ただ待っているの
三体目が降りて来た。それは、オクにとっても、まったくもって、予想外の事態であった。
『ほ、ほんとうに くえない おんな だわ。』
オクがイシュタルのやり口を理解しているのなら、逆もまた真なのである。
「む、無限に降りて来るのじゃないの……?」
リリスがポツンと口にした。
「いえ、たぶん これで さいごよ。」
制御の効かない怪物など、多数保有しても災厄の種にしかならない。恐らく、天界にある全てのウルリクムミを投入して来たのだろう。
オクの説明を聞き、リリスは、何としても「シシク」を……、いや三つの刀全てを、始末しようとする神々の本気を感じ、恐怖を覚えた。
「とにかく……。」
オクは、リリスの腕から飛び降りた。
「あのおんなの おもいどおり には させないわ。」
バーチカルカッター! と叫んで、腕を縦に開いたが、何も出ず、オクはその場に、ペシャンと転んでしまった。
「だ、大丈夫?」
駆け寄るリリスの前で、オクは手足を、バタバタさせて、悔しがった。
「あと、こいちじかんも あれば、ちからが もどるのに。そしたら、あんなやつ めじゃないのに。」
しかし、それだけの時間が経てば、ウルリクムミは取り返しのつかないところまで成長し、地球は割れてしまうだろう。
「ぷりが やゆの!」
その時、昴の膝枕で眠っていた。プリ様が立ち上がった。
「でもプリちゃん……。」
リリスが、思わず、声を上げた。もう、姉二人のアシストはない。それにプリ様だって、膝はガクガクで、万全の体調ではないのは、一目で分かった。
「や、やゆの。」
プリ様は、ミョルニルを杖代わりに立ちながら、それでも、キッと、黄金のウルリクムミを見上げていた。
「まもゆの! この せかいを。」
メギンギョルズの羽が眩く発光した。そのまま、一気にウルリクムミの頭まで飛び上がり……。
「くらうの。ぷりの さいこうの いちげき……。」
ミョルニルは、凄まじい量の電荷を帯び、スパークしながら、ウルリクムミの脳天に叩き付けられた。一瞬止まるウルリクムミの動き。
やったか? と、下で見ていた皆んなは、固唾を飲んだ。
メキッと、皹が入ったのは、ミョルニルの方だった。最後の力を振り絞った、最高の一撃を跳ね返され、プリ様は、ミョルニルの破片と共に落下した。
それでも、落下しながらも、ミョルニルの柄を、ウルリクムミの方に突き出し、戦う意志を示し続けるプリ様。
「たたかうの……。まもゆの……。」
ほとんど意識を失いながらも、そう呟くプリ様を、ソッと、地上で受け止めたのは、胡蝶蘭であった。
「プリちゃん、立派でしたよ。よく戦いました。」
優しい母の腕に抱かれながら、それにも気付かず、プリ様は、必死で、ウルリクムミに向かって、小さなお手手を伸ばし続けた。
「もう良いの、プリちゃん。もう、貴女は戦わなくて良いのよ。」
胡蝶蘭は、涙を落としながら、プリ様に柔らかく、頬ずりをした。
「言ったでしょ? 貴女が力尽きた時は、お母様が、きっと、守るって……。」
その言葉を、近くで聞いていた和臣と紅葉は、ハッと目を剥いた。
「待って、コチョちゃん。貴女いったい……。」
話し掛ける紅葉には応じず、胡蝶蘭は空を見上げていた。
「裂け目が、ゲートが閉じていくわ……。」
彼女の言う通り、最後のウルリクムミを放出したゲートは、その役割を終え、静かに閉じゆこうとしていた。
「あんな物騒な物、天界にお返ししなくちゃ。ね?」
ただならない気配を感じ、自分の周りに集まっていた皆んなに、胡蝶蘭は、ニッコリと、笑い掛けた。そして、今一度、名残惜しそうに、ギュッと抱き締めてから、昴にプリ様を託した。
「さて……。」
まるで、買物にでも出掛けるかの如く、気安い声を出して、彼女はウルリクムミの方に向き直った。
「コチョちゃん、何する気? 一人じゃ無理でしょ。」
「そ、そうよ。叔母様……。」
必死で止める紅葉とリリスに、胡蝶蘭は振り返らずに言った。
「子供を守るお母さんはね、どんな敵にも負けないの。」
ちょっと間をおいて続けた。
「貴女達も、いずれ分かるわ。」
次の瞬間、辺りの空気が重々しく引き締まった。胡蝶蘭が、精神の統一を始めたのであった。
「何だ? この大気を震わす精神波の渦は……。」
和臣が呟いた途端、皆んなは思い至った。
神威?!
