私とあの人のこと
汚いものなんて一切目にしたことがないような、誰にだってチヤホヤされてそれが当たり前だと疑った事もないような、お人形なんじゃないかと思うような、綺麗な綺麗なお姫サマ。
羨ましくて憎らしくて、その場所から引きずり下ろしてやろうと思ったのに。
「結婚しない?」
企みが敗れたばかりか、お姫様はお姫様じゃなくて病的な程にシスコンの女装野郎で、剰え私に求婚してくるとか。
ああ、まったく、どうしてこうなった。
幼い頃の記憶を、私は夢だと思っていた。
美しい母、優しい父。私に傅く使用人たち。綺麗なドレスを着て、美味しい食事をして、美しい庭で遊んで。そういったものは皆、身包み剥がされて捨てられた私が余りの苦しさから逃避の為に妄想したのだと思っていた。
お母さん先生、もとい孤児院の院長先生が言うには、私は肌着一枚で大泣きしていたそうだ。身分を表すようなものは一切なく、けれど手入れの行き届いた髪や肌着の質から上流階級の子であろう事は想像についた。それでも、まさか他領の貴族の子とまでは思わなかったらしく、金のある商人たちを当たり見つからなかった時点で探すのを諦め、孤児院で育てる事にしたのだという。
追い剥ぎの事はよく覚えていない。ただ、とても恐ろしかった事だけ残っている。その時のショックで一時声を無くした私は、自分の名前すら伝えられなかった。それも両親を探すのが困難になった原因の一つだろう。
夢か現か分からない記憶を思い返しながら、いつか私は小さな想像を膨らます遊びを覚えた。もしも私が本当に貴族のお姫さまだったなら、と贅沢な暮らしをする自分を妄想するのだ。
その時の妄想は、今思うと笑ってしまうほど稚拙で『ご飯はいつでもケーキをお腹いっぱいに食べる』『何を言わなくても使用人は私の思う通りに動く』『宝石だけで出来たドレスにガラスの靴を持っている』なんてそんな事ばかりで、けれどそれがあの頃の私の一番楽しい遊びだったのだ。
その夢が夢じゃないと分かったのは、私が12歳の頃。孤児院での暮らしもすっかり馴染み、義弟妹たちの世話も板についてきて、将来は孤児院の手伝いを続けるか、余所で働いて孤児院の援助をするかどうしようかな、なんて考えていた頃の話。
諦めかけては捜し、見つからなくては諦め、そしてまた一縷の望みを掛けて捜す、という年月を送っていた両親が、とうとう私の事を見つけ出したのだ。
孤児院にやってきた両親は、記憶の中よりも、そして実年齢よりも随分と老けていた。けれど間違いなく二人は夢のなかで私に笑いかけてくれていた想像の両親そのもので、あの夢は本当に私の過去だったのか、と何よりそれが衝撃だった。泣き崩れる両親と感動の再会を果たした私は、私の生まれ故郷、そして生家であるドロッセル子爵家へと引き取られ……否、帰ってきた。
「ナタリー。手が止まっているよ」
掛けられた声で我に返る。顔を上げれば、忌々しくも美しい男が視界に入る。
柔らかな金髪。透き通るような白い肌。美しく輝く榛色の瞳。少年と青年の過渡期というよりも、中性の妖精が男性という性別を得ようとしているかのような、そんな比喩が似合いそうな危うい美しさ。
先日まで双子の姉であるクリスティーナの振りをしていた、クリストファーが其処に居た。
「……うっさいわね、ちょっと考え事してただけよ」
本来なら学舎の中であろうとも、家格が違う先輩にこんな口調は許されないだろう。だが腐ってもクリスティーナ様のご兄弟と思って口調を取り繕った際に『具合でも悪いのか、何かあったのか』と本人どころか殿下とクリスティーナ様にまで心配されてしまったので遠慮しないことにした。
「そう? てっきり内容に悩んでいるのかと。私で良ければ教えようか?」
「結構! クリスティーナ様になら喜んで御教授いただきたいけど、あんた相手じゃ頭になんて入んないわよ」
「ひどいね、これでも首席なんだけど」
「能力疑ってんじゃなくて、気が散って集中出来ないっつってんのよ」
「あぁ、そういうのは認めてくれてるんだ?」
「当たり前でしょう? クリスティーナ様の片割れでロビン殿下の腹心候補が無能なわけないじゃない」
