悪意に満ちたこの世界を君と一緒に歩もう
宴は終わり、夜は更けた。
祝宴会場は人がまばらになっていた。トールはジョッキのお酒をグッと飲み干すと立ち上がった。
とうとう恐れていた時間が来たのだ。「いや……。」と小さく声が漏れてしまった。動けないでいたら、担ぎ上げられて肩の上に載せられた。
「おう、トール。いよいよ、お待ち兼ねの時間だな。」
まだテーブルに着いていた男達が下品に笑った。
「それにしても辛気くさいガキだな。」
「でも、すげえ美人だ。スタイルも良い。夜の相手だけなら最高の逸品だぜ。」
去り際に、そんな会話が耳に入った。私の価値は、私の存在意義はそれしかないんだ。もう涙も出なかった。心は空虚に塗り潰されていった。
☆☆☆☆☆☆☆
ゴツン!
紅葉の鉄拳がエロイーズの頭を打った。
「何するの?!」
「鬱陶しいのよ。いつまでもウジウジと。言いたい事があるならはっきり言いなさい。」
「もみじ。えよいーず、なにかおこってゆかや。」
「あんたも一々真面目に付き合ってんじゃないわよ。どーせ、くっだらない理由でむくれてんだから。」
「下らなくないもん。トールが嘘つきなんだもん。」
事態が拗れたな。和臣が嘆息した。いや、別に紅葉に何かを期待していたわけでもないんだけど。
その時気付いた。蜘蛛女がいつの間にか消えている。あれだけあったゴブリンやオークの死体もないし、天井の灯りも心なしか暗くなったみたいだ。
何かが始まっている。
「お前ら、気を付けろ!」
和臣が叫んだのと、エロイーズの身体が宙に浮かび上がったのは同時だった。
☆☆☆☆☆☆☆
街の宿屋の随分立派な部屋をトールはあてがわれていた。彼は今回の戦いの英雄、勝利の立役者らしく、先程の宴会でも口々に皆からその勇気と知性を褒め称えられていた。
「とりあえず、そのドレスは脱いでくれ。」
知らずに唇をグッと噛み締めていた。勝者の男が敗者の女をどのように扱うかは知っていた。これから私は征服されるのだ。心臓が早鐘の如く鳴り、指先が震えた。
「おいおい、何をやっているんだ。下着まで脱がなくても良いんだよ。」
ブラに手を掛けた私を、彼は慌て止めた。
「ほら、これがお前のパジャマだ。そしてこれが明日から着る服。さっきクレオに用意して貰っておいた。」
何を言われているのか良くわからなかった。この男は私を陵辱するつもりなのではなかったのか?
「あの……、何もしない……の?」
「はいぃぃ? お前みたいなガキに手を出す程飢えてないよ。」
いきなり大きな声を出されたので、怖くて身を竦めた。トールは近寄ると、頭を撫でてくれた。今日一日、彼がそんな優しさを示してくれた事は一度もなかった。
「お前は本当に怖がりだな。」
手渡されたパジャマを着たら、ベッドに座っていたトールが自分の隣をパンパンと叩いた。座れという意味だと思い、彼の隣にオズオズと座った。
「今日は一日大変だったな。」
私が何を言われても黙って見ていたくせに。ちょっと腹を立てて、フイと横を向いた。気持ちに余裕が出来ていた。
「怒るなよ。この街の連中は長年魔族に酷い目にあわされて来てな。ヘタに庇うより、ガス抜きさせた方が良いと思ったんだ。」
「私は……。」
「何だ?」
「私はなんにもしてないもん……。」
そうだな、とトールは呟き、ゴツゴツの腕で柔らかく肩を抱いてくれた。
初めて触れた人の温かさだった。
知識だけでは知りえなかった、リアルな繋がり。誰かの体温が涙を触発するなんて……。
「ずっとね……、窓から街を眺めてたの……。」
「うん。」
「目に映るもの全てが大好きだった……、でもその世界は……。」
「うん……。」
「出たいなんて思わなければ良かった。ずっとあの部屋にいれば……。」
「本当にそう思うのか?」
トールは私の両肩を掴み、ジッと目を見た。
「お前はまだ世界ってものをなんにも知らないんだよ。」
ニッコリ笑って、言葉を続けた。
「辛い事の方が多いよ。まあ、それは間違っちゃいない。でもな……。」
「でも?」
「そんなもの全部帳消しにするくらい楽しい出来事だって、いっぱい散りばめられているんだ。」
「嘘……。」
「嘘じゃない。これから俺とその楽しい事を探しに行くんだ。」
