45 僕はあなたの小姓です。
姉様の婚約が国王陛下に認められてから四分の一月が経った。
マグワイアの当主には、異例の早さで正式な処分が下った。横領、収賄の他、児童への虐待、グレン様への殺人未遂、そして裏では人身売買といった闇取引まで行っていた彼は処刑されることが決まって、今は関係者共々貴族専用の牢に入れられている。
ハリエット様ご自身はそういった重大犯罪はしていないので処刑は免れたが、不敬罪その他もろもろへの処分として修道女として修道院に入れられることになった。修道院は神との結婚を誓約する場所だ。修道女になると、修道院から逃げ出した時点で神への裏切者とされ、強制的に魔力が「神」に奪われ、魔法が使えなくなる。そうなると、当然貴族たる資格もなくなるわけで、誇り高い彼女には耐えられないだろうということになった。
本来不敬罪程度ではこんなに重い処分が下されることはないのだけど、殿下の婚約者になった姉様に対する公的な場での侮辱、そして暗殺を仄めかす言葉を危険視した殿下から圧力がかかったらしい。姉様の身を守るための措置でもある。
こうしてマグワイア侯爵家は取り潰され、姉様はアッシュリートン姓に戻った。その姉様の「養親」とされていたヨシュア君なのだが、彼は姉様との養子縁組を解除し、父様との養子縁組を結んで、アッシュリートン家の養子に迎えられることとなった。
まぁつまり。
「僕に義弟ができたんですよねぇ。あ、グレン様、どうぞ。紅茶です」
「ん」
僕からティーカップを受け取りつつ、グレン様の目は手元の本から離れない。
執務室の机には窓からの心地いい日差しが差し込んでいる。この間までの喧騒が嘘のように穏やかな日中だ。
最近僕が連れ回してしまっていたチコは久しぶりに故郷の森でゆっくりしているのでここにはいない。
今日は授業もない休日で久々のゆったりした時間を過ごしている。ご主人様は。
もちろん小姓としての仕事に駆り出されている僕には休みなんてない。
「思ったんですけど、今回のヨシュア君の処遇って、グレン様絶対噛んでらっしゃいますよね?むしろ噛んでないわけないですよね?姉や父に事前に養子縁組の話とか持っていってますし」
「だから何?お前はいつも騒がしいよね。本くらい静かに読ませてよ」
そう言って紅茶に口をつけたグレン様が暫し固まった。一度口をつけて、それから、ん?と言ったようにもう一度飲んでから驚愕した表情を浮かべてカップを見ている。あのグレン様が、だ!
そうだろう、そうだろう。
グレン様は、たくさんの茶葉から(僕に)ブレンドさせて、それをアフタヌーンティーとして飲むのが日課なのだが、紅茶の味に大変うるさく、その日の気分に合わないものだと、きっちりお仕置きされる。
それに懲りた僕は、ご主人様の反応がよかった回の香り、味、お湯の温度、ブレンドした茶葉、及びその量とその天候の特徴を毎日メモしてご主人様の好みを研究した。
体調の悪い動物の経過観察と似たようなもんだ。
この三月半、無駄に過ごしてきたわけではない!
「ふふふふふふ、どうですか!その紅茶、グレン様の好みを研究して作った僕の最高傑作ですよ! 」
「……へぇ。そうなんだ」
なぜかグレン様が立ちあがって、にこにこと笑顔のまま、自信満々で自慢した僕の前に歩いて来た。
あ、なんかこの笑顔、嫌な予感。
と思った途端に小さな火が僕の頬をかすめていく。
「ぎゃおっ!!熱っ!なんでですかっ!?なにか失敗しましたか!?」
「いいや?味は確かに納得だよ。ただなんでお前程度に僕が分析されなきゃいけないのかなーって思って。ついでにそのしたり顔が癇に障ったから」
気に食わないとお仕置きする癖に、頑張ってうまくいかせたらなぜか怒られる。
どっちにせよお仕置きがあるんじゃないか!なんて理不尽な!
