はしわたしその2 喧嘩するほど仲がいいって本当ですか?(2/5)
※石鹸→消毒石鹸に訂正いたしました。
それはある伯爵令嬢のお言葉から始まったのでした。
「マーガレット様。この前私の侍女にくださった……なんていったかしら、消毒石鹸、ですか?あれは今後売り出す予定ですの?なかなか効能が良くてうちの家でも評判でしたの。でした領民に配りたいと思っておりまして。」
「おお、消毒石鹸ですな。私もいただきたいですな。」
『し、商売、という意味では模索中なのです。今、宮廷薬剤師の皆様に量産を頼んでいるところなので少しお待ちください。』
慌てて紙に書いて示すと、殿下が訝し気な顔でこちらをご覧になりました。
「メグ……?何の話だ?」
消毒石鹸、とは手洗いの時に使う消毒薬です。
この国の平民は医師にかかることができません。医師の人数が少なく、宮廷医師となった方以外は貴族の専属の医師になるからです。ですので、平民の方は病気になると、薬屋に行くか、あるいは教会に行くしかありません。
ですが、薬は決して安価ではありません。また、教会は、薬に比べれば安価に治療を施してくれますが、入信を求められることと、治療後に一日ほど寝込むくらいの倦怠感が生じるというデメリットがあります。
アッシュリートンではお父様が国教を信仰していないため、領民のための教会が一軒あるだけで、それもお父様が厳重に監視しています。また、貴族お抱えの医師は金銭的な都合からおりません。そのため、一度病気が蔓延すると大変なことになってしまいます。
この事態を未然に防ぐためにお父様は、領主になる前から、領民が病気になる原因を調査し、そしてそれは大抵家畜の世話などを行った手を水でざっと流すだけで料理をしたり、口に触れるからではないかということを掴みました。家畜の世話などで汚れた手に問題があるのであれば、その汚れがきちんと落としきれれば問題はありません。最近では、ユージーンが各国を回って得た知識で消毒作用のある薬草から手を荒らす毒素を抜き出し、肌に優しい消毒薬を作ってくれたので、これを量産して手洗いの時に使うことを徹底させたところ、我が領では病気の蔓延が他の領に比べてぐっと抑えられたのです。
この城でも、侍女や執事の方、門兵の方、料理人の方など、平民の皆さんは数多くいらっしゃいます。そこで、持参したこの石鹸を使うことを勧めてみたところ、これが好評となり、今では一部の貴族の皆様も使ってくださっていて、材料となる薬草の生産や生成がわたくし及びアッシュリートンの手だけでは追い付かないことになり、宮廷薬剤師の方に協力を仰いだところでした。
これがきっかけで話して下さった方も多く、わたくしとしては大満足だったのです。
が、この話を聞いたフレディ様の眉がどんどん寄っていきます。
そして最後には、衛士を呼んで、
「至急メグの注文を取り消すよう薬剤師に伝えろ。」
と仰いました。
フレディ様の行動の理由が分からず唖然とするわたくしに何の説明もしないまま、フレディ様は表面上の相変わらずお綺麗な笑顔を貼りつかせて、話しかけた伯爵令嬢様に、
「このことは一時保留としてもらいたい。いいか?」
と話をまとめると、わたくしの手を取り、夜会の会場を出てしまいました。
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『フレディ様、いかがされましたか?』
物も言わずに控室に入られた殿下はわたくしに向き直ってこちらを見て、先ほどの事実を一つ一つ確認されるので、それらに頷くと、フレディ様は眉間の皺を深くしてわたくしに問われました。
「なぜそのような勝手なことをした?」
勝手なこと?