トールはそれから自分のして来た冒険の話を夜遅くまでしてくれた。飛び鯨の背中に乗った話。巨人の島で身体より大きいサイコロを使って双六をした話。世界樹を昇って雲に浮かぶ月を見た話……。
「行けるかな? 私も行けるかな?」
「行けるさ。俺が一緒だ。どこまででも行ける。」
二人でベッドに寝っ転がり、私はいつまでもトールにお話をねだった。彼は嫌がりもせず、請われるまま話を続けた。その内、いつの間にか寝てしまっていた。
背中を優しく叩かれると眠ってしまう。これもその時初めて知った世界の真実だった。
翌朝、私達は遅くまで眠ってしまった。先に起きたトールに促されて、眠い目を擦りながら食堂に向かった。
「よお、随分ごゆっくりだな。」
「どうだった、魔族の女の抱き心地は?」
昨夜の楽しい時間が嘘だったのじゃないかと思えるほど、過酷な現実がのしかかって来た。トールの服をギュッと握ると、かれは静かに抱き寄せてくれた。その様子を見た男達は、おや、という感じで口を噤んだ。
その時、朝御飯が運ばれて来た。トールの前には食べ切れないほどの食物が並び、私の前には犬の餌皿に入れられた残飯が置かれた。
「人間の食べ物が頂けるなんて、お前は幸せな魔族だよ。」
食堂の小父さんが恩着せがましく言った。生きる気力が一気に薄れ、涙ぐんだ。
「こいつは今日から俺のパーティの一員になった。喧嘩を売るなら俺が買うぜ。」
トールが落ち着いた口調で言った。
「トール、あんただって魔族に自分の街を焼かれたんだろ? 憎くはないのかい。」
「俺だってこいつの姉貴を殺した。おあいこだ。」
小父さんとトールが言い合っていたら、食堂にいた人達が集まって来た。
「抱いた女に情が湧くのはわかるが、あまりにもだらしがない。」
「そうとも。魔族の女に誑かされるなんて見損なったぞ。」
彼は自分を非難する多くの声に晒されても、泰然自若として聞き流していたが、隣で聞いていた私は我慢が出来なくなった。
「止めて!トールを悪く言わないで!」
初めて大声を上げた。昨日から初めて尽くしだ。
「私ね。トールに助けて貰ったの。昨日はとっても優しくして貰ったの。生きる意味を教えてくれた恩人なの。私が悪いなら罰を受けます。だから、彼を責めないで……。」
涙が零れて溢れ落ちた。身体が震えて止まらなかった。でも、此処で死んでも良いと思った。彼に出会えた、それだけで充分に報われた人生だった。
「凄いわあ。ちょっと妬けちゃうわね。」
食堂の入り口にクレオが立っていた。
「その子は殺されても良い覚悟でトールを庇った。貴方達の誰か一人でも、魔族に対してそんな毅然とした態度が取れたのかしら?」
そう言われて、皆項垂れた。
「もう、みっともない真似はお止めなさいな。これ以上やるなら、うちのパーティの狂犬アイラちゃんが相手をするわよ。」
げっ、アイラが……。皆の顔色が変わった。昨日の栗色の髪の女の子だと思うけど、そんなに怖い人なのだろうか?
「傷付くよなぁ。何さ、その反応。」
クレオの後ろにいたアイラが出て来た。
「ご指名に預かりました、アイラです。私の妹分となるからには、私以外の者がいぢめるのは許さないので、よろしく。」
ってことは、あいつはあの子をいぢめるつもりなのか。
彼方此方で私に対する同情の声が上がった。え、どういう事なの? 何? この皆の反応は。
小父さんは餌皿を下げて、オートミールの入ったお皿を持って来てくれた。
「オカズはトールに貰え。これ以上の情けはかけねえ。」
そう言った後、強く生きな、と励まされた。
え、だからどういう事?
「イサキオスちゃんも良いわね?」
扉の陰にイサキオスもいた。
「野放しにも出来ないしな。俺達が監視役だ。」
それを聞いたトールは私の背中を優しく叩いた。
「皆がお前を受け入れてくれたぞ。」
「…………。」
「お前が勇気を出して世界と関われば、世界もきっと答えてくれる。」
「トール……様……。」
「トールで良い。」
「私の名前はエロイーズです。エロイーズって呼んで下さい。」
「わかった、エロイーズ。これからはずっと一緒だ。」
母親の子宮のように居心地の良い子供部屋から私は追い出された。放り投げ出された世界は悪意に満ち満ちている。でも、隣に貴方が居れば、きっとどこまでも歩いて行ける。
トール…………。
次回、銀座編最終話です。
…………だったら良いな。