とは思うけれど、指をこちらに向けてどす黒く笑っているご主人様にそれを意見する勇気もなければ、例え勇気を振り絞って言っても焼け石に水、どころか焼け石に油と火を注ぐようなものだから僕は両手を挙げて降参のポーズを取りながらじりじり後ろに下がる。
「すみませんすみませんっ!僕程度がご主人様を解析しようなどと出過ぎた真似でした!」
「そうだよね、ちゃんと分かってるのにどうしてそんなことしたのかなぁ?そんなにお仕置きされたいの?」
「嫌に決まってるでしょう!だからこそですよ。それと、せっかく召し上がるんですから、ちょっとでも喜んでいただけた方がいいなって思ったまでです!」
「へぇ。こんな僕が喜んでるのを見て嬉しいわけ?」
「そりゃ嫌そうにしてたり悲しんでたりするよりはずっといいでしょう?」
「お前にとって僕は天敵だろうに」
「天敵ですねぇ!でも同時に親愛なるご主人様でもあります。僕は近しい関係になった者みんなに幸せになってもらいたいし、喜んでもらいたいですよ」
「……ほんっとにお人よしだね、お前って」
僕が両手を挙げたまま後退し、グレン様が手を構えていつでも火が出せるようにしたまま迫ってくる。
この状態に変わりはないのに、呆れたような、微かに笑うような声音に僕はつい言い返してしまった。
「そうですよ、自分でも分かっています。それで馬鹿にされるんだろうなぁって!でもそれで笑われるくらいいいですよ、こうした方がみんな楽しいじゃないですか」
「その感覚わっかんないなぁ。僕は自分が幸せであればいいからね」
「まぁ基本はそうなんでしょうけど、グレン様だって人を思いやる程度の人間味がある時もごく稀にはあるじゃないですか!」
「そんなことあったかな?いつ?」
自分で人間味があったときを思い返せないくらい人間味ないと自覚あるのか、この人は。
ならばなぜ改善しない!
「えーさりげなく僕の怪我を治したりしてくれてますし、今回僕がマグワイア領に行ってる時だって、体調に気遣ってくれたんでしょう?イアン様が教えてくださいましたよ。僕のこと信頼してくださってるとか、実は不器用だ、とか」
「…そう、そんなこと言ったんだ、あいつ」
一拍置いて、グレン様は笑顔を深めた。
イアン様すみません!どうやら僕は今、虎の尾を踏んだようです!
あと、不器用だっていうのは僕の推論でイアン様は言っていませんでした!でも怖いので代わりに怒られていただけると助かります!
「イアンもフレディも最近お前に余計なことを吹き込み過ぎている嫌いがあるよね。どうやってやり返すかな。まぁまずはそれを聞いた目の前のやつからか」
元のお顔が可愛いから余計に笑顔にすごみがある。
更なる後退をと足を後ろに進ませようとした時、とん、と踵に壁が当たる感触がした。
しまった、撤退経路を確保しておかないなんて、僕はなんたる初歩的なミスをしてしまったんだ……!
そのまま前進して来るグレン様を避けようと、背中をぴったりと壁につけて目の前の顔を見ないように固く目をつぶる。
「逃げ場ないね。手間が省けていいじゃん」
「グ、グレン様は僕に怨みでもあるんですか!?僕のこと、そんなにお嫌いですか?!」
「まさか。嫌いだったら傍になんか置かずにさっさと始末する。もっと嫌いだったら、ちょっとずつ切り刻んだり燃やしたりしながらなぶってなぶって命乞いさせながら殺すよ。でもお前は殺してないじゃないか。そんなことも分からないんだ」
分かるかぁ!僕はまともな精神をしてるんだ!そんな歪みまくった思考回路に達せるか!
