5 小姓の朝食は遅いのです。
執事の方が音もたてずに引いた席に着いたグレン様が、殿下に問うた。
「フレディ、首尾はどう?」
「ハリエット嬢へ解消申し込みをして合意を得る、という件のことか。……正直難しいな。マグワイア家もしぶとい。もともと望みは薄かったとはいえ、きっぱり断られた」
殿下は、皺ひとつない美しい顔を顰めてから一つため息をつかれる。
それにしても、殿下、姉様のこと、本気なんだなぁ。
第二王子の婚約者がどうなるかなんて、少し前の僕にとっては雲の上のお話だったはずだ。
あの時僕がグレン様の前に落ちたりしなかったら、どういう結果にせよ、全てが終わった後に、そうだったんだーで終わるくらいの話だった。
それがいつの間にか僕が巻き込まれ、芋づる式に姉様も巻き込まれ今に至る。あぁ姉様、僕がうかつだったせいで、ごめんなさい。
「グレンの方はどうだ?」
「まぁそれなりかな。これまでの一切合切の収支計上報告書に目を通せば、予想通り。当主か奥さんがよっぽど資産管理できない阿呆なんだろうけど、領地から上がる収益との収支計算が合ってない。欲望に忠実な家系なのも昔から変わらないんだろうね。その赤字を埋めるためか、ご当主殿周辺は不正の温床!ちょっと調べただけで面白いくらいボロが出て来て、僕、笑っちゃったよ。ただ阿呆でも侯爵家、影響力は大きいからさ、潰して国の経済が滞るのを最小限に抑える策を打ちつつ、決定的証拠を固めてる。これはじっくり腰を据えてやらないといけないとこだから慎重に進めているよ」
「さすがグレン、仕事が早いな。それはマグワイア家には……」
「悟らせてないよ。当然でしょ。僕を甘く見ないでよね」
「お前の手腕は信頼しているからな。甘くなど見ていない」
グレン様が鼻を鳴らし、殿下がくすりとほほ笑まれる。
そういえば、授業をさぼって部屋に籠っていることもままあるグレン様がこれまで部屋で何をしているのか僕は知らなかった。だって僕を見るや必ずお仕事を申し付けて外にばかり行かせたから。
三月目にして初めて見るグレン様の真面目なお顔は、可愛い系腹黒美少年の印象をガラリと変える仕事人の顔だ。
いいなぁ、僕も宮廷獣医師になれたらああいう顔ができるんだろうか。
「ありがたいね。それで、国王陛下の方は今回の件についてなんと仰っているわけ?」
「何も変わらん。条件を満たせば解消自体は構わないと」
「まぁ、予想通りのご回答だね」
「あぁ。先々代の国王陛下が直々になさった約束だ。簡単に反故にはできないだろうと思っていたからもとより期待はしておらん。…だがそうなると、ますます時間が足りないのが悩ましいな……。今聞いた様子だとマグワイア家を失墜させるにはまだ時間がかかるのだろう?」
「そうだね、あとやっておかなきゃいけないのは、商業関係の調整と政治関係の根回しと……あぁ、一番面倒なのは、裏社会のやつらがマグワイア家と係わりが深いってことかな。どの国にも必ずあるけど、裏社会はわりと根が深いからさ。これを今回一斉摘発して潰すにはまだ時期が早い。そうなるとマグワイア家を失墜させる理由として使うことになるけど、そこは『手を切らせないように』いろんなところに仕掛けが必要だし……それにマグワイア家の傘下の貴族誰にもばれないように事を運ばなきゃいけないから、もうちょっと時間が必要かな。確か期限は半月後だったよね?」
マグワイア家は侯爵家。貴族は婚姻関係を結んで貴族同士で親族の繋がりをもつのが普通だから、当然それの傘下には他の貴族も絡んでくる。うちみたいに孤立した貴族はとても珍しいのだ。望んで孤立したわけではないが。
それはそれとして、代々続いていればいるほど、親族関係は広がるもの。マグワイアの血がどの貴族まで入っているのか、どこまで薄まればマグワイアを見切るかの見極めも必要になってくる。
普通はちょっと時間がかかる、どころの騒ぎではない。
「あぁ。半月後の王家主催の夜会で私の正式な婚約の公表があるからな。だから婚約解消するならあと半月以内にしなければならない」
「それだと半月だとちょっときついな」
「どれだけあれば潰せる?」
「早くて四分の三月。一月もらえれば草の根もかき分けて根絶させられるよ」
グレン様はためらいもせずに言い切った。
たった一月で侯爵家が潰される。僕のような弱小男爵家などグレン様が本気になれば半日かからないで潰される。あな恐ろしや。
「間に合わんな……」