そんな存在を許すわけないだろう、この男が。己がそんな存在であるだなんて、誰よりも自分自身が許せない。そういう人だ。親愛なる姉と敬愛なる主、それらを貶める隙に自らなる真似などするわけがない。
「うーん、本当良い人材だよねぇナタリーは。やっぱり結婚しない?」
「お断りします!」
「そう? 残念。貴重なんだけどなぁ、私の考え方を理解してくれる女性って」
その言葉を聞いて目を瞬かせる。これほど分かりやすいものはないのに? 姉と主の為になるかを基準に考える、その一点だけじゃないの。
「だって政略だろうと『夫婦』になる為に結婚するっていうのに、その相手が一切自分を見ないって嫌じゃない? その目の全てが主君に向くんだよ? しかも最愛は姉って豪語してるんだよ? そんな相手と結婚して普通の貴族の娘が耐えられると思う?」
「無理ね」
「でしょう? かと言って浮気されるのも困るし。お遊び程度なら許すけど、敵対勢力に入れあげて情報渡すとかあったら大変だし。王族の姻族で公爵家だからね、大事なものいっぱいあるから」
「普通に愛してあげたらいいじゃない」
「普通の愛くらいじゃクリスティーナとロビンには勝てない」
「……貴方、相当歪んでるわよね」
「女装して代役務めるような奴が歪んでないとでも?」
向かい側の席にクリスが座る。穏やかに笑ってるように見えるけれど、それは口元だけだ。
「クリスさえ居なければ自分の娘が王太子妃になる可能性がある。そう考える貴族は沢山居た。対策するなら長じてからより幼い内のほうがやりやすい。だから我が家は誘拐と暗殺に日夜警戒していた」
「そ、う……」
「公爵家の跡継ぎ候補は親戚内に何人か居る。けれど王太子妃、クリスの代わりになる女児は親戚内には居なかった。……ナタリー・ドロッセル、私が何を言いたいか、分かる?」
聞いたことがある。幼い頃、何も知らない人からはマクスウェルの双子は美少女姉妹だと思われていたと。 女児男児だって服装の違いはある。たとえ顔が愛らしかったとしても。ならどうして同性の双子だと思われていたのか? それは同じ服を着ていたから。何故双子は同じ服を着ていたのか?
それは。
「幼い頃から、貴方はクリスティーナ様の身代わりだったの?」
「身代わりというか目眩ましかな。大事なクリスティーナは守るべきもの、そう言われて育った。同じドレスを着て、呼び名はどちらもクリス。常に警戒しているから従兄弟ですらたまにしか会わない。互いしか居ない世界に唯一関わるのを許可されたのが、ロビンだった」
「あのチョロ三、もとい幼馴染たちは?」
「え、その呼び名すごい気になるんだけど……お互いに自分たちの立場を理解して警戒心を持てる程度に育ってからの知り合いだよ、彼らは。その頃にはもう今の私の根っこが出来ていた。で、チョロ三って」
「籠絡がチョロかった三人、略してチョロ三」
「いいセンスしてるね、ナタリー。それ余所で言っちゃ駄目だからね」
「あら、今更これ言ったところであの三人の人気以前より落ちてるし……」
「あのねぇ……今のところ君の手練手管が凄かったからあの三人も落ちたんだって事になってるんだよ。ただチョロかっただけってバレて面倒なのに引っかかったら困る」
「あれでも家柄ベスト5だものね、利用価値は大きいか……分かったわ、言わない。何がクリスティーナ様に害をなすか分からないもの」
「助かるよ」
なら、口止め料をあげよう。そう言って彼は席を立ち、書架の間をすり抜けて何処かへ行った。
今更だが図書室でこんなに会話をしていたら司書に怒られるだろうか? 一応、小声で話していたのだけれど。ちらと入り口付近のカウンターの司書を窺う。司書は、彼が消えた方向をうっとりと見つめていた。あれ、この男もしかしなくてもヤバいんじゃ? 確かに今のクリス様は中性染みた魅力があるけれど。
しばらくして戻ってきた彼の手には数冊の本があった。
「眉間に皺寄ってるけど?」
「……ねぇ、あの司書ヤバいわよ」
「ああ。扱い方間違えなきゃ害にはならないから大丈夫」
「……、あっそ」
「ご心配どうも」