「じゃ、じゃあ僕のこと好きなんですか!?」
「好きだよ。」
「そうですかすみません!どうか命だけは……ん?」
防御魔法を編む間もないのでやけくそ気味にただこの場を避けるためだけに叫んだ。
すると、いつもだったら首を絞められるか、目の前がものすごく熱くなるか、それとも簡単に皮膚がすっぱり行く風の刃が飛んでくるのに飛んでこない。
あれ、何言ったっけ、僕。
恐る恐る目を開くと、指を伸ばせば簡単に触れられるくらいの至近距離にグレン様のお可愛らしいお顔があった。
ルビー色の深紅の瞳とすっと通った美しい鼻筋と形のいい唇がかつてないくらいの近さで見えてぎょっとする。
「ど、どうされたんです……?今何か……?」
「お前が訊いたんでしょ、僕がお前のこと好きかって。だから答えた。僕はお前のこと、好きだよ」
「あー。それは、あれですか、ペット可愛いなぁっていう愛玩の好きですよね」
「さぁ、どうだと思う?」
「だだだだだって、僕ミミズ扱いじゃないですか。女としてなんて見られてないじゃないですか。小姓としてお世話はしてますけど、あー…そういう処理にも使われてませんし?」
「あぁ、だってそういうのに使える女は掃いて捨てるほどいるから。お前をそれに使うなんて無駄なことはしないよ。もったいない。お前をその位置に置いておくほど僕は愚かじゃない」
待って待って指示語多すぎて話が全く分からない。
「分からないなら全部伏せずに言ってあげようか。せ――」
「ああああああ!大丈夫です、なんとなーくなら分かりました。ただ僕のお粗末な脳みそではその意味が理解できないだけです。ミミズを好きになっていただく方向での特殊性癖はなかったと思うんですよ、僕のご主人様には」
「そうだね、ほだされて目覚めちゃったのかもね。ミミズに興奮する程度には」
なんでこんなに複雑な顔してんだろう、この人。
ただ可愛いものに頬ずりしたがる幼児の顔でもあり、年よりは少し幼いくらいの、ただ大切なものを手に入れて喜ぶ子供みたいな顔でもあり、愛しい相手を見つめるみたいな甘く蕩けた青年の顔でもある。同時に眉根を寄せ、少し苦しそうにも、悩んでいるようにも見える。
この攣りそうな表情筋の使い方は僕にはできない。
そして僕を見つめるその美しい瞳にどういう意図が隠されているのかも僕には全く読めない。
「僕はエル、お前が好きだよ。燃え上がる程度には、お前を溺れさせたいと思う程度には」
「……待ってください。言葉だけ聞いてると口説き文句っぽいんですけど、流されませんよ。どうにも手が動かないんですが、なぜまとめて固定されているんです?これ感触が麻縄ですよね?どこからいつの間に出したんです?」
「まじっくたいーむ」
「まじっくたいーむ。じゃないですよ!そしてどうして右手に炎、左手に水があるんです!?それを僕に向けたら、燃え上がった直後に燃え尽きて炭になりますし、溺れたらそのまま溺死しますよ!?…ちょっと、この麻縄、実は魔封じのものではありませんか?風で切ろうとしても風が起こせないんですけど!」
「いや、だってさ。お前忘れてるけど、まだお仕置き残ってたなーって。」
「は!?いつのが!?」
「んー?四分の一月ぶりに会ってご主人様の顔見るや噴出した件とか、国王陛下の前でご主人様に恥かかせた件とか、当主捕まえるときにご主人様に手間かけさせた件とか、呑気に息してる件とか」
「最後のは、呑気に生きるやつは生きる資格がないという意味ですか!?それとも一呼吸ずつ悩んでない僕は生きる価値無しとそういう意味ですか!?」
「それお前にとってはどっちも死ねって言ってることになるけど。それより、どっちからがいい?火と水。僕は火って好きだよ、醜いものを何も残さず燃やし尽くすからね。でも残念ながら顔は見えなくなっちゃうでしょ。だから水からでもいいんだ」
あぁ、とうとう精神異常者とか快楽殺人者みたいなこと言い始めた……!
そして今の僕はまさかの魔法すら封じられている状態だ。この方、僕のこと不死身だとか思い込み始めているみたいだけど、僕は純然たる人間だ。命は一個しかないし、ミミズのように途中で体を切られても生きられる生物ではないんですよ!!
