はしわたしその3 主の運命・後編
※ R15と残酷描写ありは同様です。
大きな階段や廊下を使わずに僕の部屋まで着いたところで、エルは僕をソファに座らせる。
そして宮廷魔術師の(正装ではない仕事用)ローブやシャツをためらいなく脱がせて寝間着を着させた。
いつもだったら「自分で着ろ!」などと喚いて寝間着だけ押し付けていくのに、一言も言わずにテキパキと済ませると、そのまま僕をベッドまで運んで行く。
王城に与えられている僕の寝室は、既に看病用にセットされていた。
こいつは宣言した通り会議終了後に僕を回収して寝かせるつもりだったのか、室温は暑すぎず、寒すぎず、湿度もちょうどよく整えられていて、サイドテーブルには、飲用水の他に看病用の冷水などが置かれていた。
「まだ吐き足りないでしょう?僕、少し出て来るので、これに吐いておいてください。不浄場で溺死されても困りますんで!あと、吐いた後は脱水になるのでレモン水もちゃんと飲んでくださいね。いいですか、必ずですよ?」
器を押し付けた後、がらんとした広い部屋に一人にされる。
吐いている最中に人に傍に寄られたくないことをあいつなりに察して僕を一人にしたんだろうけれど、今の僕にはそれは逆効果だった。
整えられた清潔な部屋には僕がたった一人。広い空間にただ一人。
あと数年経ったら僕の身に起こることを暗示するかのように、しんと静まり返った、寂寥たる眺めに、唐突に身震いするほどぞっとした。
気休めもなにもなく、たった一人で闇の中に放り出される。
誰にも会うことなく、力もなく、身一つで永遠の苦しみと恐怖の中に閉じ込められる。
僕にとって眠りとはそういうもの。
そして、死は、永遠の眠り。
この世に僕を求める人、僕を無条件に受け入れてくれる人がいなくなって、それを追うように一人で消える。
現実として向き合えば、耐えられるはずもない。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!
誰か、誰かいないのか、僕を必要としてくれる相手は……!
僕個人を見て、僕を惜しんで、僕個人のために涙してくれる相手もいないこの世を惜しむ必要なんてどこにもないはずなのに!どうしてこんなに怖いんだろう!
今この瞬間に誰かに殺してほしいと思いながら、ひと時でも意地汚く生き抜きたいと思う。
なんという矛盾。
死ぬということを本気で考えるほど全身からぶわっと冷や汗が噴出し、もう胃液すら出ないくらいなのに吐き気が収まらない。
「は……ははは…はははははは!」
気が狂いそうなまま全身から力が抜けそうになった時に、ふと、サイドテーブルに飾られた透き通った海面のように青い花が目に入った。満開を迎えて小さいながらも精一杯花弁を開いている。
僕が置いた物じゃない、それを置いた人物を象徴するような花。
毎朝、暗闇から呼び起こされ、一番最初に視界に入るその色。
いつからだっただろう、あいつを本当に欲しいと思うようになったのは。
試練を与えても、苛めても、へこたれずについてくる。
距離を取ろうとしても自然に詰めて来る。
ずけずけと物を言う、肝の太い、あっけらかんとした小姓は、細やかな心の機微がまるで分からないように見えて実はよく気づき、本質的な部分を外さない。
不用意に見られることも触れられることも知られることも大っ嫌いな僕の内側に、無自覚なままに堂々と踏み込んでくる。にもかかわらず決して近寄られたくない所は敏感に察して触れてこない。
薄汚く穢れた僕には眩しすぎるそれに、一人の人間としても、一人の男としても惹かれるようになったのは考えれば道理だなと思う。
奪い、壊す僕と真反対に、与え、癒すのがあいつ。
あいつは、僕の持っていないものをすべて持っているから。
でもあけっぴろげで大らかなあいつは万人に対してそうだ、僕だけに特別なわけじゃない。
その事実があいつへの名状しがたいもやもやとした複雑な感情を黒く澱ませ歪ませる。
あいつは、どうしたら僕の手に落ちて来るだろう?
僕だけに特別な目を向けてくれるだろう?
身動きできないくらいに傷つけて抉って血だらけにして、僕の手で最高の恐怖と痛みを与えてやればいい?
それとも体を暴いて無茶苦茶に抱いて女としての快楽に落とし込めばいい?
