9 小姓は友人に感謝します。
それから僕は二日半寝込んだ。頭は鐘が鳴るようにぐあんぐあん痛むし、視界は高熱でぼうっとする。
寮の自室でうんうん唸って過ごす時間は苦痛以外の何物でもなかった。体を走る正座を崩した時の声の出ないほどの痛みはしばしのものだから耐えられるのであって、あれが二日も続いたらそろそろ皮膚感覚がなくなる。
僕はクラゲ、空気中に漂うの。とか思ったときは僕も自分イカれたと思った。
こんな僕を看病してくれたのは、僕の相方かつご主人様であるグレン様…では当然なく、同室のヨンサムだった。
下に弟妹がいるせいか、こいつは昔から面倒見がいい。授業と訓練で疲れているだろうにちょくちょく様子を見に来てくれ、何度となく頭にあてるタオルを変えてくれ、食堂のおばちゃんに頼んで作ってもらったというおかゆを食べさせてくれた。
なんと素敵な親友か。彼に高級アイス十個を奢った時は僕の貯金がすっからかんになったけれど、それでも彼が友達で良かったと思った。ちなみにアイスについては僕の心の中で決めた贖罪方法だったので、いきなり高級アイスを奢られたヨンサムは棚ぼただと喜んでくれた。
もう一人――と言っていいのか分からないが、例の白い食いしん坊ネズミくんも僕が寝込んでいる間にちょくちょくやってきて僕の頭をその白い尻尾でぱたぱた叩いてくれた。
バターに入った毒を教えてくれたお礼に、ヨンサムが初日くすねておいてくれていた朝食予定のパンをあげたせいなのかな、と思って、もう持ってないと何度も言ったのだけど、ネズミくんは特に気にする様子もなく僕の枕元でごそごそ動いて遊んでいた。
風邪を引いているときというのは心細くなるものだ。たった一人で
「鬼畜野郎呪う呪う呪う恨む恨む恨む……あ、だめだ。人を呪わば穴二つ……僕が先に入っちゃいそう……」
と、生きる意欲を負の感情で奮い立たせていくことには限界があったので、傍にいてくれるものがあることに心救われた。
優しいネズミにはきっと人情というものがあるんだと思う。どっかの鬼畜ご主人様よりよっぽど。
あまりに頻繁に来るものだから、「チコ」という名を付けたところ、チコは嬉しそうに僕の頭にその白い体を擦りつけてくれて、自分の灰色の髪はかき混ぜられてぼさぼさになった。
そうして回復したのが今、三日目の夜だ。
体中の血液が沸騰するんじゃないかと思われた熱が嘘のように引き、頭はすっきりし、足や手に力がみなぎっているような気がした。
どうやら峠を乗り切ったらしい。
待ってろよ鬼畜ご主人様よう!この怨み、許すまじ……!
左手を見ると、左手首をちょうど一周するように王家の紋様が紅く描かれていた。王家の承認があったことはこの紋様から明白だ。おそらく僕の血を原料としているのだが、擦っても取れない。どうやら皮膚の下に出来上がっているようだった。
これがあの男との切っても切れない絆の証か。あの男が優しいと血迷いそうになった時はこれを見て自らのアホさ加減を思い出すこととしよう。
「ようやく起き上がれるようになったんだな」
「うん。ありがとう、ヨンサム。君のおかげだよ。かなり迷惑かけちゃったね」
「ま、苦しいときはお互い様って言うし、いいっていいって。気にすんな」
あぁヨンサムの爪の垢を煎じてグレン様にのませてやりたい。
爪の垢じゃ足りないな。
「ヨンサム、快気祝いに爪剥がして僕にくれる?一枚でいいよ」
「やっぱお前治ってねーよ!医師のところに行け!今度こそ精神科だ!!」
「ごめん冗談だよ冗談。お茶目なジョークじゃないか」
「お前、冗談の凶悪度がグレン様の小姓になってから上がってんぞ。すっげー勢いで。笑いながら言うところとかそっくり」
「はは、それ言われるとはらわたが煮えくり返りそう」
「なに、お前グレン様と喧嘩でもしてるわけ?」
「喧嘩じゃないよ。ほんとは怒ってるんじゃないから」
それを飛び越えて殺意です。