くす、と笑われる。そのどこか照れのある顔が、迂闊にも可愛らしいと思ってしまった。……いや、クリスティーナ様と同じ顔なんだから可愛らしいのは仕方あるまい。
「はい、これ」
「……何? この本」
「基礎中の基礎についての本」
「馬鹿にしてるの?」
「いや? だって君、授業で当然知ってるものとして先生が話す事についていくの大変だろう? 今まで授業を理解出来なかったのはそれが原因かと思って。むしろ短期間で追いつきそうなんだから、君の理解力は高い方だと思う」
……図星だ。見透かされたのが悔しい。
他の皆が14歳までに培った知識、それらを私は12歳からの二年間しか受け取っていないのだ。分からないことばかりの授業はつまらなかった。最近ようやく言いたいことが理解出来るようになってきたが、圧倒的な知識不足は否めないのは自覚していた。
受け取った本をぱらりとめくる。勧めるだけあって、確かに分かりやすそうだ。
「私に教わるのが嫌なら、本に教わって下さい。クリスの教授は受けさせてたまるか」
「あら残念。なら代わりの本、有り難く頂戴しますわ」
「私物じゃないから、ちゃんと貸出手続きと返却期限順守よろしく」
それじゃ私はこれで、と彼は図書室から出て行った。私も再び本へと視線を落とす。
内容なんて頭に入ってこないけれど。考えるのは、彼と彼女の事。
ある意味、彼は生まれた時からクリスティーナ様を守ってきたのだろう。それが大人たちの、彼個人ではなく『代わりのある子供』として利用されただけだとしても。
……ああ、彼は。クリス様は。なんて、
「…………羨ましい」
誰も代われない程に、彼はクリスティーナ様を守ってきた。あの人はクリスティーナ様にとって絶対の価値がある。
おかしな話だ、普通は身代わりだったという彼に同情するものじゃないの? それなのに私が感じたのは嫉妬だった。
「クリスティーナ様……」
気高さと美しさを兼ね備えた、凛々しき麗人。そこらの男より男らしく、どんな女性より女らしい。
あの方のお役に立ちたい。一番愚かしいところを見せてしまった事が今では恥ずかしくて仕方ない。いつかあの方の役に立つ為にも今は力を付けなければ。
(わかってるんだけど、クリス様のお誘いを受けるのが一番近道だって)
確かにクリス様と結婚すればお近づきになれる。なんたって弟嫁だ。けれど、それだけじゃ駄目なのだ。
愚かなままの私がただ結婚しただけでは、付け入る隙になるだけ。もし結婚するならば、クリス様から見て使える駒になってからでなくては。そうでなくては、クリスティーナ様のお役に立てない。今のままでは、クリス様が自由に動く為に丁度良い置物だ。そんな事は許せない。クリスティーナ様を守る様を、隣で眺めるだけになるなんて御免だ。
『本当に男が嫌になったのか?』
ロビン殿下の問いを思い出す。そして、自分の答えも。
『だってクリス・マクスウェル様は、私の理想だったんですもの』
幼い頃、両親の居ない寂しさを紛らわす為、必死に思い描いた夢物語。夢物語の中には、理想のお姫様も居た。
学舎で初めて見かけた時の衝撃を今でも覚えている。クリス様と呼ばれていたその人は、私が思い描いた理想のお姫さまそのものだったのだ。
緩やかなウェーブを描く、ふわりと軽やかな輝く金髪。透き通るような肌。どこか儚げで、けれど穏やかな笑みを描く桃色の口元。美しく輝く榛色の目元は、貞淑な様子でそっと伏せられている。たおやかな様子でカップを持ち上げ、そっと口付ける。そして一口飲んだ後、満足そうにほうと息を吐くその様に、こちらも思わず感嘆の息を吐くほどだった。
あの理想のお姫様の視界に入りたいと思う反面、あの理想のお姫様の視界に入るなんて恐れ多いと相反した気持ちを抱えながら、ただあの方をずっと目で追い続けた。
そうして。見つめ続けて、気付いてしまったのだ。
あの方は、誰の事も、視界になんて入れていないのだと。
穏やかで、たおやかで、まるで誰に対してもお優しい様子のふりをして、その実あの方は誰の事も歯牙にも掛けないのだ。何もかも手中にしておいて、何もかも興味のない顔をして。
気付いた時の私の衝撃と嘆きの深さと言ったら! ああ、なんと表現すれば良いのだろう!
