幸せな家族を描いた一幅の絵画
新宿御苑の異世界化が解除された事は、ゲート前で待機していた御三家関係者には、すぐに分かった。
おおっ、と安堵の声が漏れるとともに、あの雛菊を首魁とする、幼女神聖同盟の企みを、三度も跳ね返したプリ様パーティの実力に、驚嘆の声も上がっていた。
「英明は……、英明は無事なのか……。」
自分に寄り添うように立つ妻の朝顔に、美柱庵家当主、実明は呟いた。
「大丈夫ですよ、あなた。私達の娘、天莉凜翠は、きっと、弟を助けて、戻って来ます。」
「私達の……娘……?」
「そうですよ。」
そうだった。龍の子を孕った朝顔を嫁にすると決めた時、お腹の子供ごと愛そうと誓った筈なのに……。
「あの子には、辛く当たってしまった。私を恨んでもいただろうに……。英明を助ける為に……。」
実明は、顔を両の掌で覆い、嗚咽を堪えた。
覚悟が足りなかったのだ。子供が何をしようと、例え世界中から疎まれる存在であろうと、愛し抜くのが親ではないか。
「謝ろうと思う。今までの全てを。あの子は許してくれるだろうか?」
「天莉凜翠は誰も恨んでませんよ。」
私以外はね。と、その言葉は口には出さない朝顔であった。
美柱庵十本槍の何人かが、斥候として御苑内に入り、やがて、リリスと英明、和臣と紅葉を連れて出て来た。リリスは、ともかく、他の三人は疲労困憊の状態であった。
「リリスちゃん!」
胡蝶蘭は近寄り、血塗れの和臣と紅葉を見て、息を呑んだ。
「大丈夫よ、コチョちゃん。怪我は治っているの。」
「ああ。だが、血が少し足りないかな……。」
そこまで言って、二人は地面に倒れ込んだ。
「救急車を!」
胡蝶蘭の指示で、担架に乗せられる二人。
「コチョちゃん……。」
運ばれながら、紅葉と和臣は、同時に語りかけた。
「プリを頼む。支えてやって……。」
言葉は途中で、救急車に連れて行かれた。
『そういえば、プリちゃんと昴ちゃんは……?』
四人の後から来るのだろうと思っていたのに、一向に出て来る気配が無い。
「リリスちゃん。プリちゃんは、どうしたの? 昴ちゃんは? まさか……。」
胡蝶蘭は、風間至誠から、ジャケットを着せてもらっているリリスに問い掛けた。
「落ち着いて下さい、叔母さま。大丈夫ですよ、二人とも無事です、身体は。でも……心の方が……。」
「心……?」
「今回、異世界化を企てた七大天使ファレグは、その……、空蝉山で、プリちゃんとお友達になった、玲ちゃんだったみたいで……。」
二人の無事を聞いた胡蝶蘭は、ひとまず、安堵に胸を撫で下ろした。
「ショックだったのね、プリちゃん。大丈夫よ。玲ちゃんが目覚めれば、きっとまた、お友達に戻れる。」
「いえ……、玲ちゃんは、六花の一葉をプリちゃんに渡すと、消えてしまったんです。」
リリスから詳しい話を聞いた胡蝶蘭は、話が終わるや否や、駆け出していた。傷心の我が娘の元へ。
現世に戻った新宿御苑は、夏の長い夕暮れの中に、沈もうとしていた。
不快な湿気と、むせ返るような暑さ。汗に濡れた身体に、着ている服やスカートが纏わりついて来る。そんな事も気にならないくらい、胡蝶蘭は無心に走っていた。
やがて、御涼亭と呼ばれる建物の側で、呆然と立ち尽くすプリ様と、そのプリ様の後ろで、泣きじゃくっている昴を見付けた。
「プリちゃん! 昴ちゃん!」
呼び掛けると、昴は振り返ったが、プリ様は呆然としたままであった。
「おおお、奥様ぁぁぁ。」
途方に暮れた表情で、胡蝶蘭に縋り付いて来る昴。
「プリ様が、プリ様が、お可哀想でぇぇぇ。」
「話は聞いたわ。」
胡蝶蘭は、そっと昴を脇に避けた。
「プリちゃん……。」
夕陽に照らされる、小さな娘の両肩に、母は、背後から、静かに手を置いた。
「おかあ……たま……。」
その時、やっと気付いて、プリ様は後ろを向いた。
「れいが……きえちゃったの……。」
「……うん。」
「わたちが 、ぷりが、りっかのいちよう もらっちゃったから……。」
「…………。」
「へいわ なんて。へいわ なんて。なんの いみも ないの。れいが きえちゃうなら……。」
