に、朝顔は、落ちていた薙刀の柄を拾い、突き付けた。
「行くのです、天莉凜翠。私は、命に未練などありません。」
鬼の形相の母に、固まるリリス。
「もちもち? もみじ、かずおみ。すぐ、きて ほちいの。けがにん なの。」
その時、プリ様がスマホで、外で待機中の、紅葉と和臣を呼んだ。
「何をしているのです? 符璃叢。一般人を、招き入れるなど、許しませんよ。」
「じんのういん とうしゅ だいこうけんげん なの。」
「なら、その戦力を、本陣防衛に回しなさい。」
「どうみても しんじゃうの、おばたま。このまま ほっといたら。」
「だから、言っているでしょ。命など惜しくな……。」
「いのちはー!!」
突然、プリ様が大声を上げ、朝顔の言葉は中断された。
「いのちは うしなわれちゃ いけないの。そんなに かんたんに!」
昴も、リリスも、見た事も無い、感情的に話すプリ様の姿に、度肝を抜かれ、眺めているしか出来なかった。
「おばたまが しぬの。みんな、かなしむの。りりすも かなしむの。それに……。」
プリ様は、肩で、ハアハアと、息をしながら、叫び続けた。
「こよした こだって こうかい すゆの。ずっと、くゆしみ つづけゆの!」
誰も、一言も発しなかった。プリ様が、お鼻を啜る音だけが、辺りに響いていた。
「そうか……、符璃叢。貴女も、その歳で……。」
朝顔は、諦めたみたいに、溜息を吐いた。
「分かりました。私は、此処で、貴女達の仲間を待ちます。だから、先に本陣に向かいなさい。」
そう言われて、プリ様達は歩き出し、暫くして、振り返った。
「おばたま。もみじ、てとあしは くっつけて くれゆと おもうの。」
「ほう、優秀な回復師なのですね。」
「た、ただその、ちょっと、死ぬ程痛いの。彼女のヒーリングは……。」
「笑止。私が、今までに、痛みも知らずに生きて来たと思うのですか? 天莉凜翠。」
朝顔は、姪と娘の心配を、鼻で笑った。
「そ、そうですか……。私を恨まないで下さいね、お母様。」
「ぷ、ぷりも うらまないで ほしいの。」
「口説い。早く、行きなさい。」
大丈夫かな〜、と思いつつ、プリ様達は先を急いだ。十分後くらいに、恐らく朝顔のものであろう「あっ、ああああああー。」という絶叫が聞こえ、三人は『やっぱり……。』と、首を竦めた。
「どうしたの? おじょうちゃん。さっきの いせいは。」
フルは、自分の方に向き直った切り、動かなくなった翔綺を、嘲笑った。
「少なくとも、幼児に、お嬢ちゃん呼ばわりされる謂れは無いわ。」
敵の出方を伺っていた翔綺は、この機に、一気に攻撃に出た。
「翔綺鋼糸結界!」
右手を勢い良くフルに向かって振ったのだ。
「? なにを したの かしら? わたしは むきずよ。」
「でも、もう、動けない。」
「あれ? あれあれ、まあ。」
見えない細い糸が、蜘蛛の巣が如く、己の周りに張り巡らされているのに、フルは気付いた。
「やるわね。」
「必死で訓練したんだから。」
ドヤ顔で、翔綺は言った。
母の、姉に対する、厳し過ぎる態度を見て、自ずと、我が身の事も、考えるようになった。役に立たなければ、捨てられるのではないか、と。
そして、何よりも、姉に近付きたいと思った。姉が、いつか、帰って来た時、並び立てる程の強さを欲したのだ。
やがて、神王院家に、従妹の符璃叢ちゃんが生まれた。その誕生祝いに、姉が一時帰国すると聞かされて、翔綺は、舞い上がらんばかりに喜んだ。
その時の、姉の活躍は素晴らしかった。誰にも見えない塔を探り当て、胡蝶蘭さんと組んで、十年もの間行方不明だった、光極天家の昴さんを、救い出したというのだ。
胡蝶蘭といえば、当時、十代の少女の中では、御三家最強と目されていた人だ。そんな人と、姉は、同等の能力を有している。誇らしく、嬉しかった。
それなのに、美柱庵の者達は、姉の功績を聞いても、微妙な顔をするばかりであった。兄の英明などは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そして、姉は、家に戻る事なく、英国に去って行った。