だって、そうでしょう!? 夢にまで見た、物語のように美しい姫君が目の前に現れたといのに! 心奪われ憧れた相手と親しくなるどころか、視界に入ってすら目の端に過る羽虫と同程度の存在にしかなれないだなんて!
ああ、気づきたくなんかなかったわ、こんな事。気付かなければ、あの方が卒業するまで心酔して浮足立った幸せを得られたというのに。
私の理想のお姫様は、まるでよく出来た擬物の人形と変わりなかった。
あぁ、美しいお姫様なんて現実には居ないんだ。そう思ったら、あの擬物をちやほやする全てが許せなくなった。だから、成り代わろうと思ったのだ。
夢にまで見たお姫様。現実には居ないというなら、私が代わったっていいじゃない、と。
とどのつまり、言ってしまえば、自棄だ。
そんな状態で出会ったのが、クリスティーナ様だったのだ。
物語の王子様のように気高くて、夢にまで見たお姫様のように美しいクリスティーナ様。
本物は居た。私にとってその事実は喜びであり、救いだった。
あの頃はお姫様になりたかった。なれないことを今は理解している。だから代わりに、本物のお姫様の役に立ちたい。心の中にしか居ないお姫様へは恩返しはできないから。
(もちろん、単純にあの方の存在に惚れ込んでるっていうのもあるけどね!)
だから、今はひたすら学ぼう。あの方のお役に立つ為に。
『ロビン殿下。卒業後も、どうぞナタリー・ドロッセルの名をお忘れなきよう。私、かなりのお買い得商品ですわよ、今なら』
『すごい自信だね』
『ええ。これは誓いですわ。必ずや力をつけてクリスティーナ様のお傍に侍りましょう。クリス様と並び立つ者として』
『……へぇ?』
『クリスティーナ様を思う気持ち、あの方に負けてたまるもんですか!』
『あ、並び立つってそういう……寄り添う方じゃなくて相対する方なんだ』
ただ丁度良いから、なんて安直な理由でのプロポーズなんか絶対に受けるものですか。クリスティーナ・マクスウェルの片割れが望むだけの価値がある、そう認めさせるだけの実力を得るまでは決して。
今に見ていなさい、クリストファー・マクスウェル。貴方が跪いて私を乞う程の女になってみせましょう。このナタリー・ドロッセル、そう安い女じゃないの。
『君こそ、私と共にクリスティーナの傍に居るのに相応しい』
そう言わせてみせるわ、必ずや。
「……目にもの見せてくれるわ……!!」
闘志をたぎらせながら、私はぐっと拳を握った。
後に、マクスウェル公爵夫妻の婚姻について、こんな話が語られる。
学舎で知り合い、互いに想い合うようになったマクスウェル公爵と夫人。だが夫人は貴族とはいえ子爵。身分違いだとして彼女は一度はプロポーズを断る。だがその後、首席卒業を果たし子爵領の経営に才覚を発揮した。優秀な親戚の子を養子にし子爵家の跡継ぎに指名した後、公爵家へと嫁いでいった。その頃には子爵家の女主人として、また社交界でも華と謳われていた夫人が身分違いと謗りを受ける事はなく、聞こえるのはようやく婚姻を果たした二人への祝福の声のみであったという。
「まるで詐欺ね」
「いいじゃない、耳心地が良くて」
「間違ってはないけど」
「そうだね、ある意味想い合っていたからね。クリスティーナへの気持ちはどちらが強いか、っていう張り合いの気持ちを」
「今でも似たようなものですけど」
「確かにね」
「でもあの頃よりは愛しているよ、ナタリー。クリスティーナの次に」
「ええ。私もですわ、クリス様。クリスティーナ様の次に」
「さぁ、それじゃ行きましょうか? 奥さん」
「えぇ、そうですね。旦那様」
「愛しい片割れと敬愛なる殿下の為に」
「我らが主の、お役に立つために」
軽口で語れる程度の愛しかないシスコン夫婦。
一緒に暮らした結果からの愛と情はあるけれど互いのそれより姉夫婦が大事な能力だけは極上の公爵夫妻なので、対外的にはおしどり夫婦として有名です。
姉夫婦はきっと頭を抱えていることでしょう。
6/29 ご指摘頂きましたので、失語症という表記を修正。