『……消毒石鹸は無害です。人体に影響はございません。長年アッシュリートン領で使ってきているので確かです。』
「そんなことは訊いていない。答えろ。」
他人に命じることに慣れた王家の人間の威圧感、そしていつもわたくしににこやかに話しかけて下さるフレディ様の初めての険しい表情にひるんでしまいそうになる心を叱咤して答えます。
『こ、ここに来た時に、周りの方と仲良くなりたかったからです。誰でも病は怖いものですから、他の物に比べて受け取っていただきやすいかと思いました。これほど反響が出るとは思いもよらず……』
「誰かに勧められたり、売れと言われたわけではないのだな?」
頷くと、殿下ははぁ。と大きく息をついてわたくしから一度目を逸らされ、それからもう一度視線を戻すと、仰いました。
「メグ、これからはああいうことをするなら私に訊いてからにしてほしい。勝手なことをしないでくれ。約束してくれるな?」
『……なぜです?』
「なに?」
『理由をお教えくださいと申し上げました。宮廷薬剤師の皆様の手を煩わせてしまったことがいけなかったのでしょうか?』
「それもなくはない。」
『ではなぜ?わたくしには何もするなと?いちいち貴方様にお伺いを立てろ、と、そう仰るのですか?』
「どうしてそうなる!そんなことは言っていない!」
その時、私の胸にあったのは、好きな方に不快な感情を示されたことに対するショックと、そして確かな怒りでした。
わたくしが行ったことは、人体にとっていいものを、健康のために配ったことだけです。
そのおかげでわたくしの周りには確かに人脈というものができたのです。陛下とお約束した後ろ盾として、城内の方、そして平民の皆様を得る足掛かりに出来ると思ったのです。
それを「勝手なこと」と称されたことにも、疑問の形を取りながらも押し付けられることにも、ふつふつと怒りが湧きました。
『貴族の女性は何もかも、夫となる男性の言うことに従わなければならないのでしょうか?それが貴方様の求められることなのですか?この国の現状を変えたいと仰った貴方様の?』
「もう少しゆっくり口を動かしてくれ!貴女が本当に言いたいことが分からん!これだから話せないのはっ……くそっ。」
わたくしの攻撃的な様子に声を荒げられたフレディ様に、わたくしがびくり、と身をすくませると、フレディ様は顔を歪ませ、表情を硬くしたままわたくしから顔を逸らされました。
きっとわたくしの冷静さを欠いたあまりの物言いに、つい放ちそうになったきつい言葉や、会話がスムーズに成り立たないことへの腹立たしい思いを呑み込むための殿下の優しさだった、のでしょう。
でもそれは、声が出ず、相手に自分を見てもらわない限り考えを伝えられないわたくしからすれば、会話を拒絶されたのも同じです。
握られた拳がご自分を落ち着かせるようにぶるぶると震え、大きくため息をつかれたときが、わたくしの限界でした。
ナタリアを呼ぶ鈴を鳴らして助けを求めました。
鈴の音を聞きつけて、部屋の外で様子を窺っていらっしゃった、イアン様とナタリアが部屋に入って来ると、ナタリアはわたくしに座るように言ってから背中を撫でてくれます。イアン様がフレディ様に気を鎮めるように仰ったのでしょう、幾分気持ちを抑えつけたような固い声が降ってきました。
「メグ、こっちを見ろ。」
いつもなら、見てくれ。と優しく言われるその言葉が命令だったことにも心を抉られました。
この方は、所詮は、人の上に立つ者で、下の者に命令することを根底ではなんとも思っていらっしゃらない。この方はわたくしとて下の者と見ているのだわ。
違う、フレディ様はこちらに歩み寄ろうとしてくださっている。だから声をかけて下さっているのよ。
感情と、理性が、身の内でせめぎ合います。
こんなことで揉めるようでは、これからここでやってなどいけない。
わたくし自身がこの道を選んだのに。どうして、わたくしはこんなに頑なになってしまうの。どうして、素直にごめんなさいと謝れないの。
謝るべきことじゃないと思っているからよ。理由くらい教えてくださってもいいはずなのに。
あぁ、せめて言葉が伝えられれば、こんなすれ違いも起こらないのに。