喧嘩どころか、殺されかけたのだから。いやいや、いまだ命は握られているんですがね。そして未来永劫、握られ続けるんですけどね。
「そうだ、今度こそってどういう意味?」
「あぁ。お前が枕元で『死んじゃう……』とか弱気になってたかと思えば、いきなり笑い出して虚ろな目で『もういいよね?許されるよね、殺しに行っても。それやったら死んじゃうって言われててもここで乗り切れずに死んだらお終いだもんね?』とか言うし、一体なんの悪霊が乗り移ったんだろうか、医師に連れていくべきか、それとも教会かって何度も迷ったんだよな」
言葉に出ていたらしい。覚醒してないときでも恨んでいるとか。
僕の生霊がグレン様の首を絞めていてくれないだろうか。
「その後に『死なばもろとも……!』って言われた時は俺のことかと思って避難した」
「なんで?」
「三月前にお前に『死なばもろとも』とか言われただろ?マジで連れていかれたらシャレになんねーから」
「そこは一緒に死んでやる!とか言ってよ」
「やだね。せっかくイアン様の指導部隊に入れることになったんだから」
ヨンサムは二月前の覗き見事件の時に、剣豪イアン様の剣を一瞬とはいえ受け止めた。
その実力が買われて騎士課でもクラスアップし、さらにはイアン様が特別に指導している部の末席に加えてもらえたのだという。だから、あの事件後帰寮して即座に土下座した僕は興奮した様子で延々それを語られ、挙げ句のはてにありがとうと感涙されてしまった。
ちなみにヨンサムの罰則は不浄場掃除一週間だった。
「ま、とにかく回復してよかったぜ。これ以降風邪には気を付けろよ」
「うん、助かった。そうだ、僕が寝込んでいた間って何かあった?」
「授業が三日分」
「そりゃそうだ!」
「ノートは特殊課の連中に頼めよ?俺わっかんねーもん」
「それは平気。リッツ辺りに頼むよ。元から騎士課のヨンサムには期待してない」
「お前な」
「だって現実に違う授業が多いし、進行状況も違うじゃんか」
十三歳からの二年間は基礎教育と称して全員が同じ授業を受ける。一方15歳以降は専攻過程となり、僕たちのカリキュラムは大きく変わる。
大きく分けて、騎士課、魔術師課、特殊課だ。
騎士課はその名の通り、騎士になりたい者が目指すところで、ヨンサムが所属している。平民に魔力はないので、平民出身者は全員ここだ。ただし、彼らは純粋に剣や武術の実力で選び抜かれているから中での競争は相当シビアなのだと聞いた。イアン様はそのトップに位置し、下のクラスの者はイアン様なぞに指導していただく機会はないまま学園生活を終える。だからこそヨンサムが今回のイアン様の特別部隊編入に涙して喜んでいるのだ。
魔術師課も名前の通り、魔術師志望の者が目指す。宮廷魔術師はそのトップ層がなるところだが、それ以外にも町の魔術師になる道もある。
特殊課が一番変わっていて、それこそ専門だ。商業を中心にやりたい者、薬学を専門にやりたい者、歴史の研究者になりたい者、医師や僕のように獣医師になりたい者などが所属する。
「まぁな。んー事件っつーと。そうだ、昨日、この男子寮で魔獣が見つかってさ。白くてもふもふした一見ぬいぐるみみてーで可愛い感じの……ああああああああ!」
ヨンサムの大声に僕の肩にいつの間にか乗っていたチコが僕と一緒に首を傾げる。
あれ、首にいつの間にかリボンが着いてる。それも家紋まで入ってる結構いいリボンだ。
へぇどこの家のだろう?見たことある気はするんだけど。
「チコ、お前それ誰かにつけてもらったの?女子寮とかに入ったりしたの?」
「きゅう?」
「そいつっ!!そいつだよ!」
「え、チコのこと?」
「あぁ。それさ、魔獣なんだろ?」
「いやこれは白猫とオコジョとイタチの間の子で……」
「嘘つくなよ。獣医師志望のやつが言ってたから間違いねーだろ」
「あー……うん、ごめん。実はそうなんだよね」
