44 兄と父とその少年について
バチバチという派手な音は、火花の音だった。少年の周りに光と熱が飛び散る。
誰が遊んでいるわけでもないこの空間でそんなことをしているのは目の前の少年以外にありえない。
ならばこれは――動揺して魔力が暴走した、もしくは脅しとしてわざとしているということか?この何も怖い物などないような少年が?
父さんがいつまで経っても黙り、答えをはぐらかさせる気がないのを悟った少年がちっと舌打ちする。
さっきまで大人顔負けの冷酷な笑顔を見せていたのに、今は打って変わって物事に失敗して悔しそうにする年相応の子供の顔をしている。
しばらくして火花が収まった後、忌々しそうな顔で少年は吐き捨てた。
「………傍に置きたいからですよ、僕が」
「どうしてそう思ったんだい?」
「さぁ。いろいろ細かくて面倒なのでちゃんと覚えていません。考えるのも無駄だと思いますから考えていません」
「考えるのも無駄なくらい、あの子が必要だということかい?」
少年は応えずに、じっと父さんを睨む。
「きっかけでいいよ。教えてほしい。」
「………彼女が言ってくれたからでしょうかね。傍にいると。…この僕個人を見てね」
「そうか。あの子はそう言ったのか……」
「え?は?どういう意味だよ父さん!エルはこいつのこと、好きなのか?」
「いや?安心するといい。少なくとも男として僕はこれっぽっちも好かれていないよ」
そう言って、少年は立ち上がった。状況不利と悟ったのか何なのか、帰るつもりらしい。子供か。
「じゃあお前はどうなんだよ?エルのこと、好きなのかよ?」
帰ろうとする背中に声をかけると、こちらに向いたルビー色の目がすぅっと不機嫌そうに眇められた。
「恋愛って相手に縛られることでしょ?なんで僕が他人なんかに縛られなきゃいけない?」
「じゃあ返せよ。俺の大事な妹を返せ」
「嫌だね」
「はぁ!?」
少年はこちらに身体ごと振り返ってはっきり言った。
「僕は欲しいものは絶対に手に入れるし、気に入ったものは傍に置いておく派なんだ。あれを他人にやる気は一切ない」
「物扱いすんな!大体俺は他人じゃない!エルの家族だ!」
「何言ってんの。家族だろうが何だろうが、僕以外の人間は僕にとって他人でしょ」
「エルにとって、俺は他人じゃないって言ったんだよ!お前の話は聞いてない!」
「だから何?あいつにとっての他人かどうかなんて関係ない。僕にとっての他人は全部他人だ」
「なんだその無茶苦茶な理論!」
「何が無茶苦茶なの?そのままでしょ。……僕はね、縛られたくはないけど、縛るのは好きだよ。縛って、絶対に汚れないように綺麗に綺麗に保存して一人で愛でる。誰よりも信じられる僕自身の手で、誰にも邪魔されずに、ね」
俺を見ていながら、俺個人は邪魔だと言うようにじっとこちらを見透かすルビー色の瞳が、俺を通して誰を見ているかくらいは分かる。俺とエルは双子で、目や髪の色、体格は違うが顔立ち自体はかなり似ているから。
でも、そこに籠る温度にどういう感情があるのかは読み取れない。
愛と言うには冷たく、情がないと言うには熱すぎる。
俺を通して妹を見るこいつが妹に何を求めているのか、俺には分からない。
それでもなぜかその目を俺が見るのはいけない気がして、自分から目を逸らす。
「グレン君」
「なんでしょうか、男爵。あぁ、ご挨拶が遅れてすみません。僕の用事は終わったのでこれで帰らせていただきます」
「いやいや、そんなことではないよ。最後に一つだけ言っておこうと思ってね」
父さんが、態度を豹変させた少年と対照的に最初から変わらない淡々とした口調で続けた。
「私は君があの子を小姓にしたことについて反対はしておらんよ。あの子を守る盾をくれた点についてはどちらかというと感謝している。……だが、父親として、子供を任せる相手は本人が心から想った相手だけだと私は思っている。メグにも、ユージーンにも共通している私の持論だがね。あの子が心寄せた相手と結ばれるためには、私は君をも敵に回そう。…逆に言えば心寄せる相手がどんな過去を持っていようが、どんなことをしていようが、私は構わんのだよ。蛇足だがね」
「……そうですか。僕が今まで聞いた中で最も要らない情報をどうもありがとうございます」
そう言って、そのまま少年は我が家を去った。
少年がいなくなった後の部屋に残された俺は、父さんの胸倉を掴み上げて怒鳴った。
「なんであんなこと言ったんだよ!?」
