ホックホクのハンバーグ
黒い穴を抜けると、其処は異世界だった。
少なくとも、今まで居た奥多摩の山中とは、全く異なる光景が広がっていた。眼前には、焼けて黒くなった土が、緩やかに盛り上がっている様な、広い山裾があった。
「なにもない やまだなあ。」
ファレグが呆れた声を出した。本当に土ばかりで、植物も何も無かった。時折、柱の様な岩が立っているのが、見えるばかりだ。
「とにかく うえに いくの。」
プリ様が登ろうとすると、何処からか、調子っ外れの歌声が聞こえて来た。見ると、ドレッドヘアに、アロハシャツを着て、肩に大きなラジカセを乗せた、どう見てもレゲエの爺さんが、恐ろしい濁声で歌いながら、近付いていた。
その歌の酷い事……。文字で表現するのなら「ほげぇ〜。」としか書きようのない酷さだ。
ファレグは『うわ〜、へんな ひと。はなし かけないでぇ。』と思っていた。
「よお♫、嬢ちゃん達♫、どうしたよお♫」
うぎゃあああ。話し掛けられたあ。
ファレグは、この世の終わりライクな気持ちになって、頭を抱えた。
一方、プリ様は、彼女とは対照的に、ノリノリだった。
「これからよぉ♫、にせんねんさまの ところによ♫、いくんだよ♫、なの〜。」
「へいへい♫、そいつは大変だな♫、どうしても♫、いくのかい?」
「そうなのよぉ♫、どうしても♫、いくんだよ♫、なのなのぉ♫」
物凄く楽しそうだ。と、ファレグは二人を見ていて思った。
「それじゃあよ♫、前を見て♫、真っ直ぐ行くんだよお♫」
「まっすぐ なの♫、わかったよお♫、ありがとなの♫」
二人は一頻りラップの掛け合いをした後、ニッと笑い合った。
「たのちかったの、おじいたん。もう、いくの。」
プリ様は、レゲエ爺さんに手を振り、ファレグがそれに続こうとしたら「待ちなさい。」と、呼び止められ、二人に一台ずつ、MP3プレーヤーを手渡された。
「わしの歌声が入っておる。これを聴きながら行きなさい。決して振り返ってはならぬぞ。」
何で、こんな最新機器が……。と、思いながら、ファレグが再生ボタンを押すと、先程までのレゲエ爺さんの酷い歌声が、間近で聞こえて来た。最早、音の暴力だ。慌てて音量を下げようとして、ハッと気付いた。
もう、試練は始まっているのだ。恐らく、これは爺さんの言う通りにしておいた方が良い。賢いファレグは、そう判断した。
プリ様は、彼女程賢くはないけれど、元々爺さんの歌を気に入っていたので、ちっこい身体を音に合わせて揺らしながら、登って行った。ピッケちゃんは、プリ様の肩でおネムなので、振り返る恐れは全くなかった。
『何か、こんな話が、アラビアンナイトの中にあったな……。」
ファレグは、岩柱の隣を通り過ぎる時に、思った。
実は、二人には、レゲエ爺さんの大きな歌声に遮られて、全然聞こえてなかったが、彼女達の名前を呼ぶ声が、後ろからずっとしていたのだ。
それは、母親の声であったり、友人の声であったりして、聞こえていれば、必ず振り返ってしまうであろう、感情を揺さぶられる声だった。
だが、レゲエ爺さんの歌の恩恵で、二人は、そんな声に惑わされたりはせず、淡々と歩を進める事が出来た。
そして、やっと、登頂した。緩い斜面だったが、山頂までは、結構な距離があったので、登りきると、プリ様とファレグはヘトヘトになっていた。ピッケちゃんは眠っていただけだったので、暢気に欠伸をしていた。
「よく言付けを守ったの。」
気が付くと、いつの間にか、レゲエ爺さんが目の前に立っていて、聴いていた筈のMP3プレーヤーは消えていた。
「その虚心坦懐な気持ちを忘れてはいかんぞ。忘れると、あの様になる。」
彼の指差す先には、通り過ぎて来た岩柱があった。
「此処に来る奴等ときたら、自信過剰な者ばかりで、わしの言葉に耳を傾けようともせんかったわい。」
なるほど、登っている途中で振り返ると、ああなっちゃうんだ。ファレグは、ちょっとゾッとした。
「たのしい うた なのに……。」
プリ様には、なんで皆んなが、爺さんの歌を聴かなかったのか、理解出来ないみたいだった。ファレグは苦笑いをしていた。
「さて、じゃあ、これが次の関門への入り口だ。」
レゲエ爺さんが、右腕をグルリと回して円を描くと、奥多摩の山中で見たのと同じ黒い穴が出現した。
「ありがとなの。おじいたん、いってくるの。」