考えても分からない。
魔が差せば現実化したかもしれない、一度ならず浮かんだそんな堕ち切った欲望を外に出さないで済んでいるのは、僕が今のこの関係を少なからず気に入っているからだ。
壊すのではなく、温めて振り向かせたい。
前向きな、綺麗な感情で僕に振り向いてほしい。
女としての感情が遅いのは仕方ないから、それはおいおい、平和的手段で追い詰めるから。
考えつく手段と追い詰め方を妄想すれば、僕にそんな時間が残されていないだろうことすら忘れて小さく笑みが浮かぶ。
僕だけを特別扱いしてほしい。
あいつに特別だと思ってもらいたい。
~~~~~~~~~
部屋の外でドアが開く音がして、なにやらかちゃかちゃと隣室で作業をする音が聞こえた。
「入りますよー。」
僕の内心を知る由もない能天気そのものの声をかけたエルは、寝室で物音がしないのを確認してから部屋に足を踏み入れた。
そして、どん、と僕の前に、異臭を放つ濁ったカーキ色の液体の入ったコップを置く。
「……なにこれ殺す気?」
「そうしたいのはやまやまですが、これは単なる薬ですよ。熱さましと、頭痛止めと、眩暈軽減と、吐いて荒れた胃壁と食道を癒す効果と、睡眠導入剤、それから胃を落ち着かせる効能のある薬を混ぜたものです。この、人の飲み物とは思えない汚泥のような見た目と、反射的に涙が出る醜悪な匂いと、お子様は鼻をつまんでも飲めないえぐい味と苦み、そしてどろどろとして舌奥とのどに貼りつく最悪ののどごしを除けばもろ手で歓迎される良薬です。」
「一気に飲む気を失わせる見事な形容だとほめたたえよう。」
「良薬は口に苦し、です。グレン様が医療部に行きたくないとかわがままを仰るから仕方なく医薬部に行って買ってきた僕の自腹です、絶対に飲んでいただきます。」
「ここまでくると復讐に近いよね?病人へのなんたる仕打ち。」
「なら医療部に行きますか?」
恐らく薬が相当に高かったのだろう、じっとりとした半眼が圧力をかけてくるので僕はそれを鼻をつまんで喉に流し込んだ。
……精神力を削る、見事な毒薬候補だと思ったというのが感想だ。
「ゲホッゲホッ…!」
「……まさか一気に召し上がるとは思いませんでした。ちなみに僕も昔一度風邪を引いたときに父様に出されて飲んだのですが、途中で何度も吐き戻しそうになりました。まぁだからこそ効果抜群なのは知っているんですけど。……ちぇ、ちょびちょび飲んで苦しめーとか思ってたのに。」
言われてようやく、他人から与えられたものを口に含ませて毒見することなく一気に煽ったことに気付いて自分が一番驚いた。
僕はどれだけこの小さい灰色の頭の部下を信頼しているんだろう。
「お前も手の込んだ嫌がらせをするようになったもんだよ……。回復したら覚えておきなよ?」
「嘘です、冗談ですよ。こんなにもご主人様想いの小姓なのに。そうじゃなきゃお水とか用意してませんよ。……あと、これも。」
瓶いっぱいにあったのになくなるほどの水を飲んでもえぐみと苦みと臭みが残る、もはや毒物と称していいモノを飲んだ僕に、エルが差し出してきたのは、僕の良く知る柔らかい薄いピンク色の飲み物だ。
差し出しながら小さく首を傾げてくる。
「苺牛乳です。それもグレン様が好む大苺と牛乳が4:6の割合で、練乳も入ってます。その薬が飲めたら差し上げようと思って用意していたんですが、いりませんか?お好きなんでしょう?」
「……いる。」
奪い取るようにして口に含むと、甘ったるい味が広がった。いつもよりはさっぱりとした風味なのは、薬の苦みと反発しないよう、練乳を少なめにしていたからだろう。
じんわりと広がる懐かしい甘さが喉の奥をくすぐる。
それが好きなのは、それが、母と父がよくおやつに作ってくれていた飲み物だから。
五歳になる直前まで平民として暮らしていた、今思えば幸せな日々と、ほとんど面影も覚えていない父の姿をわずかに思い起こさせる子供っぽい飲み物は、どれほど体が成長してもやめられなかった。
辛いときほど無性に飲みたくなる飲み物だけれど、人に知られるのは嫌で、エルにですら作らせたことは数えるくらいしかない。
「……子供っぽいと笑うなら笑え。」
「なんで笑うんです?別にいいじゃないですか、いちごみるく。僕は甘い物大好きなんでおこぼれ大歓迎です。」