父さんが去り際のあいつに言ったことは、あいつにエルをやってもいいという許可に近い。
自分の娘の命を握った男。それも裏では血まみれの暗殺者としての顔を持つあの男にどうして可愛い娘をやれるなんて言えるんだ。
俺が掴んでがくがく揺さぶるのに、父さんは抵抗一つしない。
「父さん!どうしてだよ!答えてくれよ!あんなに守るって誓った家族じゃないか!正気じゃない!」
「正気じゃないとも。あの少年を見ていると私は正気じゃいられなくなるんだ」
「なぜだよ!?あいつが父さんの昔の友人の子供で、その一人をむざむざ死なせたからか!?」
「それもないわけじゃない。でも一番は違う」
「じゃあなぜ!?エルがあいつのことを好きなわけじゃないんだろ!?」
「…彼はアデラと同じ障害を持っているのだよ。ユージーン。それも既に防衛本能は壊れている」
父さんの言葉に頭が殴られたような気がした。
母さんは魔力保有量が伯爵家の器よりも大きく生まれた先祖返りで、しかも姉さんとは違い、体の防衛機能が生まれながらに壊れていた。そのせいで20代という若さで死んだ。俺とエルが3歳の時で、残念ながらその時のことはあまり覚えてはいない。ただ優しく笑う綺麗な女の人の姿をぼんやりと覚えているだけだ。
でも姉さんや父さんにとっては違う。
特に父さんは、母さんが死んでからずっとずっと悔やんでいた。
母さんの幼馴染であった父さんは、長いこと母さんが死なないで済む方法を探していた。そしてようやく「小姓契約」という方法を見つけたとき、それを提案して結婚してほしいと母さんに言った。
しかし、母さんは結婚も小姓契約も断った。特に後者は断固として受け付けなかったそうだ。
それでも父さんは粘った。何年もかけて口説き、説得した。
誰とも結婚せず、たった一人で死んでいこうと決めていた母さんを、粘りに粘って説得したときに、母さんから結婚のために出された最終的な条件が「父さんと小姓契約を結ばないこと」だった。父さんはその条件を呑んだ。
母さんは父さんと小姓契約を結んで自分を壊す魔力を流すことで生き延びられたのに、それをしなかったのだ。
小姓契約は王家に伝わる秘術。だから俺が探っても情報は出てこず、詳しくはまだ分かっていない。
俺がデメリットとして知っていることは、最初の拒絶反応で相手を殺してしまうかもしれないこと、そして魔力過多の者の死を回避するためには一人の体に入らなくなった大量の魔力を「定期的に」入れられなければならないこと、それには「母さんがどうしても認めなかったくらいの不利益」があること、だけだ。
「…アデラは私たち友人たちの中の誰よりも強い女性だった。そんな彼女が初めて泣いたのは、メグが障害を持って生まれた時だ。障害が遺伝すると知らなかった彼女はあの子を抱いて『ごめんなさい、ごめんなさいマーガレット、私のせいで』と何度も何度も涙を流していた。もう子供は生みたくないと言っていたそんな彼女に、私は更に無理を言ったのだ。頼み込んで縋ったのだ。子供が欲しいと」
だから俺とエルがいる、のか。
「彼女がもうあと何年かでこの世にいなくなる、二度と会えなくなると思うと辛くて我慢できなかった。寂しさに耐えられなかったのは私だった。どうしても、どうしても彼女がこの世に残す子供たちが欲しかった…。彼女と無理矢理にでも小姓契約を結ぼうとした時もあった。しかし『やめて、約束が違う。貴方を死なせたくない、私に後悔して死なせないで』と泣き叫ばれて、私は断念したのだ。そのせいでアデラを一人で死の恐怖と戦わせてしまった。たった一人でね。押し通せばよかったと、何度後悔したことか…。…私は最後までいい夫ではあれなかった」
重く息を吐いた父さんの紡ぐ低い声は苦しみと後悔で揺れている。
「…彼も分かっているんだろう、自分の命のことを。何でもないかのように言っていたが、自分が死ぬことが怖くない者はいない。その彼が見つけた癒しがエレインなのだとしたら、それはきっと運命だろうとそう思うのだよ。彼を受け入れるかいれないかはエレイン次第だ。私は何も言うつもりはないよ」
「それ、でも……」
俺は妹が大事だ。薄情だろうがなんだろうが、そう思う。
「……そんなことを引き換えにするのは卑怯だろ……」
「彼は自分の命のことをエレインに告げていないだろう。それどころか彼がどういう思いを抱えて、どういうことをしているかも知らないだろうよ」
「なんで分かるんだよ?」