このままだと僕は十中八九殺される!!!!父様、兄様、さようなら!姉様晴れ姿見られなくてすみません!
「あぁいいね、その顔。すっごくぞくぞくする。その浮かんだ涙とかすごいそそる」
変態ドS野郎は僕の目元に唇を当てて、浮かんだ涙を小さく舐めとった。
艶めかしい、こんな時でも艶めかしい。
だが僕にはそんなのどうでもいい、誰か、誰か助けてくれ!
「じゃあ、キスしたら始めよっか」
「言葉だけ聞いたら色々誤解を生む発言はご遠慮ください!そして始めて欲しくもありません!ぎゃあ!その無駄に綺麗な顔を近づけないでください!」
「無駄にってなに。僕は常に自分の持つ素質を有効活用してるから一度だって無駄にしたことはないよ。今だってこの顔と言葉と態度で全力でお前を口説いてるところじゃないか」
「口説くときに指輪の代わりに麻縄を用意するなんて聞いたことがありません!!ついでに言えば腕を縛ったままというのは何かが間違っています!」
「平凡の何が楽しいの?人と違うから面白いんでしょ」
「もし万が一、仮定の話で口説いているのだとすれば、こんな場面で違って楽しいわけないでしょう!?」
「グレン、入るぞ。エルもどうせそこにいるんだろう?二人に話が――」
ちょうどのタイミングで部屋のドアが開き、愛する女性を婚約者に出来たことで最近すっかりご機嫌の殿下が満面の笑顔で入ってきて、そして僕たちを見てその笑顔のままで固まられた。
そりゃそうだ。客観的に状況を見てみよう。
僕は壁際に追い詰められていて両手を頭上で麻縄で縛られて押さえつけられたまま涙目だし、その僕に覆いかぶさらんばかりの距離感にいるグレン様はさきほど火と水を「一時的に」消したせいで僕の顎を持ち上げて、今にもキスせんばかりの体勢。
まるで恋人同士が睦み合っているような、そんな誤解しか生まない光景をたっぷり数ミニご覧になった殿下は、こちらに笑顔を向けたままぎこちなく口を動かされた。
「………グレンがこれ以上なく心を許している仲だとは思っていたが、そこまで行っていたとは私もさすがに知らなかった。大丈夫だ、否定はせん。世の中にはそういう間柄のやつらはいることくらい知っている。それに確かにお前らはその関係でも死なんしな。悪かった、邪魔したんだな、私は」
「うん、フレディ、とっても邪魔」
「邪魔じゃありません助けてくださぐえぇ!!」
「………そうか。どちらかというとグレンの方が、なのか。まぁ他のやつには言わないでおいてやろう。私は口は堅い、安心しろ、エル」
誤解です!!誤解しかありません、殿下!!
僕とグレン様は清く健全な…もちろん命の危険はありますが、それでも想像…いや、妄想されたであろう乱れた関係には一切ございません。ゆえに邪魔でもなければ、そんなところで口が堅くて安心も何もありません!
それに加えて僕は女です!