「そいつちっせーし、すげぇ逃げ回って物陰に隠れちまうしで出てこなかったんだよ。それになまじ魔獣だからこの寮の魔術師志望のやつが拘束魔法かけても弾かれるし、騎士課が押さえつけようとしても牙むき出しにして唸ったり引っかかれたりで、結局教師たちが来て三人がかりで拘束魔法かけて捕まえたんだけど、それでも暴れて噛むはひっかくはで大騒ぎだったんだからな。そっか、そいつお前のとこに来ようとしてたんだな」
魔獣とはそういう評価を受ける生き物だ。この食いしん坊ネズミなんて、僕から見れば「雑食の大食いで好奇心旺盛なお友達」だけど、本気で抵抗したら例えこの子のように魔獣の中では無害に近いものでもヨンサムが言ってたとおりの大騒ぎになる。
ましてや毒のあるものや、体の大きなもの、人を食らうものなんかの攻撃力はいわんやをや。だからこそ、魔獣を治療することは禁忌とされ、罰せられる対象になっているのだ。
僕の手の中で毛玉のように丸くなってきゅうきゅう鳴いて甘えるチコを見ていたヨンサムがとんでもないことを言ってくれた。
「それにしてもエル。お前、グレン様に相当可愛がられてんだなー。すげー」
「……はぁ?」
可愛がられる?あぁ、「可愛がり」ならされてるかもね、命かかってるやつ。
僕の半眼に気付く様子もなく、ヨンサムは続けた。
「そいつ、教師に捕まってから当然、処分対象になったんだよ」
処分。その言葉に思わず僕の眉間に皺が寄る。
何度聞いても嫌な言葉だ。
認可外で、かつ人に危害を加えた魔獣たちの迎える先には死しかない。こういう小さいものは魔力を封じられる檻に入れられて殺される。
「それが、教師たちに処分されるギリギリでグレン様が駆けつけてきてさ、『それは僕が飼っている登録済み魔獣です。お手数おかけしました。』って抱えていかれたんだ。グレン様ならそれ程度の魔獣飼っててもおかしくねーし、あの方に文句つけられるやつなんかいねーから、拍子抜けするくらい最後はあっという間に終わったんだけどな」
それを聞いた途端、僕はチコをひっくり返した。
じたばた抵抗するチコの腹、背、顔、首元に何の出血痕や打撲痕、骨折がないことを確認してほう、と息を吐く。
「……何してんだよ?」
「グレン様が連れてったんだろ?虐待されてないかなって」
「はは、何言ってんだよ」
「ヨンサムだって知ってるだろ?!グレン様はあのお顔で実は鬼畜のドS野郎だってこと!特に他人に自分の領域に入られるのはお嫌いでさ。動物が部屋に入ったら追い出されるし、たまに僕も一緒に叩き落され…いやそれはおいといて。とにかくあの方、動物の毛が落ちても嫌そうにするくらい動物好きじゃないよ?」
「えぇ?そんな感じには見えなかったぜ?大事そうに抱えてたし、そもそもそれならあの場面でわざわざ助けたりしねーだろ。それにそれ、家紋入りのリボンじゃねーか。虐待するやつにするか?」
「首絞め用かも……」
「お前、どんだけ信用してねーんだよ。主だろ」
「主人だからこそだよ。あの人の嗜虐性については絶対的な信用がある」
僕の据わった目を見てヨンサムはそれ以上反論するのはやめたらしい。
「ま、とにかくさ、そいつはお前へのプレゼントかなんかなんだろ。お前、生き物大好きだもんな。お礼は言っといた方がいいんじゃねーの?現にそいつ、殺されないで済んでいるんだし」
手の中から僕を見上げるまん丸の黒い瞳は「ごはんいっぱいもらったのー」と言っているよう。
どういう宗旨替えだろうか。それともこれも僕への罠か?
悩む僕の手の中のチコがぱたぱた、とふさふさの尻尾を振る。
……まぁ、もしかしたら、万が一……いや億分の一であの人が今回の僕のことについて申し訳なく思って命の危険の代わりに命を救うことで贖罪しようとしてくれたのなら…それは受け取ってやろうじゃないか。
僕の寝ていた間の恨みつらみは、チコの元気で愛らしい姿で消えていた。少しだけだけどね。