「エレインは我が家の中で一番優しい子だ。傷ついた者を放ってはおけない。呼吸するように自然に助けようとする子だろう?そんなあの子が彼の事情を聞いて放っておくと思うかい?」
「……いや」
放っておくはずがない。
相手を殴ってでも、張り倒してでも、自分が倒れてでも、妹は他人のために動くだろう。例え騙されても最終的には許してしまう能天気なやつだ。近しいやつのこんな傷だらけの人生と心を知って放置しておけるわけがない。
「彼の歳に合わない大胆不敵さや、英断とも思われる行動は、単に自暴自棄になっているだけと思えば辻褄も合う。それでいて死ぬのも怖いから油断はしない。慎重に、慎重に物事を進めようとする」
「それって……矛盾しているじゃないか」
「その通りだよ、ユージーン。行動についてもそうだ。あの子が許されない行動に出るのはいつも、貴族という階級とこの国の不備でどうしても助けられない搾取された平民を守る時だけだよ。それは知っているかね?」
「……だからってそんなことが許されるわけじゃない」
裏の世界は奪わなければ奪われる、単純な力関係で動く世界。綺麗事など言えないのは分かっている。だからその世界に生きる時に身を守る一環としてそういうことがつきまとうことも否定はできない。詳しくは知らないが、あいつが裏町で幼少期を過ごしていたらしいことから、それを無視できないのも分かる。
他人のこととして聞いていたらこんなことは言わない。
だが兄として、妹に近づく相手がそんなことに手を染めていれば穢れていると思うし、その手で妹に近づいてほしくはない。
「あぁ、許されんさ。だから彼はこの国自体を変えたいんだろうよ」
「……俺にはあいつが正義のためだけに動いているとは思えない…。あいつ、そんな殊勝な人間じゃないだろ。あれ、自分が良ければいいって思ってるとこ絶対あるだろ」
「それもある。だがね、ユージーン。人間が一つの行動をとる時にたった一つの理由だけで動ける生き物だと思うかい?たくさんの絡み合った利害と、綺麗な理由、汚い理由、様々なものを抱えて動いているものじゃないかい?お前だってそうだろう?」
「……エレインは…いつもたった一つしか見ていないだろ。あいつ単純だから」
驚くほど単純で、目的に向けてまっすぐな頑固者。それが俺の妹。
清楚でもお上品でもなければ、大人しさや敬虔さの欠片もないけれど、影の世界にいる俺たちには眩しいくらい清純なやつ。
「そうだ。あの子はそういう意味で特別だ。だからこそ彼はエレインに惹かれるのだろうと私は思うのだよ。そして彼はそんなあの子の扱いについても迷っているのだろうよ」
「迷う?」
「彼には耐えられないほどの死への恐怖と、孤独への不安がある。だからエルを小姓にし、エルを近くに置くことに強く執着している。一方で、この世に永くいられない自分が他人を求めることがいいのか、相手に苦痛を与えてまで自分が生き延びていいのか、と考える優しさのせいで、延命のためにエルを使うことも出来ない。一番頼りになる者として全ての弱みをさらけ出したくもなければ、割り切って裏の世界で部下として使うほど穢したくない。彼はエレインについても矛盾だらけなのだよ」
そう言った後に、父さんは辛そうに顔を歪めた。
「きっとあの子はこれからもっと苦しむのだろうな」
「……なぜ?」
「彼にとってこの国の改革は生きる縁のようなものだろうよ。それを終えれば死んでもいいとそう思っていたんだろう、あの顔は。しかしちょうどそれに乗りかかった時に『生き延びたい』と思う気持ちも芽生え始めている。そしてその理由が何かにも気付きかけている。エルに対する気持ちが、単に死の恐怖ゆえの執着以上の気持ちであることに気づいてしまったとき、彼は余計に苦しむのだろうよ。愛する人の寿命を縮めることなど、愛すれば愛するほどできはしないのだから」
愛する、と考えて大切な婚約者の顔が浮かんだ。彼女を一人で置いて逝かなければいけないとしたら、俺は彼女と婚約できただろうか。
理性は彼女を遠ざけるべきだと考えるだろう、一方で彼女が他の男の元にいる姿を考えれば嫉妬で焼き切れそうだ。
彼女も、家族も、友人も。誰一人いないままたった一人で死んでいく、それはどれだけ辛いだろう。それが間近に確実に迫っていると思ったら俺だったら気が狂いそうになる。
他人などおかまいなしに安易に生き延びる術に縋りたくなる。
でもそれがナタリアの苦しみと引き換えだと言われたら、俺はどうする?
