天莉凜翠お姉ちゃんよ
その日の朝、リリスは身支度を整え、食堂に向かった。前日は、オクとのデート帰りにプリ様の家に寄ったが、珍しく泊まらずに、美柱庵屋敷に戻っていた。
食堂には、すでに、母の朝顔が座っていた。リリスが来ると、チラッと視線を流した。
「お早うございます。お母様。」
「お早う、天莉凜翠。」
それ切り、一言も発しなかった。これは、リリスにだけでなく、他の子供達に対してもそうで、朝顔は、家中でも、決して無駄口を叩かなかった。
リリスが朝顔の隣に座ると、小学三年生の妹、翔綺が入って来た。
「お姉様ー。」
そして、リリスを見付けると、嬉しさを爆発させて、隣に座った。
「もぉぉぉ、お姉様。お姉様、お姉様、お姉様ぁぁぁ。」
「翔綺、朝の挨拶はどうしました?」
朝顔に窘められて「オハヨ、お母様、お姉様。」と、おざなりに言い添えた。
「お姉様、寂しかったぁ。いっつも、神王院家にお泊りなんですもん。」
「寂しくはないでしょう? 他の兄弟達だって居るんだし。」
「克実は馬鹿だし、兎笠は、小さ過ぎるでしょ? 女の子のお話は、お姉様とじゃないと出来ませんもん。」
「誰が馬鹿だって?」
そこに、翔綺の双子の弟、克実が現れ、軽く彼女の頭を小突いた。
「おおっ、怖。ほらね、お姉様。男の子は乱暴だから嫌なの。」
小声で、言付けて来る翔綺の様子に、リリスはクスクスと笑いを漏らした。
「英明さんは?」
「英明兄様……。」
そう問われて、翔綺は、言葉を濁した。
「此処だけの話よ? お姉様。英明兄様は、私の身体をイヤラシイ目で見ていて……。」
「人聞きの悪い事を言うな。」
いつの間にか来ていた英明からも、翔綺は拳骨を食らっていた。
「ち、違うからな。」
リリスに向かって、否定する英明。
「嘘よ。藤裏葉が言ってたもん。英明坊ちゃんは好色だから、きっと、翔綺様の事も、エッチな目で見ているに違いないって。」
「藤裏葉の言葉など、真に受けるな! 頭のネジが飛んでいるんだ、あの女は。」
大声で言い合いをする二人を、朝顔が叱ろうとした時……。メイドさんに連れられて、末娘の兎笠がやって来た。
「おはよう ございまちゅ。おかあさま、ひであきにいさま、しょうきねえさま、かつみにいさま……。」
兎笠は、実にゆっくりと、全員の名前をよび、最後にリリスを見た。
「ええっと……。」
考える兎笠。考える、考える……。
「ええっとぉ……。」
ニコッとしてみるリリス。
「ええっとぉぉぉ……。」
兎笠の顔が、クシャッと、崩れて……。
「ふっ、ふえっ。ふええええええええん。」
「あああっ。泣かないで兎笠。天莉凜翠よ。天莉凜翠お姉ちゃんよぉ。」
リリスは、慌てて、兎笠を抱き上げた。
「ほうら、良し良し。泣かない。泣かない。」
頬ずりをして上げると、兎笠も少し落ち着いて来た。
「お姉ちゃん、いっつも、お家に居ないものね。覚えられないよねー。ごめんね、兎笠。」
ちなみに、兎笠は、父親の実明の顔も、うろ覚えだ。
「あみゃ……あみゃ……り?」
「ア・マ・リ・リ・スよ。」
「あみゃいいす……、あみゃ……。」
再び、兎笠の顔が、クシャッと歪んだ。
「ふっ、ふえっ。ふええええええええん。」
「い、良いの。良いの。言えなくても良いのよ。お姉ちゃんの事は『リリス』って呼んで。」
「りりす?」
「うん、リリス。」
「りりすねえさま……。いえたぁ。」
「うん、うん。兎笠は賢いねえ。」
さしものリリスも、幼い妹には、タジタジであった。
ともあれ、仕事で出張中の当主実明を除いて、美柱庵本家の家族揃っての朝食が、始まったのであった。
所変わって、此処は、お馴染みの、神王院家地下施設。近頃では、ポ・カマムの可愛い雄叫びで、職員が目覚めるのが、常になっていた。
「おっ、ポッカマちゃんの雄叫びだ。そろそろ、朝食の仕込みを始めなきゃな。」
と、料理長の長田さんが思い、ペネローペさんが、
「おやまあ、ポ・カマムさんが、お叫びになっていますね。そろそろ、お嬢様のお召し物の準備をしましょうか……。」
と考え始めるのだ。