僕がゆっくりとそれを飲んでいる間に、さも当然かのように言ったエルは黙って周りの寝具を整えて、僕が寝る準備を進めていく。エルの肩に乗った白いネズミの魔獣が興味深そうにその様子を眺めている。
こんなに早くに薬が効くはずがないのに、なぜか少しだけ胸焼けが取れて頭痛が収まった気がした。
エルは、僕が飲み終わったコップを受け取り水でゆすいだ後、ベッドに横たわる僕に毛布を掛け、そして自分もベッドに乗り込むと隣に座った。
「……誘惑するなら乗るけど?」
「自力で動けないくらいの重病者が何を仰いますか。熱に浮かされすぎです。」
「じゃあなんで。」
「体が辛いときって、傍に誰かにいてもらいたくありませんか?僕、ちっちゃい頃、熱出たときに姉様にずっと傍にいてくれなきゃ嫌だって駄々をこねた記憶があるんで。」
「僕をお前の幼少時と同じにしないでもらえるかな。」
「グレン様は寂しがりでしょう?見栄っ張りだから素直に言いませんけど、すごくすごく寂しがりですよね。それから、本当はイチゴミルクが好きなくせに隠したりって、ちっちゃい子と同じですよ?」
図星をつかれてかっとなると辺りに火花が散り、白ネズミが慌ててエルの服の中に隠れる。
体調が最悪なせいで感情の抑制が効かない。
「……お前、それ以上僕のこと馬鹿にしたら口裂くよ?」
「馬鹿にしているんじゃなくて、事実を申し上げたまでです。」
しかし、エルはそのまま恐れる様子もなく僕の頬に手を当てて包み込む。
「隠すのも結構ですけど、意外とバレバレなんですからね。僕は、グレン様がいちごみるくが好きな寂しがりであることも、グレン様が何かを隠していらっしゃることも知っているんですよ。」
「……!」
青い透き通った瞳は恐れずに僕をまっすぐに見返してくる。
「別に無理して話していただきたいわけじゃないです。僕だって、命が惜しいですから。でも、僕、あなたがそんなにボロボロになっているのを見るのは嫌なんですよ。」
「……それは、僕がお前の主人だからでしょ?弱い主人じゃ頼りにならないもんね。」
「…………前言撤回します。グレン様はお馬鹿ですか?」
ぶに、とそのままほっぺを引っ張られて間近で覗き込まれて、エルの目の端がわずかに赤いことにそこで初めて気が付いた。
「怒ってますよ僕は。なんで辛いと仰らないんです?僕は以前にも申し上げたはずです。小姓を少し頼ってくださいと。そりゃあ?僕は魔力もわずかだし、魔法も武術も剣術も大してできないし、戦略を考え付くような素晴らしい頭脳もありません。でも微力だってできることはあるんですよ。毎朝お起こしして、あなたの体調を整えて、あなたの仕事の雑用くらいはできるんですよ」
「エルお前泣いて」
「毎日毎日、もう一年半もの間、ずーっとそうやってあなたのお世話をしてきたんですよ?一年半、あなたのことをずっと傍で見て、あなたのことを四六時中考えていたんですよ。あなたにとって快適になるように、僕なりにいっぱい考えて!それを主人だとか上司だとか同情だとか、たったそれだけの理由で無理矢理お世話して来たと思っているんですか?それだけの理由でこんなに尽くせると思ってるんですか?そりゃ僕は目についたものに対してできることはなるべくしたいと思いますよ、全員に幸せになってもらいたいと思いますよ。でもですね、僕だって人間です、身近にいる人にこそそう思うのは当たり前じゃないですか!贔屓するのだって当たり前じゃないですか!僕がどんな想いであなたを見守っていると思っているんです!馬鹿にするのもいい加減にしてください!!」
再びなのだろう、じわじわと目の端に浮かんでくる涙を見て、僕の中で何かじわりじわりと浮かんでくるものがあった。
くすぐったくて、温かくて。
ついくすりと笑うと、エルがギッと目を尖らせてきゃんきゃんと噛みついてくる。
「何がおかしいんです、喧嘩売ってます?買いますよ!買いたたいて差し上げますよ!」
「…エル、お前さ」
「なんです!?」
「僕のこと、特別?僕がいなくなったら、寂しい?」
「あったりまえでしょう!!ホント馬鹿だこの人、頭いいくせにバカだ!嫌いだこんな人!なんで僕のご主人様はこんなに自分を顧みない特攻戦車みたいな人なんだろう!こっちの身がもたないんですけど!そんな人に全力でこの身を捧げてる僕すっごく可哀想!あーもう、誰か労ってくれないかな!」
「ごめんごめん、悪かったよ。」