「あの子からエレインを取り上げることは簡単だ。もしかしたらあの子にとってはその方が救いになるのかもしれない。…それでも私にはできないんだよ。狂おしいほどに他人を愛する気持ちを知って、それに負けた私が、手前勝手に愛する相手をあの子から奪えるはずないんだよ、ユージーン」
目頭をきつくつまみ、苦痛を耐えるように椅子に座り込む父さんを見たらそれ以上文句も言えない。
父さんにとってあいつが、母さんの苦しみであり、父さん自分自身でもあることが分かってしまえば、俺に父さんの行動を糾弾することはできない。父さんの長年の苦悩を一番近くで見てきた俺だからこそ。
あぁ、くそ。
あいつもあいつだ。
そんな重いもん持ってるなら、ちょっとは見せろよ、バカ。演技うますぎだろ。
人の神経を逆なでするようなことばっかり言いやがって。いやあれも素なのだろうけど。
あいつのそんな事情を全部知っている人間はこの世に一人もいないんだろうか。
あいつは今たった一人なのか。
丸ごと抱えてくれる人間はいないのか。
あいつはいかにもなんでもないかのように自分の寿命が短いことを語った。平然とし過ぎていたから俺はそれを聞き過ごした。父さんに暴かれなかったらあいつの、傷ついて血を流して満身創痍の獣のような側面に気付けなかった。
気づいたから悩む。同情も湧く。憎み切れずにぐちゃぐちゃと考える。
エルなら違うのかもしれない。
エルは本質を直感で掴み取るやつだから、悩みもせずにその場でやるべきことと進むべき道を選び出す。
能天気で純粋で穢れのない妹であれば、もしかしたら、がんじがらめになったあいつを救えるのかもしれない。
くそっ、こんなこと考えたらもう思う存分恨めなくなる。
「……はぁ。姉さんも、エルも。なんだって俺の姉妹は面倒なものばかり捕まえてしまうんだ……」
「お前はあの子たちが『捕まった』のではなく『捕まえた』と言うのかい?」
「だってそうだろ?姉さんもエルも捕まえられるタマじゃない。姉さんは欲しいものは意図的に『掴み取る』タイプだし、エルはもっと厄介で考えずに『絡めとってしまう』タイプだろ」
「…ふふふ、はっはっは!言いえて妙だな。だがなかなか真理を突いている。お前の今年の一番の名言だな」
目じりが涙混じりの父さんが笑う。
笑い事じゃない。エルは5歳の時にやらかしてから常習犯になっているんだから。
「父さん、あいつはエルのあのことまで知ってると思うか?」
「いや、知らんだろう。あれは家族以外には知りえない。ナタリアだって知らないのだからな。そういや、ナタリアやエルには会っていかないのか?」
「会っていきたかったけど、でも時間なさそうだろ。あの様子だとこの国は近々荒れるし、外だって不穏だ。今の俺じゃ何も守れない。時間がない。俺はもっと力をつけなきゃいけない」
「ふぅむ、お前も少しは成長したか」
「あったりまえだっての。エルが『いなくなったあの時』に、俺はこの道に進むと決めたんだし、ナタリアを家族にするって決めたときから責任ができたんだからな。甘えたれではいられない」
「そうか。お前もしばらく見ん間に男になったな、ユージーン!」
「言ってることとやってることちげーだろ!!やめろ、ぐしゃぐしゃになる!」
父さんは、そう言って小さい頃と同じように俺の頭をわしわしと撫でたのだった。