胸の内にくすぶる怒りと、悲しさと、虚しさで、言葉を伝えるために顔を上げることができず、俯いたまま首を振ることしかできませんでした。
「……ならば好きにしろ。」
暫く待っても頑として顔を上げないわたくしに愛想を尽くされたのか、フレディ様は低い声で仰るとそのまま出ていってしまいました。
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「マーガレット様。」
部屋に落ちた沈黙を破ったのは、ナタリアではなく、黒髪の騎士様でした。
イアン様はとうにフレディ様と一緒に出ていかれたものだと思っていたので、驚いて顔を上げると、イアン様が先ほどと変わらない位置に立っているのが見えました。
イアン様はわたくしの言葉が分かりませんので、ナタリアに通訳を頼みます。
『行かれなくて大丈夫なのですか?』
「平気です。グレンの方に連絡を取っておきましたし、殿下も今はお一人になりたいでしょうから。それより、先ほど殿下とどういうことがあったのか、お聞かせ願えますか?」
暫く迷ってからナタリアに一言違わず伝え、それを聞いたイアン様は、難しい顔をなさいました。
「事態は飲み込めました。なぜ殿下があのように仰ったのか、私の方から説明いたします。」
『フレディ様がお話にならなかったことを言ってもいいのですか?』
「……本人は嫌がるでしょうが、貴女様の護衛のためでもあります。貴女様は賢い方ですから、理由を話せばどう動くべきか分かっていただけると思います。それに、フレディに今この説明を求めることは無理ですので。」
護衛、とはどういうことなのでしょう?
「お話を伺うに、貴女の配った消毒石鹸に問題があったのです。とは申しましても、問題は性能ではありません。」
『性能、ではない?』
「えぇ。」
『では、わたくしが支持を集めたのが主に下位貴族の皆様や平民の皆様だったというのが問題ですか?』
「いえ。貴女様が衛生問題に切り込んだことが問題です。」
全く予想外のことを言われて目を瞬かせると、イアン様が続けられます。
「本来、この国で病に困った平民たちが向かうのは大抵が教会です。貴女様の今回作った『消毒石鹸』には病を未然に予防する効果があると先ほど仰いましたが、貴女様が持っていらっしゃった少量を配っただけで平民や貴族以外にその評判が広がるほどであれば、その効能はなかなかのものだと推察されます。この『消毒石鹸』が、もし商業ベースに乗れば、大衆に広まるのはそう遅くはないでしょう。そうなると、病を癒してくれることを理由に信仰している平民の多くの信仰心が薄れる可能性があります。つまり、この『消毒石鹸』を一番警戒するのは教会だろうということです。」
ここでイアン様はかなり声を落とされました。
「……公にされていないことも多々ありますので、ここからは内密にしていただきたいことですが、今私たちは、国の現状を打破するため、まず国教会の力をそぎ落とし、この国の中での権力を落とそうと様々な施策を模索及び実行しております。そのせいで昨今、教会は王家に反発し、これまで以上に警戒しており、貴族内部での緊張がある状態です。これがどういう意味かお分かりになりますか?」
『いえ……』
「教会派と王家派に貴族の中の派閥が分かれているのです。教会がいつ内乱を起こしてくるか、どのような手段で起こしてくるかが読めないのですが、いつあってもおかしくない状態です。」
『!』
宗教というのは人の心のよりどころであることは知っています。だからそれを権力者が安易に弾圧すれば、信者からの内乱も避けられないものだということくらいは分かります。
それでも、それがそんなにもひっ迫しているとは思っておりませんでした。
「それだけの緊張の中で、もしこの『消毒石鹸』が広まったら、教会の力を落とすのに大きな力になりましょう。これを嗅ぎつけられれば、教会は、その大元である貴女を消そうとすら考えるやもしれません。」
「そんな…!マーガレット様は第二王子殿下の婚約者。そんな強行なことをしてくるなんて」
