はしわたしその3 主の運命・中編
注意事項は全体共通です。どうかご了承くださいませ。
食欲がほとんどなかったおかげと言ってはなんだが、胃液しか出ず、ひとしきり吐いたところで僕の体は満足したらしい。
清めの魔法をかけることも億劫で、袖口で乱暴に口元を拭ってから、ずるずると個室の壁に寄りかかる。
不浄場は個室使用になっているから、今の僕は密閉した壁に囲まれた空間に閉じ込められている状態だ。普段なら暑苦しくてたまらないその閉塞感が、今の僕にはなんとも言えない妙な安心感を与えた。
仕切られた壁をぼんやりと見ながら封印しておきたかった記憶を反芻する。
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母が僕にかけたのは、生命転換の呪い――この世界では効果が継続することが予定されている魔法のことを呪いと呼ぶ――という、かけられた対象の命に生じる危険を自分に転嫁し、自分の寿命で代替する禁術だ。
そして、これは、魔力過多の障害を持ちながら、防衛本能を失った者が生き延びる、小姓契約以外の唯一の方法でもある。
小姓契約が、王家の承認の下比較的簡易な手続で、他人との間で結ぶ契約であるのに対し、生命転換の呪いは、血縁…正確には、産みの母子でしかかけられない特殊な術だ。術の構造も難解かつ複雑で、かけるためには妊娠六月から毎晩欠かさず一定の術式を踏まなければいけない。
僕の母は、平民である父との間に生まれる僕が障害を持つ可能性や、アルコット家に命を狙われる危険を予期していたのだろう、僕にこれをかけ、成功させていた。
その事実を知ったのがつい三年前だというのだから、笑ってしまう。
この呪いには解呪の方法がないから無意味なのだと言う母の言を信じるわけもなく、異国の魔術書まで調べ尽くし、魔術研究の大家にも解呪方法を尋ねた。
しかし、僕の努力をあざ笑うかのように、手を尽くせども、尽くせども、何も見つかることはなかった。解呪の方法がないからこそ、使える当事者も限定され、代償も大きく、手順も僕が知るどの術よりも重いものなのだ。
母の言葉が嘘ではないことを受け入れざるを得ず、絶望する三年前の僕の腕を痛いくらいの力で掴んだ母は言った。
「アルコットはそんな死んだ目をする家ではないわよ、グレン。過去よりも未来を見なさい。私の命をなんとかするよりも、自分の命を。私を救うよりも、自分の救済を図りなさい。」
「救済などあるものですか!母上を犠牲にして、僕にどうしろと!」
「私の命についてあなたにどうこう言われる筋合いはないわ。」
「っ…!自分のせいで死ぬと言われて…!その罪を僕に背負わせてなんとも思わないのですか…!」
僕の言葉は、どんなにか母を傷つけるものだっただろう。
そんなことが言いたかったわけじゃなかったのに、僕の口からはそんな言葉しかでない。
それでも母は僕を責めずに僕とよく似た紅の瞳を細めて僕の頬をそっと撫でて言った。
「……そうね。私は罪深い。あなたに障害が出るかもしれないことも、あなたが苦難にまみれた人生を送るだろうことも分かっていてあなたを産んだのだから。……それでも、グレン。あなたには生まれてきた以上、生きる意味があるの。必要があるの。殿下だってあなたのことを必要としているのでしょう?」
「ですがっ!」
「グレン、私があなたの代わりをしてあげられるのは、術を発動させた、あなたが四歳の時から十五年。あなたが生まれた日から十九年経ったその日に私はここからいなくなる。それからあなたに残された時間がどれほどか、私には正確には分からない。……けれど、あなたの魔力量から考えてそう長い時間ではないでしょう。だからこそお願いがあるの。」
「……なんですか。」
「私がいなくなったその後、あなたの隣にいる人を見つけて。」
「……結婚しろ、と、そういう意味ですか。」
母は、いいえ、と首を振った。
「隣にいてほしいと願う相手、それはあなたの心を預けられる相手よ。今は分からなくても、必ず、現れるはずだから。」
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母の言葉の意味はあの時は全く分からなかったし、耳にも入らなかった。
それよりも、ただただ、障害による死という、どこか遠くの出来事のように思っていたその事実が突きつけられたことに呆然とするだけだった。
呆然としたが、僕の寿命にではなく、母の寿命のことを想うだけで、自分が死ぬことにそれほど恐怖は感じなかった。
それは、僕が既にたくさんの人間を殺してしまっていたからだ。
最初の事故で死なせた人間だけでなく、自分が故意にその命を奪った人間がたくさんいる。
初めて自分から人を殺そうと思って殺したのは、12の時だったっけ。
フレディの刺客として来た暗殺者を秘密裏に捕まえ、拷問し、そして殺した。
全ての情報を搾り取るため、最期に「どうか殺してくれ」とまで懇願されるほど、僕は冷酷無慈悲に仕事を遂行した。
人の命を奪うのは思っていたよりもずっとあっけなく終わり、終わった後になって、全ての出来事が現実として僕に押し寄せた。
よくやった、素晴らしい出来だと宮廷魔術師たちには褒められ、唯一、僕の師匠だけが無言で目を伏せ髭を震わせたけれど、自分の行動が正しかったのか間違っていたのか、自分が異常かどうかなど、何も分からなかった。
