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パタリと倒れてしまった老婦人に慌てて駆け寄り、呼吸と脈確かめる。
呼吸はある。
脈も早いが安定している。
救急車を呼ぶ必要はなさそうだ。
ほっと息をついてから、床の上だとあまり宜しくないので抱きかかえてソファーの上に寝かせる。
・・・・・・・どうしよう。
おそらく今日来るはずのお手伝いさんだと思うのだが、なぜ叫ばれて気絶されたのか全くわからない。
流に連絡するべきだろうか?
だが、忙しい流の邪魔はしたくない。
うーん・・・・・
思案していると、かすかに瞼が震えてゆっくりと老婦人の目が開いた。
「あら、わたし・・・・・?」
ぼんやりとしているご婦人に驚かせないように声をかける。
「気が付かれましたか?」
「あら、やだっ、わたしったら、お客様の前で失礼いたしました。」
老婦人は年齢に似合わぬ素早さですくりと立ち上がると、綺麗に頭を垂れた。
「わたくし、槙嶋家で家政婦を務めさせていただいております。三橋紫乃と申します。
坊っちゃんのお客様の前で大変失礼いたしました。」
坊っちゃん・・・。流が坊っちゃん・・・・。
だめだ。笑ってはいけない。
「頭をお上げください。三橋様。
私は客ではありません。
5日間だけですが、流様の執事をさせていただいております、平岡唯と申します。
短い間ですが後輩になりますので、ご指導よろしくお願いいたします。」
「しつ・・・じ?」
三橋様が上から下までじっくり私の姿を見ている。
今日は燕尾服を着ているので格好はきちんと執事に見えるはずだ。
「あら・・・、いやぁねぇ、わたしてっきり坊ちゃんが遂に恋人を連れてきたのかと・・・・。
ごめんなさいねぇ。早とちりしちゃって。」
恋人という言葉に思わず吹き出しそうになるのを表情筋を使って堪える。
「坊っちゃんが女性をお部屋に入れたのなんて見たことないから、驚いちゃって。
ちょっとクラァっとしちゃったわ。ご迷惑をお掛けしました。
唯さんはどうして坊っちゃんの所で執事を?」
働くことのなった経緯を掻い摘んで話す。
「まぁまぁ、そうなの。
あの人嫌いな坊っちゃんがわざわざそんなことを言うなんて、よっぽどあなたのご主人様が羨ましく見えたのねぇ。」
「人嫌い?」
初耳だ。
「人嫌いというのともちょっと違うのかもしれないけれど、坊っちゃんは昔っから周りに人がいるのを嫌がってねぇ。
会社までの通勤時間もこのマンションも本邸も変わらないのに『本邸は人が多すぎて落ち着かない』って言って出て行っちゃたのよぉ。
だから、そんな坊っちゃんの家にいる女性なら恋人だと思ったんだけどねぇ。」
いや、そんなに残念そうにじっと見られても、事実は変えられません。
話を変えよう。
「三橋様は流様についてお詳しいのですね。」
「紫乃と呼んで頂戴。
そりゃあ生まれた時からお側にいますからねぇ。
特に坊っちゃんはわたしを含めた数人しかお側に置きたがらなかったし。
主家の方にこういうのも失礼だけれど、気持ち的には孫みたいなものよ。」
ころころと笑う紫乃様は本当に楽しそうで、心から流のことを思っているのがわかる。
「だから早く結婚して安心させて欲しいのだけれど・・・・・・・。」
話が戻ってきてしまった。
「唯さんのご主人様は坊っちゃんと交流があるのでしょう?
坊っちゃんの交友関係とか何か聞いてなぁい?何処かの女性と親しいとか。」
・・・・・・・・・もうすぐ婚約者だと思っている相手に振れらるだなんて言えない。
「私もあまり詳しい話は・・・・・・。
恋人はいらっしゃらないようですが・・・・・・。」
「やっぱりねぇ・・・・・。自分で好きな相手を見つけるのも難しいかしらねぇ・・・・・・。」
上品なお婆ちゃんがしょんぼりしているのはちょっと可愛く見える。
しょんぼりさせちゃダメだけど。
「流様はまだお若いですし、いろいろと立場もありますし、じっくり考えていらっしゃるのかもしれません。」
「それがそうじっくりもかまえていられなくてねぇ。
前々から旦那様が良い縁組を探していらっしゃったのだけれど、お相手の方が決まってしまってねぇ。
坊っちゃんはまだご存知ないけれど、今、お付き合いしている方がいないとなるとお断りするのは難しいかもしれないわねぇ。
その前に・・・・と思っていたのだけれど。」
・・・・・・・・・・・・・・・なんですと!?