プリ様は、それより、ごゆっくりされていて、使用人達の仕事が一段落する頃、お目覚めになる。
「プリ様〜。たまには、昴に、お着替えをさせて下さいぃ。」
時間の巻戻しが終わって、頭がしっかりして来ると、そう言って、プリ様に抱き付くのが、最近の昴の習慣だった。
「もう、すばゆは。ぷりは あかちゃん じゃないの。」
何時もなら、そう言いつつも、昴をかまって上げるプリ様なのだが、今日は、フッと遠くを見て、溜息なぞを吐いていた。
同じ部屋で、その様子を見ていた胡蝶蘭は、プリ様がお手洗いに行っている間に、昴に聞いてみた。
「プリちゃん、元気無いみたいだけど、何かあった?」
聞かれた昴は、少し言いづらそうに、一昨日の、ハギトとの一件を伝えた。
「何気ない風を装ってますけど、きっと、プリ様、ハギトちゃんの言った事を気にしているんですぅ。お可哀想ですぅ。」
「そうね……。」
胡蝶蘭も、母として、泣き言も言わずに耐えている娘が、いじらしかった。なので、お手洗いから出て来たプリ様を、ギュッと、抱いてやった。
「わっ、おかあたま。ど、どしたの?」
「プリちゃん……。悲しい事や、辛い事があったら、何でも、お母様に言って良いのよ。もっと、甘えて……。」
「おかあたま……。」
プリ様も、小さなお手手で、キュッと、胡蝶蘭の服を掴んだ。
「ぷりね、わかゆの。はぎとの きもち。むねが いたくなったの。れいが いなく なったとき。おんなじなの、はぎとも。」
「プリちゃん……。」
親娘は、暫し、抱き合っていたが、胡蝶蘭の胸中には、別の心配も、湧き上がっていた。
『ハギトちゃんも、いずれは敵になる。あまり、敵の心情を理解出来てしまうというのも、危険よね……。』
他者の痛みを分かってやれる、娘の優しさは誇らしかったが、いざ戦闘となると、その優しさは毒にしかならない。戦場で非情になれない者は、生き残れないのだ。
それを、娘に、どう伝えればいいだろう? 胡蝶蘭は、逡巡していた。
「あ、あのね、プリちゃん……。」
意を決して口を開いた時、カラリと襖が開いて、ペネローペさんが入って来た。
「奥様、お食事の用意が整いました。」
「うわーい。おかあたま、いこ。おなか へったの。」
食堂に駆け出したプリ様を追う昴。言いそびれた胡蝶蘭は、モヤモヤした胸中を抱えながら、自身も食堂に向かった。
「それで、この長文メールなのね……。」
お昼休み、屋上に集ったリリス、紅葉、和臣は、それぞれのスマホに届いた、胡蝶蘭からの、同じ内容のメールを見せ合った。
そこには、ハギトと戦闘状態になった時、くれぐれも、プリ様を頼むと打たれていた。
「まあ、叔母様の心配も分かるわ。しっかりしているけど、よく考えたら、プリちゃんって、うちの末の妹と同い年だものね。」
「えっ。リリスって、そんな小ちゃい妹が居るの?」
リリスの家族の話となって、一緒に居た渚ちゃんが、食いついて来た。
「い、一度、リリスの家に、遊びに行きたいなあ。きっと、妹ちゃんも、良い子なんだろうなあ。」
「あらあら、ありがとう。でも、三歳なんて、本当にまだ、ほんの子供よ。」
その、本当にまだ、ほんの子供に、お前は、本気で恋しているだろうが。と、突っ込みたいのを、和臣と紅葉は、我慢していた。
「まあ、そのうちね。今日は、プリちゃんちに行く予定だし。」
オクとのデートで分かった事などを、パーティメンバーで共有しておきたいのだ。
「てことは、裏葉さんも来るんだな?」
さり気なく聞く和臣を、リリスはジトッと見た。
「和臣ちゃん? 一応、言っておくけど、前世の感情なんかは、引きずらない方が良いわよ?」
「変な言い方をするな。ただ、聞いただけだろ。」
「…………。まあ、残念だけど、今日は裏葉さんは来ないわ。美柱庵十本槍の訓練の日だから。」
ただ、聞いただけ。と言いながら、来ないと知った和臣は、ガッカリとした表情になった。
「もおおお。お兄ちゃんの浮気者! 宮路さんの次は、裏葉さんなの?! 紅葉ちゃん、もっと怒っていいよ。」
渚ちゃんに、そう言われた紅葉は、とりあえず、和臣のお尻を抓っておいた。