ただ、自ら手を下したことへの湧き上がる罪悪感と、他人を征服することへの内からにじみ出る快楽に苛まれ、事後、フレディにもイアンにも決して見抜かれないようにしながら、毎晩吐いて、吐いて。どうにも不調を隠し切れないと判断したとき、憔悴した様子がばれないように、毒薬の耐性確保と性質実験として即効性のあるものの服用実験をした。あんな状態で耐えられる代物ではなかったと、後からは思う。
結果的に、イアンには、自害するつもりかと詰られ、ぶん殴られ、クロービー公には意識を失いたくなるほどねちねちと説教された。……自害するつもりはなかった、と思うが、実際のところその時の僕の感情は自分でもつかめていない。
そこまでもしても、されても、収まらなかった自分への恐怖。
危険だと思った。
このままだと僕は壊れた理性のない人形になる。
けれど自分がなすべき役目を失って無用な人物として居場所を失うことには代えられなかった。
正気を保っていたら、自分が壊れる。だったら、自分を消そう。
以前、色街で過ごしていた時のように。
今、僕は自分の役目に何も感じない。
今でこそそこまでしなくて済むが、色街での経験を生かして女を騙し、時には体を使ったことにも。政略で相手を嵌め、没落させ、路頭に迷わせ、時には自ら死を選ばせても。拷問をして、死の方が楽だと思わせても。相手をこの手にかけて命を奪っても。
快もなければ、不快もない。無にならなければ狂うと直感的に思っているから、全ての感情の回路を切る。
後悔はない。けれど、これが正義のためだなんて甘っちょろいことも言わない。
僕は自分が正しいと思う道を通したいというある種の欲望に従って、これらのことを行っているのだから、全ては自分本位だ。
そいつがどれだけ一般的に見て悪人だとしても、僕の行為に助けられた人間がいかに大勢いるとしても、僕なりの調査を尽くしていても、やり方の基準を設けていたとしても、どんな理由があっても、僕が手を下した相手の家族は僕を恨むだろう、憎むだろう、殺したいと思うだろう。
いいさ、恨めばいい。
僕が早死にする運命なのは、きっとこれらの報いなのだろう。救われたいと思うことすら許されないかのように毎晩悪夢を見るのは、その呪いなのだろう。
だから、死を受け入れる気でいた。
生きていても苦しいから、永く生きたいとなど、思わない。
せめて、僕に居場所を与えてくれた人たちに恩を返し、僕がしてきた行動に意味を持たせるくらいまで生きられればいい、そう思っていた。
個室の外で、人がぱたぱたと落ちつきなく入る音がする。
「グレン様―?グレン・アルコット様―?いらっしゃいませんかー?寝ていますかー?用足し具から溺れていますかー?」
「……そういう時は、『いらっしゃいますか?』と訊くんだ……。」
「こんなところにいらっしゃったんですね。全く、探しましたよ。ドアを開けてください。」
そう言ったエルは、鍵を開けた男子不浄場の個室にずかずかと入り込むと、座り込んだ僕を見て眉間の皺を寄せ、ぶさいくな顔を作った。
それから僕の傍に躊躇なく跪くと清めの魔法をかけた。
「うわ、想定以上。……臭いでのもらいゲロを防止させていただきますよ。ここで僕まで吐いて『ゲロカップル』の更なる称号を受け取りたくはありません。」
「カップルはいいのか……。」
「そこに言及できるならまだ救いがありますね。口、気持ち悪いでしょう?コップを持てますか?これで口をゆすいでください。」
「……エル。なんで」
「朝から調子が悪そうなことは気づいていたので会議が終わったら即回収しようと思って待機するつもり、だったんです。それなのに、二刻半分の予定よりもずっと会議が早く終わってしまって回収に失敗してしまって。探していたところで宰相様から伝達魔法を受けましてここに。……全く、清めの魔法すらかけられないくらい酷いなんて。僕、朝申し上げましたよね?今日は休めと!」
僕に身動きできるほどの体力がないことを見て取ったエルは、片腕で僕を支えながら、もう片手でコップの水をゆっくりと傾けて僕の口に含ませる。その動作は、乱暴で苛立った口調とは正反対に、ごく慎重なものだった。
調子の悪さだって、全部隠していたはずなのに、こいつはどうして気づいたんだろう?
「なんで分かった?」
「僕がお起こしするときに少量の水をかけるという久々の失敗をしたのにお仕置きがなかったからです。本調子のグレン様が僕の失態を見逃すはずがありませんから。」
僕が口をゆすぎ終わると、その残り水を処理してから僕の手を肩にかけて立ち上がる。
「こんなんだったら休めない会議があるとほざいているご主人様を張り倒してベッドに縛り付けておくんだった。医療部に行きますよ。」
「ダメだ。僕の部屋に向かってくれ。」
僕の明確な拒絶に、「何言ってんじゃ、ぼけ。」と書いた顔でこちらを睨んでくる。
が、これは風邪じゃない。行っても無駄だし、このような無様な姿を多くの人間に晒されるなんて、耐えられない。
「なぜですか!こんなになってるのに!」
「どうしてもだ。僕は何があっても医療部にはいかない。」
「……毒の可能性は?」
「ない。」
僕の断固とした様子を見たエルは、それ以上言い募ろうとした文句を飲み込むかのように大きくため息をついてから、王城の僕の自室へと向かった。