本当は抱きしめたいのだけど、上体を起こすほども体に力が残っていないことが悔やまれる。
代わりにぷにぷにした丸い白い頬に軽く手を添える。
表情を取り繕おうと思わない今、きっと僕の顔はみっともないくらい幼くなっている。
その瞬間、僕の中にあったのは、どこまでも澄み切った幸せだった。
「……うわ。今表情、作ってないですね。なんか自然に優しく微笑まれるとそれはそれで鳥肌が立ちそうというか、慣れてなくて気持ち悪いです。人間、弱っているときって異常な行動をとるって言いますけど、今まさにそれですね。」
「……お前ってほんとにムードも何もないね。」
「ムードよりもおいしいもので労っていただくことを希望します。イチゴミルクでもいいですが、オレンジジュースやブドウジュースでもいいですよ?あ、メロンとコナトのミックスジュースでもいいです。」
「なにがいいです、だ。調子に乗るな。」
「いって。小突かなくてもいいでしょう?」
他愛ないやり取り。そう、これが愛おしくてたまらなかった。これがあるから僕はこの一年半で随分情緒豊かになったんだ。
くすくすと笑っていたら、急激に眠くなった。
おかしいな、毒物耐性がついた僕に薬は効きにくいはずなんだけれど。
「眠い。」
「はいはい、おやすみなさいませ。どうぞよい夢を。」
投げやりな返事と共に僕の右手を軽く握って残りの手で服の中に隠れたネズミをあやしている横顔を見ていると、さっきまでのドロドロとした狂気が押し流されてどんどん瞼が重くなる。
視界が暗闇に隠されても、いつもなら寒くて仕方がない毛布の上で繋がった手の温かさが僕を惜しむ存在が確かに傍にいることを伝える。
なぁ、エル。
「……寝たかな?それにしてもきれーな顔してるんだよなぁ。ほっぺ、おもちみたいに柔らかくて絹みたいにすべすべだったんだけど。ね、チコ、ちょっとくらいつんつんしていいと思う?」
僕があと数年でここからいなくなると知ったら泣き虫のお前はどれだけ泣いてくれる?
その青い瞳からどれだけ透明な涙を零す?
「あ、ダメ?やっぱり?ちょっとくらいいいんじゃない?だってこの機会だし!寝顔だけは超一級の天使のご主人様だよ?」
僕の命を永らえるために、僕の魔力をお前に注いだら、十中八九、お前は文字通り四散して跡形もなくなると聞いても、お前の僕を見る目は変わらない?
「手の甲もすべすべだよー。手が冷たい人って、心があったかいって言うけど、絶対嘘だよ。この人、心あったかくないもん。チコもそう思うでしょ?おぉ、これには同意か!」
汚い世界にも本当は連れて行きたくないけど、それはどうもできそうもない。
でも、お前のことが好きでたまらないから、腕に閉じこめて甘やかしてやりたいと思うから、お前の命は奪いたくないんだ。
どれだけフレディに言われようと、国王陛下に命じられようと、お前は守ってあげるよ。
「げ、足に重力魔法かかってる!立てない!この超度級のドS鬼畜野郎、僕を一晩中不浄場にも行かせない気か!」
だからさ。
命はとらないから、お前の心を僕にくれないかな。
結婚という枷を使うことも許してほしい。
「行けないと思うと行きたくなるというこの摩訶不思議な心理……!あれ、これ結構まずい状況?」
かりそめの幸せでいいから、このぬるく甘い生活が一日でも続けばいい。
その間、お前はわき目もふらずにずっと僕だけを見ていてよ。
「うわあー僕、考えるなー考えるなー現実から逃避しろー。そうだ、思い込めばいいんだ!僕はさっき不浄場に行った!満足した!だから今の感情は錯覚に違いない、そうだ、間違いない!」
そして、僕がここからいなくなるその時。
お前だけでいいから僕個人を惜しんで。僕を想ってくれ。
「やっぱ不浄場行きたい!手を放せこの野郎――――!起きなくていいから手を放せー!足を解放しろー!」
エル。
僕だけの小姓。唯一無二のお前に願う。
最期まで、僕の傍で僕のことをこの世界に繋ぎとめてくれ。
おしまい。
ここまでお読みいただきました読者様に心からの感謝を申し上げます。
ここのところ徹夜で書いていたので眠いですがすっきりしました。グレンはどうしても暗くなるなぁと思いつつ、お読みくださった奇特な方に感謝いたします。
続編の基本はエルが語り手になる予定なので、コメディーが基本路線になります。
書ければいいねっ←嘘です、またその時にお会い出来れば幸いです。