「私だって、私だって、天莉凜翠姉様の妹よ。貴女達とだって、戦えるんだから!」
「…………。あなた、びちゅうあんけの ちょうじょ だから、たしか、しょうきちゃん?」
「次女よ。天莉凜翠姉様が居るもの。」
「ふふふ。なあんにも しらないのねえ。」
フルは、小馬鹿にした笑いを浮かべ、その態度が、翔綺を激昂させた。
「ふん。もう、貴女の負けなんだから。ちょっとでも動いたら、手や足が落ちるわよ。」
「ひとつ、せんぱい として、おしえておいて あげるわ。」
突如、フルの周囲から、激しい風が吹き上げ、翔綺は、張り巡らせた鋼糸ごと、吹き飛ばされた。
「この ていどの いましめで、うごけなくなる まもの なんて いないのよ、しょうきちゃん。」
壁に叩き付けられた衝撃で、動けなくなった翔綺は、痛みを堪えながら、うつ伏せに寝転がり、フルを見上げた。
「姉様が、長女じゃないって、どういう事?」
「あのこ には、びちゅうあんの ちは いってきも ながれてないの。」
「?!」
「りりすちゃんは、あなたの おかあさんと じゃあくなりゅうが、えっちな ことをして うまれた、けがれたこ なの。」
姉様が……。翔綺は、兎笠の生まれた時の出来事を、思い出していた。
符璃叢ちゃんの生まれた、翌年の二月、妹の兎笠が生まれた。妹が生まれたのも嬉しかったが、今度こそ、姉が帰郷するだろうという期待も大きかった。
「天莉凜翠には、帰って来なくていい、と言い渡しました。」
病室で母に、姉は何時帰るのか、と聞くと、そう答えられた。母のベッドの隣では、兎笠が、スヤスヤと、眠っていた。
あまりにも、姉が可哀想だった。どうして、そこまで、辛く当たるのか。産院を出た翔綺は、姉への想いで、頭をいっぱいにしていた。
すると、寒い歩道で、母の病室を見上げている少女が居た。見た事も無い美少女だった。ずっと、見惚れていると、彼女も翔綺に気が付いた。
「翔綺……ちゃん?」
美少女は、翔綺の名前を、呼んだ。呼んでから、ハッとした表情になり、駆け出した。翔綺の心臓は、早鐘の様に鳴った。
『姉様?! 姉様だ!』
翔綺は、彼女の後を追ったが、もう、何処にも居なかった。
その時の美少女の寂しそうな顔、自分を見詰めた美しい瞳、全てが翔綺の心に焼き付いて離れなかった。
「言うな……。」
「えっ、なに?」
「姉様を、穢れた子なんて言うなー!!」
立ち上がりざま、翔綺は、残っていた鋼糸全てをフルに向かって投げ、彼女をグルグル巻きにした。
「もう一度言ってみなさい。身体をバラバラにして上げる。」
「おっどろいた。さすがは ごさんけのこね。まだ うごけた なんて……。」
感心した様に呟いた次の瞬間「ひこう!」と叫ぶフル。体内から、勢い良く飛び出したクナイに、鋼糸はズタズタにされた。それを見て、翔綺は、最後の気力も尽き、その場に膝を折った。
「おわり かしら? しょうきちゃん。」
迫り来るフル、その手にはクナイが握られていた。
「ころしは しないわ。でも、わたしに はむかった ばつは あたえないとね。」
動けない翔綺のお腹を、フルは蹴飛ばした。何度も、何度も、蹴りを入れ、頭を踏み躙った。
「どげざ しなさい。みじめに ゆるしを こうのよ。そうしたら、やめて あげる。」
「…………、まれ…………。」
「なあに? きこえないわ。」
「姉様を悪く言った事、謝れー!」
頭を踏まれ、涙を流しながらも、翔綺は、そう絶叫した。それを聞いたフルは、歯を噛み締めた。
「まだ、そんな ざれごとを……。いいわ。てあしのけんを きって、いっしょう うごけなく してあげる。」
フルがクナイを振り下ろした。
「姉様ー!」
悲鳴を上げる翔綺。その時、天沼矛の輝く刃先が、フルのクナイを破壊した。
「姉……様……。」
「もう安心して、翔綺さん。私が、貴女を絶対守る。」
駆け付けたリリスが、フルと翔綺の間に、割って入ったのだ。フルは、リリスを、憎々しげに睨み、その場の空気は、一気に張り詰めた。
そんな状況ですが、兎笠は寝ていました。