まるで、おつかいに行くみたいな気軽さで、プリ様は穴に飛び込んだ。ファレグも躊躇わず、後を追った。その二人を、爺さんは呆れた面持ちで、見送っていた。
「豪胆な子達じゃわい。」
だが、豪胆だけでは、次は突破出来んぞ。
プリ様達の身の上を慮ったのか、爺さんの目が細くなった。
☆☆☆☆☆☆☆
うたた寝から目を覚ますと、通っている高校の図書館に居るのに、符璃叢は気が付いた。
『何か、楽しい夢だったような……。』
子供の頃の夢だ。まだ、小さくて、世界がキラキラ輝いて見えていた頃の……。
「プ、プリ様……?」
声がして、そちらを向くと、同い年くらいの絶世の美少女が、遠慮深げに、自分の袖を摘んでいた。
「昴……?」
「プリ様♡」
昴は隣の席に座ると、符璃叢の腕に抱き付いて、しな垂れかかってきた。
「えへへへ。今はプリ様を独り占めですぅ。」
「どうしたの? いつもは、もっと熱烈に抱き付くのに……。」
所構わずね。と、符璃叢は思った。
「何言っているんですかぁ。子供の頃の話でしょ? 今の人気者のプリ様に、公然と抱き付いたりなんかしたら、ファンの子達に八つ裂きにされますぅ。」
ああ、そうだった。と、符璃叢の頭は、現実に引き戻されつつあった。
神王院符璃叢は十七歳。この女子高校の生徒会長だ。決してボーイッシュという容貌ではないが、学業優秀、スポーツ万能、凛とした佇まいで、全校生徒憧れの的だ。一部の者達は、内緒で、ファンクラブまで作っている有様だ。
一方、昴は、学業だけ優秀で、スポーツダメ、気弱でオドオドしていて、普段は牛乳瓶の底みたいな伊達メガネをかけているので、その美貌も認知されていなかった。
唯一の取り柄の学業も、たまに名前を書き忘れて、零点を取ったりするせいで、周りからは、ダメな子扱いをされていた。
「わ、私のようなダメな子が、プリ様と付き合っているなんて知られたら、スキャンダルになっちゃいますぅ。」
「そっか、そっか。って、私達、付き合ってはないでしょう。」
「酷い、酷い。プリ様酷いですぅ。」
どさくさ紛れに、付き合っている事にするのは、子供の時と一緒だな。
符璃叢は、頰を膨らませている昴を見て、フッと笑みをもらした。
「さあ、帰りましょ。プリ様ぁ。」
差し伸べられた白い手を見て、符璃叢はふと疑問に思った。
『あれ? おないどし だったっけ。すばゆ……。』
符璃叢は、何か大事な事を忘れている気がして、暫し考え込んだ。
「プリ様ぁ、どうしたんですか?」
そんな符璃叢を見て、昴が心配そうに声をかけて来た。
「ごめん。ごめん。何でもないんだ……。」
気の所為だな。と、頭を振って、符璃叢は昴と一緒に帰途に着いた。
家に帰ると、母親の胡蝶蘭が、玄関に入るなり抱き付いて来た。
「お帰りなさい、プリちゃん。ママ待ってたのよ。」
「あ〜、ズルイ。ママばっかり。私だって、家に帰ったら、遠慮しないんだからぁ。」
触発された昴も、符璃叢に抱き付いて来た。
「もお、二人とも止めてよ。子供じゃないんだから。」
玄関先で立往生していると、ちょうど通りかかった中学生の弟、蔵人が、呆れた声を出した。
「何やってんだよ。スバ姉も母さんも。プリ姉が困ってるじゃん。」
末っ子に窘められて、二人はバツが悪そうに、符璃叢から離れた。
ちなみに、昴は神王院家の養女となっており、戸籍上は符璃叢の妹だ。
「さあ、皆んな。手を洗って来て、お父さんもじきに帰って来るわ。」
胡蝶蘭は専業主婦。父親の照彦も、夕食時には帰宅出来る仕事をしている。符璃叢の小さな頃から、夕食は家族全員揃って食べていた。
「これは、昴ちゃんが作ったのよ。」
ホックホクのハンバーグを指差して、胡蝶蘭が言った。
「おいしい。スバ姉、おいしいよ。」
蔵人の言葉に、昴は「えへへ。」と頭を掻いた。
「プリちゃんは、もうちょっと、お料理も頑張ろうね。」
胡蝶蘭に言われて、符璃叢は少し頰を膨らませた。
「いいんだよ。私は一生、昴に御飯作ってもらうから。」
それを聞いた昴は、感激のあまり、符璃叢の腕にしがみついた。
「プリ様〜。それってプロポーズですかぁ。」
「いや、違うから。」
符璃叢の素っ気無い言い方に、家族皆んなが大笑いして……。
ああ、幸せだな……。と、知らずに符璃叢は涙を落としていた。
暑かったり、寒かったり、天候不順な日々が続いてますね。
身体が参ってしまいますよ。
皆さんも健康には気を付けて下さい。