それは、イシュタルの様に威圧的でもなく、オクの様に攻撃的でもなかった。ただ、遍く世界に慈悲を与えるかの様な、全ての命を優しく包み込む波動だった。
「やめなさい。あなたは わたしと ちがって、かみの ちからを こうげき には つかえない。」
リリスの胸元に抱きかかえられているオクが、意を決したという様子で語り掛けた。胡蝶蘭は、そのオクを、ちょっと振り向いた。
「でも、私は貴女だもの。力の大きさは同じだわ。」
「おもいだしたのね?」
「いいえ、何も思い出してなんかいない。ただ、分かるの。娘を救うのに、為すべき事が。」
胡蝶蘭は、もう振り返らず、一歩一歩、ウルリクムミに近付いて行った。ウルリクムミの防御圏内に入ると、無数の腕が、彼女に殴りかかろうとしたが、途中で萎縮したみたいに、その動きを止めた。
「な、なんなの? コチョ様止めなくちゃ、って思うのに、身体が動かない。涙が止まらない。」
藤裏葉が叫んだ。それは、皆も同じだった。胡蝶蘭から発せられる、寄せては帰る波を思わせる、穏やかで静かな気の温もりが、その場に居る者全ての心に染み込み、落涙させた。
「くそ。何なんだ、これ。帰りたくて、帰りたくて、堪らない。」
和臣も、己の心中が理解出来ず、声を上げた。それもまた、全員が感じていた事だった。帰りたい、帰りたい。何処へ?
家でも、故郷でもない。もっと根源的な場所。自分が生まれ出でた所。ただ安らかで、暖かな楽園……。
心が満たされていった。猜疑心、嫉妬心、敵愾心……、人を不幸にする、あらゆる負の感情から解き放たれ、安心でき、至福であった。
「イシュタル神の、踊りや歌には、一切心を動かされなかったみたいだけど……。」
ウルリクムミの足元に辿り着いた胡蝶蘭は、彼の硬い身体に触れながら言った。
「お母さんはね、ただ待っているの。何処へ行っても、何をしても、お母さんだけは、いつでも子供を待っててあげるの。これが母の愛よ。貴方に分かるかしら?」
グオンガッラー。突如発せられる、金属がぶつかり合う様な、ウルリクムミの咆哮。無機質な中にも、戸惑いを感じさせる叫びであった。
「嘘でしょ? アイツ、泣いている……。」
紅葉が、悲鳴にも似た、声を漏らした。ウルリクムミの頭部の、目に当たる部分から、確かに涙が流れ出ていたのだ。
「そう……。貴方も帰りたいのね。」
ウルリクムミの足に両手を当てたまま、精神集中をする胡蝶蘭。彼女の身体が輝き出した。
「お帰りなさい。」
ウルリクムミの全身が、胡蝶蘭の発する光に包まれ、暫くすると、その巨体が浮き始めた。そして、吸い込まれるみたいに、閉じかけていた空間の裂け目へ……。
浮き上がっていくウルリクムミの真下に立って、持ち上げる仕草で、胡蝶蘭は、両手を天に伸ばした。
ウルリクムミの頭が裂け目に入った。続いて上半身、腰……。
全身が亜空間ゲートの向こうに戻った時、ちょうど良いタイミングで、ゲートが閉じた。
『おかあ……たま。』
プリ様は、朦朧とした意識の中、胡蝶蘭の姿を眺めていたが、天の裂け目が閉じると同時に、自分を抱いている昴の手から抜け出して、ヨロヨロと、胡蝶蘭の方に向かって行った。
「おかあたまー。」
「プリちゃん。」
呼ばれて、ニッコリ、プリ様の方に向き直る胡蝶蘭。ヨタヨタと近寄って来る我が娘を、微笑みながら見守っていたが、やがて、自分の所まで到達すると、しっかりと、両手の中に包み込んだ。
「おかあたま。おかあたま。」
胡蝶蘭が、何処かへ行ってしまうのではないかと、心配していたプリ様は、安堵で涙をボタボタ落としながら、必死で彼女にしがみついていた。
「甘えん坊のプリちゃん。お母様、何処へもいかないわよ。」
もう一度、キュッと抱き締めて……。
胡蝶蘭は、プリ様に寄りかかる感じで、膝をついた。
「おかあたまー!」
絶叫するプリ様。すると、母の両手は、弱々しくだが、再び娘を抱き締めた。
「大丈夫だから。ちょっと疲れただけ……。」
そのまま、胡蝶蘭は、泥の様な眠りに落ち込んでいった。