パタン、と静かにグレン様の部屋のドアが閉まってからようやく喉を絞めていた手がどけられた。
同時に麻縄がグレン様の風の刃で切られたのが分かった。
咳き込み、縛られていた手を擦りながら涙目でキッとご主人様を睨みつける。
「かはっけほけほっ!!グ、グレン様っ!!本当に殺す気ですか……!」
「うるさすぎるから黙っててもらいたかっただけだよ」
「そういう時は口を手で押さえるんです!首を絞めるなんて発想には至らないはずです…!」
「声帯を潰すのが一番手っ取り早いんだよ?そんな基本も知らないとは嘆かわしい」
「そんな不穏すぎる基本を知るわけないでしょう!?それに、どうしてくれるんですか!殿下、完全に誤解されてたじゃないですか!!」
「そうみたいだね」
「そうみたいだね、じゃないですよ、なにのんびりしてるんですか!!早く誤解を解きにいきましょう!!」
「フレディって思いこむとなかなか頑固だからなぁ。特にこういう系」
「じゃあなんで誤解深めるようなことしてくれてるんですか!僕、うら若き乙女なんですよっ!?男として生きていくと決めた時点で恋愛に元から期待なんてないですけど、これはあんまりだぁ……!」
その場で頭を抱える僕をグレン様が見下ろしてくる。
「何度も言ってるじゃん。僕がもらってあげてもいいって。僕、これでもイアンと同じくらいものすごい優良物件なんだよ?お前が普通に生活してたら歯牙にもかけられないくらい」
「どうせなら最初っから最後まで歯牙にかけずに野に捨て置いていただきたかった……!」
「なに既に奪われちゃったみたいなこと言ってんの。まだ何もしてないじゃん」
「されてますよ!されてますとも!僕の乙女心と青春が削られています!」
「どうせお前、働いて婚期逃すだろうし、そもそも宮廷獣医師になったら男なんてできないでしょ。僕も相手作るの面倒だからお前でいいし、その時に男好きって言い通せば僕への縁談全部押し切れるし、でも僕も男だからある程度そういうの必要だし」
「なんですかその完全に手のひらを返した対女性用厄介払いと処理に使う宣言。僕、絶対嫌ですよ?断固として拒否します」
「……へぇ、一刀両断だね」
あれ。なんか今途端にグレン様の機嫌が悪くなった?上機嫌だったところからの落差が滝下りのような速さだった。空気が冗談じゃなくてひんやりした気がする。
あ、そうか。この人自尊心高くて、女性に拒絶されるって経験がないのか。
僕程度が女性として数えられているか分からないけど、それ以外の理由なんて考えつかないしなぁ。
「当たり前ですよ!僕だってこれでも女ですから、全く理想がないわけじゃないです」
「じゃあ語ってみなよ。その崇高な理想とやらを」
「えー……っと。一番は、僕が好きになれる相手がいいです。あとは家族を大事にしてくれる人がいいなと。だって妻って家族ですからね?女性としての魅力に若干どころじゃない不安がある僕を溺愛しろとは言いませんけど、それなりに愛情をもってほしいなって。僕も相手もお互いを大事にできる相手がいいです。それ以外はまぁ、特に。僕が働くことを許してくれて、生きていける程度に相手も働いてくれる人なら」
「贅沢な生活を望まずに自分で働くってとこがお前らしいけど。じゃあ大事にって何?どうすること?」
「えぇ?そりゃあうーん。思いやりを感じられるとか、気づかいしてくれるとか……」
僕が悩んでから言った希望を、グレン様は鼻で笑い飛ばした。
「曖昧すぎて笑える」
「うるさいですよっ!どうせ僕の理想論ですよ。でもですね、女性だったらある程度こういう理想はありますよ?グレン様みたいに気に食わないことがあったらお仕置きして、相手を苛めて喜ぶドSなお方は一定の層にしか需要はないんですから、ある程度上手くやらないと将来奥様に逃げられちゃいますからね?」
珍しく女性としての意見を求められていると思った僕はここぞとばかりに世の女性を代表して答えてみたのだけど、グレン様は少し黙ってから僕の方を見た。
「お前は?」
「はい?」
「お前も逃げるの?お前は傍にいるって言ったのに?」
一瞬何の話か分からなかったけれど、思い出した。
あぁ、そう言えば言質を取ったとかなんとか言ってたあれか。
なんかこの話になる時、グレン様の表情が微妙に固くなるから、軽々しいことは言えないんだよなぁ。
「あれは小姓として申し上げたまでですが……。でも、まぁ僕はどなたかのおかげで傍若無人なわがまま人間に慣れてますからねぇ。それに心も広いですから。命と身体の安全が確保されて想い合える人ならいいです」
「結婚したらうんと愛してあげるよ。心から」
「グレン様が『愛する』?ありえないです、想像できないです、定義を間違えているとしか思えないです。グレン様、僕、主を心配する小姓として教えて差し上げたいんですけど、愛するって苛めることでも、相手を痛みつけることでもなくて、逆。慈しむことを言うんですよ」
「自分の価値観を押し付けるやつって信じられないよね」
「そのお言葉そっくりそのままお返しします。それならまぁ僕ならお断りで」
「でも慈しむことも普通の意味で可愛がることもできるよ?こう見えてもね」
そうか、この人も可愛がり方が普通じゃないということは分かってたのか。
分かったとしても絶対ないな。この人が普通の意味で「愛する」なんてないない。天地がひっくり返ってもない。
「いだだだだっ!」
「その、絶対に嘘だ、信じられないっていう馬鹿にしきった目が無性に腹立つんだよなぁ」
ほら、優しくない!正論なのに!