「プリちゃん……。」
胡蝶蘭は、プリ様の背中を、抱き締めた。
「本当に、そう思う? 平和なんて意味ないと、本当に、そう思う?」
「へいわ より、だいじ。れいの ほうが だいじなの。」
絞り出すみたいに言葉を押し出す娘の様子に、その辛さを感じ取った胡蝶蘭は、小ちゃなお身体を抱く腕に、力を籠めた。
「プリちゃん、お母様と一緒に来て。貴女が、何を守ったのか。見せて上げるから……。」
胡蝶蘭は、プリ様を誘って、歩き始めた。
「英明! 心配かけおって……。」
ゲート前では、無事な息子の姿を見て、安心した実明が、息子に説教を始めていた。
「自信は有りました。この七支宝剣さえあれば、敵を殲滅出来ると。」
口答えする息子に、カッとなって実明が手を上げると、朝顔が、まあまあ、と宥めた。
「読みが甘かったわね、英明。」
「は、はい。お母様……。」
蛇に睨まれた蛙みたいに、縮こまる英明。
「天莉凜翠、こっちにおいで。」
不意に、実明が、風間至誠や、藤裏葉と話していたリリスを呼んだ。その優しい声の響きに、彼女は、少し、戸惑った。
「お……父様……。何か……?」
父と呼んで良いのかも判然とせず、リリスは、恐る恐る、返事をした。
「英明を助けてくれて、ありがとう。」
実明は、近付いて来たリリスの目を、しっかり見ながら、礼を言った。
「お、弟を助けるのは、当たり前です。」
「……そうだな。お前は、私の自慢の娘だよ。」
何を言われたのか理解出来ず、リリスは父を見返した。
「天莉凜翠。今までの事、許して欲しい。私の娘として、これからも……一緒に……。」
胸が詰まって、声が出なかった。七年前、動物の様に檻に入れられて、港に運ばれて行くリリスを、見送った時の記憶が蘇ったのだ。幼い彼女は、心細さに、唇を震わせていたというのに……。
『なんて酷い事をしたんだろう……。』
「許して……、許してくれぇ。天莉凜翠……。お父さんが悪かった。悪かったんだ……。」
美柱庵家、当主としての立場も、かなぐり捨て、実明は、リリスを抱き締めて、泣いた。一人の父として、泣いた。
リリスも、また、泣いていた。天を仰いで、泣いていた。正直、恨んでいた時期もあった。そんな七年間の憎しみや悲しみが、父の涙に溶かされていく思いがしていた。
「英明、お前も来なさい。姉さんと仲直りするのだ。」
言われた英明は、プイと顔を背けた。
「英明!」
怒ろうとした実明を、リリスは首を振って止めた。
「良いんです。英明さんが、私を憎むのも分かります。」
そう言って、英明に近付き、ニコリと笑った。
「約束したものね。無事に帰れたら、また、喧嘩しようって。」
美しく微笑む姉の顔を見ていると、異世界で抱き締められた時の、柔らかな身体の感触を思い起こした。包み込まれるが如き、その慈悲を……。
「ね、姉さん……。」
「えっ?!」
「助けてくれて……ありがとう……。」
礼を言われたリリスの表情は、満面の笑みをたたえていた。
「見て、プリちゃん。あれが、貴女の守ったものよ。」
ゲートまで、やって来たプリ様は、リリス達、親子姉弟の様子を、目を見開いて見ていた。
家族の輪の中で、心から笑うリリス。実明も、英明も笑っていた。あの朝顔でさえ、口の端を少し緩めていた。
それは、まるで、幸せな家族を描いた一幅の絵画。
「ぷりが まもった……。」
「そうよ。リリスちゃんの、美柱庵家の人々の、幸せな日常を、貴女が守ったの。」
玲を犠牲にして……。
『貫き通して欲しい。人々を守る、その正義を。』
玲とした最後の約束が、プリ様の胸に、痛い程焼き付けられた。
「せいぎを つらぬき とおす……。」
「プリちゃん?」
「れいと やくそく したの。せいぎを つらぬき とおすって。」
正義を貫き通し、その先にあるもの。それは、懸命に日々を生きる人達の、ささやかな幸せ。
何を犠牲にしても、守り抜かねばならないもの。
「これで……よかったの? れい……。」
玲の言葉の奥に秘められた、彼女の優しさが身に沁みた。失ったものの大きさを、改めて感じたプリ様は、その頰を涙で濡らしていた。