「まぁ努力する。半月内で収められないかやってみるよ。ただ期待はしないでほしい。…もう一つの条件の方はだめなの?」
悩まし気に額に手を当ててため息をついた殿下に、グレン様が指摘した事実に僕もぴくり、と耳をそばだてる。だってもう一つの手って――
「メグのことか?」
「愛称で呼ばせてもらう許可は得たんだ。進歩じゃん」
「あぁ。だが遅い。半月で私と同じほど想ってもらえるほどにはならんだろう。その機会がないからな。あれ以来会うこともできぬまま。手紙だけでは限界がある」
「へぇ?意外と冷静に状況を見てるね。僕はてっきり初恋で頭がゆだっちゃってるかと思ってたよ」
「それこそバカにしないでくれ。自惚れる気はない」
「ふぅん?それでも一応その場に来て言ってもらえば?まぁ魔道具使われちゃったら誤魔化しは利かないけど、親愛の情くらいは持ってもらってるんだし、仮にも臣下だからお願いしたらきっと聞いてくれる――」
「ならん」
殿下はグレン様の言葉を途中で切る形で言い切った。
「仮にうまくいって婚約が解消できても、それをすれば、彼女は強制的に私の元へ寄越されるだろう。今のアッシュリートン家の爵位からすれば最悪、『遊び』としてしか認められず、私に他の令嬢を結婚相手として宛てがうまでの『繋ぎ』扱いされる可能性は高い。なにより彼女の気持ちはどうなる?今までひっそりと静かに暮らしてきて、いきなりの大舞台で私の結婚までの愛人となることを強要などされてみろ。彼女は二度とあの可愛らしい笑顔を浮かべてはくれんだろう。彼女にそれは求めん」
「……それだけ本気ってことだね」
「あぁ、そうだとも。彼女の心を手に入れねば意味はない。あと半月という期限のためだけに無理に迫ることもしたくない。私にはそちらの手段を使うつもりは一切ないのだ」
「でも彼女を妃にしたいというのも変わらない?」
「もちろんだ。一時的な気持ちではない。三月会えぬ間も彼女以外に思い浮かべる女性などおらん」
「オッケー、『殿下』。僕もそのやり方をとれとはこれ以降言わないことにするよ」
殿下のきっぱりとした否定に、グレン様もそれ以上は押さなかった。
小姓としての僕は、例え僕の家族に係わることが出てもご主人様たちの話に口を挟むことなんてできない。
でも心の中では拍手喝采だった。
殿下!しょんぼりわんこから、ちょっと株が上がりましたよ!あとで姉様にちょっとだけ口添えしてさしあげますよ!
それから殿下方は到底学生とは思えない仕事の話や他国の政情の話をされ、その間にどうやらこの時間に頼まれていたらしい朝食が次々と運ばれてくる。
温かいスープのいい匂いやパンの香ばしい香りが僕の鼻孔をくすぐる。
起床してから既に一刻半。
朝から無駄に体力と精神と魔力を使わされたせいでいい加減お腹がぺこぺこだ。
きゅるるるるぅ。
姉様の婚約話の後、政策の話に移ったお二人の会話が途切れたまさにその時、高音から低音にかけて、見事な旋律で響き渡ったのは僕のお腹だ。どうしていつもいつもこういうタイミングなのかな、僕は!
「………申し訳ございません」
「あ、お腹空いたんだ。ごめん、忘れてた」
そう言ってこちらを振り返ったグレン様の手にはほかほかのパンがある。あれは多種の炒ったナッツをすりつぶして混ぜ込んだ白パンだ……おいしそう。
グレン様はそれを手でちぎり、僕の目の前に差し出してきた。
「ほら」
「いいんですか?!」
「うん」
にっこりと、グレン様が微笑まれた。
どうしたんだろう、鬼畜悪魔が優しい!
あまりの空腹と、殿下の優しさを垣間見たことで目の前の人物がドS悪魔であることを僕は一瞬忘れていた。
「い、いただきます……!」
「誰が食べていいって言った?」
「え?」
黒い黒い笑顔を浮かべたグレン様が仰った。
「早くバターをつけてよ」
「い……いつもご自分でなさるじゃないですか…?」
「お前に塗ってもらうのもたまにはいいかなと思ってさ」
「ぼ、僕の手垢にまみれたものなどを召し上がるのは嫌でございましょう?」
「だからお前の手をパンにつけないでね。あ、僕の手にバターつけたりなんかしたらどうなるか分かってるよね?」
この三月で染みつけられたお仕置きという恐怖で、僕の背筋に冷たいものが流れる。
知りたくもないのに、もう体が覚えている。いわゆる条件反射というやつだ。
固まる僕を見たグレン様は、椅子にもたれたまま可愛らしく小首を傾げて、
「どうしたの?早くしてよ?」
と天使の笑顔でパンを僕の鼻先に突き出してくる。
とりあえず一回飢餓地獄に落ちてきてください、ご主人様。