「ありえるのです。特にマーガレット様は一年ほど前の殿下の婚約発表の折、国教を批判する体勢を貴族の前で朗々と述べられました。マーガレット様は教会派からは邪魔者以外の何物でもありません。マグワイア家との婚約が決まっていた以前は、殿下の結婚をそのように利用しようと考える者はおりませんでした。以前の国王陛下の言を覆すことは困難だからです。しかし、その拘束もなくなった今は違います。マーガレット様を弑せば、教会派の貴族のご令嬢を殿下の新しい婚約者とすることもできます。これを機に教会派の中でも過激派が暗殺者を仕向けることすら考えられるのです。」
思わず、というように声を上げたナタリアが蒼ざめています。きっとわたくしも同じ顔をしていることでしょう。
今回のことはタイミングが悪すぎたのだ、ということが徐々に分かってきます。
『……フレディ様はこのことをお話にならなかったのは…』
「こういう政治上の問題が絡むこと、そして貴女様の命の危険が大きいことを知られたくなかったのだと思われます。ここの生活にようやく慣れ、頑張っていらっしゃることが分かる貴女様にこれ以上の負荷をかけたくはなかったのでしょう。ですが私は、殿下を、そして貴女様をお守りすることが仕事です。ですからお伝えしようと思いました。……後でとても面倒なことになりそうですが。」
表情を変えずに話しておられたイアン様は、最後だけ「友人としての」フレディ様のお怒りになる姿を想像されたのでしょう、力なく笑われました。それから少し間をあけて、決心したようにわたくしに告げられました。
「ハリエット嬢が、教会で修道女をされていたのはご存知ですね?」
『は、はい。』
「先日、彼女が不審死を遂げたとの連絡が入りました。」
『え…ハリエット様が…?』
それは寝耳に水の情報です。わたくしを殺すと仰ったあの方が、死んだ、だなんて。
わたくしには知らないことが多すぎました。
「教会は、ハリエット様が神の意向に反して逃亡しようしたことに対する懲罰を下されたのだと説明していましたが、本来は魔力を失うだけのはず。これまで『死ぬ』という事案はありませんでした。……ここのところ、教会ではハリエット様以外にも不審死が続いております。教会には一定の治外法権が認められているので、騎士団による調査も難航しているのです。このハリエット様の行動とそれに伴う死が貴女様と全く関係ない可能性もありますが、彼女の去り際のセリフを思い出せば、全く関係ないと言い切ることもできず、殿下がより気をもんでいるのです。先ほどの殿下の言い様は配慮がなかったとは思いますが、マーガレット様におかれましても、どうかこのことを念頭に置いてほしいのです。長々と失礼いたしました。では」
『どうして……』
一礼後、ドアに向かいかけたイアン様の背に、我慢できずに尋ねてしまいました。
『簡単にでも、例えば、政治上の問題があるからなどと理由を告げてくだされば、わたくしだって……どうしてフレディ様は何も言ってくださらないのでしょう?わたくしは、それほど信用なりませんか……?』
「いえ、それはそうではなく……。」
イアン様はわたくしの言葉を受けて気まずそうに横を向いて
「……全くなんでこんな時に限っていないんだ、あの馬鹿。あいつだったら飄々と話すだろうにこんなことを俺に説明しろなどと…くぅ……言っても仕方ないか。」
と小さくぶつぶつ呟いてから、妙に引きつった顔のままで教えてくださいました。
「男とは、そういう生き物なのですよ。」
『はい?』
「……私には、旨く説明、できませんが。好きな女性に余計な負担は負わせたくないと考えて、それを言わないで裏で収めておくというのは、その……恰好がつく、というかそういう風に考えている節がありまして。男には……どういっていいか分かりませんが、譲れない部分、というのが、あるのです。以前、グレンが、おそらく女性から見ればくだらなく、小さいことと感じるだろうから言っても分からないと思う、と言ってはおりましたが、一応述べさせていただきます。詳しくはあいつから聞いてくださいお願いいたします。」
少々ぎこちなく話された後、「では」と騎士らしくきっちりと腰を折ったイアン様は、今度こそ部屋を出ていかれました。