8 小姓は騙されました。
僕の了承の返事を受けたグレン様はなぜか胸元から短剣を取り出した。
グレン様が前に一歩足を踏み出す。僕が一歩後ろに引く。
にじり。
よじり。
にじり。
よじり。
「……グレン様、一つよろしいでしょうか」
「なに?」
「その短剣は一体?」
「儀式に血が必要だからね。あ、お前は自分の名と、誓う旨を言えばいいよ」
「なんて言うんです!?」
「空気読んで適当に合わせて」
「適当って……ま、ま、待ってください!情報が足りなさすぎます!な、名前って略称可能ですか!?」
「魔法契約はお互いがお互いだと分かればいいから別に正式名称じゃなくてもいい」
説明ざっくりしすぎだろ!これってかなり厳正な儀式なんですよね?ね?
「あの、一体儀式はどういう過程で行われるんです?」
刃を見て楽しそうに微笑んでいる未来の主・グレン様を正視することに耐えかね、体を捻って傍の殿下に尋ねる。
「お互いの血を少し混ぜるのだ。身体の一部を傷つけ、そこを触れ合わせる。その傷部分に小姓であることを示す術印が付く。お前ならそうだな、左手首辺りが無難だろう」
「首でもよかったんだけどなぁ。首輪みたいでいいと思わない?」
「いや頭おかしいんじゃないですか!?その短剣で首切られたらなんの役目も果たすことなく速攻で命持っていかれますから!」
「ちょっと滑らすだけだよ」
「いえいえ、グレン様。小さな傷をつけようと考えている人は柄を逆手では持ちません。刺突するときを除けば、逆手というのは上からの重みをかける意思があり、主に相手への殺意が大きいときにされますよね?」
「ちっ、獣医志望であっても知ってたか」
「何か仰いましたか!?ねぇ、本当に怖いんですが、あなたがご主人になること!」
「何を言ってるの?」
グレン様の利き手である左手に軽やかに握られた短剣の刃が怪しく光る。
すっと近寄ってきたグレン様が僕の顎を上向かせて壮絶に色っぽく微笑みかけた。
「もう既に僕は君のご主人様じゃないか」
世のご令嬢なら卒倒、そしてこいつの本性を知っているこの僕ですら一瞬その視線に目を奪われてしまうくらい艶めかしい目をしてからグレン様は僕の左手首に剣を滑らせた。
「つうっ」
それから無言で自分の右手首に刃を走らせ、そこにみるみる一筋の赤い痕ができるのを確認してから、グレン様はその部分を僕の手首の傷に押し付けた。
『我、グレン・アルコットが望む。この者を我の小姓とせんことを』
グレン様の言葉に淡い赤光がグレン様の体を包んだ。光のせいで、ルビー色の目が深紅に輝く。同時に僕の心臓がどくん、と急に痛くなり、呼吸が苦しくなる。何かに絞られているみたいだ。
お前の番だ、と言うように目を向けられて、なんとか言葉を絞り出す。
『我……エルドレッド・アッシュリートンは望む。この方…の小姓とならんことを』
僕が指示通りに思いつくままに適当を言うと、グレン様はその赤い瞳をわずかに見開いている。
僕の言葉に反応して淡い緑色の光が僕を包んだ。
あ、もしかして僕の魔力の色って緑なのかな……。
『我、フレデリック・ディーン・エッセルベルクは認む。この者らが主従とならんことを』
殿下がその言葉をおっしゃった途端、心臓にここ一番の強い痛みが走った。
殿下から発せられた黄金の光が混ざり合って白光になる、光景は美しいのに見入るどころじゃない。
痛い!痛い!なんだろう、くらげの毒針で僕の身体を内側から刺し回っているみたいだ……!
しばらく耐えて、グレン様が手を離したときに、目の前がぼわんとして視界が揺らいだ。
なんだか頭がガンガン痛むし、全身正座のしびれが切れたときみたいにピリピリ痛い、呼吸もままならない。
「あ……?」
「エル。これで終いだ。立てるか?」
殿下に尋ねられるが、立てる状況にはない。
そんな僕を見ていたグレン様が僕に白い布きれを放ってきた。
「それで傷口を縛りなよ」
「……これ……塩や辛子が塗ってあるとか、そういう、ことは……?」
「グレン、お前本当に一体エルに何をしてきたんだ?」
「想像に任せるよ。さすがに神聖な儀式をした直後で、まだ魔力が安定していないところに悪ふざけはしない。巻けないなら早く渡してくれる?」
「あ、すみません……」
「とろい。さっさとして」
そう言ってグレン様はしゃがんで僕に目線を合わせると、ほとんど身動きできない僕の代わりに少しだけきつめに手首に布を巻いてくれる。
「今日は一日寝てることをおススメするね」
あ、優しいところもあるじゃんか…ちょっとだけ見直すよ、ご主人様。
小さく笑うと、ご自分の傷にも布を巻きながら立ち上がったグレン様はもっとにっこりと笑って僕に言った。
「これからがお前の峠だから」
「……峠?」
口を動かすのもままならない僕に、申し訳なさそうに眉をひそめた殿下が教えてくださった。
「エル。言っていなくて悪かった。小姓契約を行えば魔力保有量を無理矢理上げることになる。身体はそれに拒絶反応を示すんだ。今のお前はまさにその初期症状が出ている」
「でもグレン様は…なんともなさそうで……」
「お前、やっぱりその耳はただの穴?僕の魔力保有量を上げるわけじゃないんだから、僕は皮膚が切れた痛みだけ」
え……?それって……
「多分お前はこれからものすごい高熱が出るよ?それ耐えられなかったら死んじゃうからアドバイスしてあげてるんだ。ちなみに生存確率は統計的には五分五分――いや、僕とお前の魔力量の差がかなりあるから、もっと低い…三割くらいかも」
「そういう……大事なこと……なんで、いつも、事後報告なんですか……」
報告連絡相談はお仕事の基本でしょうが!
「うむ……言ったら余計にお前を緊張させてしまうかもしれないと思ってな」
「なんで僕が君に報告するの?報告っていうのは目下の者が目上の者にするものでしょ?」
殿下の方が腰が低く、傲岸不遜のご主人様の頭が高すぎる。頭叩いてご主人様の教育をやり直したい。
「今言えばお前は抵抗できないしね。先に暴れて体力使うよりも温存しておいた方がいいじゃん?優しいでしょ」
「じ……地獄に落ちろ……」
「ふふ、死すらも共に、か。否応なしにそうなるわけだけど」
そこで綺麗な笑顔で微笑んだグレン様はちゅっと僕の額に軽く口づけた。
「お前なら大丈夫だ……と期待してる」
僕はと言えば、「待てえぇ!!いつも自信満々な癖にどうしてそこだけ言い切らないんだよ!」とツッコむこともできずにフリーズ、硬直つまり停止状態になった。
もちろん、額にキスされたからではない。怒りのままに体を動かそうとするのに、単に正座しびれ切れ状態で動けず、おまけに声が出ないだけだ。声が出せたら大声で叫んでいた。
小姓契約って一番わりに合わないのはやっぱり小姓側じゃないかぁあああ!契約の無効を主張する!
A型とB型とかそういう概念はないので、血は固まりません。