あぁ同じようにそのお綺麗な頬を抓ってやりたい!上下関係って辛い!
下から睨みつけると、グレン様はにや、と口角を上げた。
「でもその後の悔しそうな目は結構気に入ってる。飽きないよね。だから欲しいんだよなぁ」
「……ん?あの、よくよく聞いているとなんかさっきから僕限定で話が進んでませんか?僕はきっと世のご令嬢と比較して特殊ですから参考にはならないと思いますよ」
「まぁお前が変人なのは今に始まったことじゃないし」
「ツッコむべきはそこではありません!申しましたよね?僕は――」
「僕に依存して離れられないくらいにはしてあげる」
「話を聞いてください!」
子猫がごろにゃんしてお腹を見せた時に誰しもが感じるような愛らしい笑顔に、どうしてだか僕の背筋は凍った。
待て待て待て、おい。
「待ってくださいってば。僕がドS鬼畜の犠牲者になるのは公だけで十分です。これ以上ご主人様を満足させられることはないと思うので、どうぞ私的な場面においては他の方でお腹を満たしてください」
「今だって公私もなにもないでしょ」
「時間外労働を強制して僕の私的時間をなくしているのはどなたですか!」
「もともと時間決めてないから時間外も何もないんじゃない?」
「労働条件の改善を要求いたします!」
「あぁ、そうだ。言い忘れてた。僕、有言実行派だから」
「大事な部分の話を聞けぇ!!」
「事前に宣言してあげているだけでも良心的になったと思うんだよね、僕。というわけでエル」
グレン様の心底楽し気な声が耳元で囁かれた。
「覚悟しておきなよ。お前を縛って逃がさないから」
なんだこの新手の嫌がらせは。肉体危害タイプの嫌がらせに飽き足らず、こういう形の精神的嫌がらせをかましてきたか。
知っていますか?いかに客観的に喜ばれる状況でも、嫌がらせって本人が嫌がらせだと思えば嫌がらせなんです。
たとえ十人が十人可愛い美少年と認める将来有望の侯爵家嫡男に口説かれるという夢のような光景も、人によっては「ドS鬼畜」と書かれた墓標から出てきた亡霊に片足どころか両足を掴まれたようなホラー映像に見えるんです。
「……僕、一番最初に申し上げたじゃないですか……」
「何を?」
きょとん、と可愛らしく小首を傾げるご主人様は全く覚えていらっしゃらないようなので、僕は体を戦慄かせながら、大きく息を吸ってもう一度繰り返す。
「小姓で勘弁してください!!!」
おしまい。
たった半月間で一気に投稿してまいりました。
自分でも呆れる不純な理由で作った短編から始まり、定番テーマ(転生も乙女ゲームも異世界転生も知識チートも悪役令嬢主人公でも婚約破棄…はあったのか、一応、破棄する側で。)でもない拙作をここまで読んでいただき、心から感謝申し上げます。
「お前伏線回収してないだろ!」と突っ込まれるでしょう、その通りでございますはい。むしろ敷いてしかおりませんでした。
そのあたりはもろもろの事情によります、活動報告の方を見ていただけると助かります。
そちらを見たうえでご意見、ご不満(豆腐メンタルなのでお手柔らかにお願いいたします)等いただけるとありがたいです。
時間つぶし等で少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。お読みいただきありがとうございました。 わんわんこ




