41 小姓は覚悟を決めております。
陛下が婚約を宣言された途端、地の底から叫ぶ獣のような唸り声が聞こえた。
その声の主であるところのマグワイア侯――いや、元侯爵、は顔を憤怒で歪ませ、憎々し気にグレン様を睨みつける。
「グレン・アルコット……!貴様のせいで……っ!!貴様のせいで私の築き上げてきたものがっ!!」
「逆恨みですよ、嫌だなぁ」
グレン様は立ちあがり、マグワイア元候の怒りを煽るように、くすっと嘲笑った。
「法を犯してまで富と地位に縋り付いたからそうなるのです」
「貴様がいなければこうまではならなかったはずが……!」
「おや。『一時は』全盛を築いたマグワイア元候にそう言っていただけるとは身に余るお言葉ですね。残念ながら僕だけではどうにもならないところは多々あったのでそのお言葉は正しくありませんが」
「馬鹿にしおって……!こうなれば貴様ごと……!」
怒りのあまり正気を失い、ごおおっと凄まじい魔力の塊を手に生み出し、それを持ったままグレン様に走りかかるマグワイア元候。
――は、ずるっ!と派手な音がするくらい見事に足を滑らせ一瞬巨体が空中に浮き、そのまま浮くこともなくずしん、とその場に倒れた。
「主に手を出さないでください。小姓の僕が困ります」
立ち上がったグレン様の前で僕は元当主を見下ろす。
「……エル、僕を庇ってくれたのは及第点だけどさぁ、床を凍らせてそこに潤滑剤を流すっていうのはどうにも格好つかないんじゃない?」
「だって泥を塗れって仰ったじゃないですか。泥じゃなくて潤滑剤になっちゃいましたけど」
「時と場面を見て空気読んでよ。ここはしっかり防御魔法で僕のこと守って、どかん!と一発派手な攻撃魔法で悪役を沈めてから、『ご主人様、ご無事ですか』ってやるとこでしょ」
「何仰ってるんですか。放っておいてもグレン様お一人でどうとでもできるところをわざわざ飛び出しただけでも十分お役目は果たしていますって。そもそも相手は元侯爵様ですよ?あんな魔力の塊を正面から食らったら僕程度の紙っぺらな防御魔法なんてあっという間に破られて僕が塵も残らず消し飛びます」
「それはそれで一つの経験だよ。人生は経験を積むことで豊かになるって知らないの?」
「経験を積むも何もその瞬間に人生が終わります」
「全く、お前が大したことをやってくれないから僕が自分でそいつの魔力の塊を消さなきゃいけなかったじゃん」
「さすがに王城の床に大穴空けるわけには参りませんもんね。そこまで配慮してくださるようになったなんて……感涙ものです」
「分かってないな。主に手間かけさせるなんて小姓の職務怠慢だって言ってるんだよ。これは立派なペナルティーものだよね?」
「確認する傍からどうして手に炎を生み出すんです?!落ち着いてください!僕はまず罪人を拘束しなければいけませんから!」
背後のグレン様がどう見ても一番危ないのだけど、国王陛下の御前で背後から炎をぶっ放すことはしないだけの最低限の良識はあると信じて、僕は主人に背を向けた。
滑ってその体重のままにちょうど大理石の出ていた床に顔を打ち付け気絶して間抜けな幕引きをした残念な悪役を捕縛して、衛兵のみなさんに引き渡す。
ハリエット嬢の方は放心したまま、目の前の様子を光を失った瞳に映していたのだが、父親と同じく衛兵のみなさんに引き連れられる途中できゃははははは!と高笑いをした。
そして虚ろな目が、唐突に姉様の方に向けられる。
「ふふふふふ。マーガレット・アッシュリートン。覚えていなさい。私からすべてを奪った諸悪の根源のあなたを私は絶対に許さない。どうなろうと私はあなたをその地位から突き落としてあげる!私の足元に這いつくばらせて今日のことを死ぬほど後悔させてから、じっくりいたぶって殺してあげる!きゃははは!」
姉様は、半分狂気に侵されたようなハリエット嬢の目を気丈に見つめかえす。
それでも相手の異常性に隠しきれずに小さく震える姉様を、ハリエット嬢の視界から遮るように殿下が抱きしめ、衛兵に命じられた。
「大丈夫だ、メグ。貴女のことは私が何があっても守る。衛兵、その者を早く連れて行け」
「はっ!!」
殿下に続けて、様子を見ていた宰相閣下が有無を言わさず貴族たちをその場から帰すため衛兵に命じた。
「お集りの皆さま、申し訳ありませんが陛下はもうお疲れです。一時この会場は閉鎖させていただきます。衛兵、ここの会場を閉めなさい」
「はっ!!」
宰相閣下は実力で選ばれたと評判の公爵家の方で、通り名が「慈愛のクロービー公爵様」であるほど人当たりのいい苦労人だそうだ。
この一月はずっと他国に視察に行っていたせいため、部下であり宰相補佐であるグレン様にお仕事を任せていたらしい。「グレン君であれば間違いないですから」と出発間際に仰ったのだそうだが、なぜか日頃は胃薬も欠かせないと風の噂で聞いたことがある。
それでも性悪で極悪人のグレン様の手綱を握れるのだからきっと相当な切れ者なのだろう。
姉様は殿下とお話があるだろうから、一人で貴族の皆さまと一緒に退場しようと思って出口に向かっていたところで首輪を引っ張られて強制的に引き止められた。
「ぐえぇっ!!ごほごほっ!」
「潰れたカエルみたいな聞き苦しい声出さないで。陛下がお前を呼んでいらっしゃるからさっさと行け。僕は宰相閣下と話があるから失礼のないように」
グレン様に背中を押されて、一度離れた姉様たちのところに戻ると、第一王子のライオネル殿下と全く同じ、黄金色の髪にアメジスト色の瞳の国王陛下が僕と姉様とをじっとご覧になっているのが分かり、慌てて臣下の礼をとる。
「面を上げよ」
国王陛下と最初から目を合わせるなど不敬の極みなので、陛下の胸元あたりに視線をやるようにして顔を上げる。
国王陛下とは、まじまじと見てはいけない相手であり、向こうから許可が出るまでは話しかけてはいけない。それが普通。そういう身分の差がある雲の上のお方だ。
しかしそのお方はしみじみと、知り合いのおじさんのような親しみを込めて呟かれた。
「そなたたちがアデラとオズヴェルの子供なのだな……」
「もっと早く会いたかったわね」
国王陛下と王妃様のお言葉に僕だけでなく姉様も戸惑いの表情を隠せない。
そんな僕たちの様子をご覧になり、殿下と同じ色彩の髪と瞳を持つ王妃様が笑って補足してくださった。
「あぁ、私たちはアデラとオズヴェルとは昔馴染みなのよ。そのアデラそっくりの娘が私の息子と……時の流れって早いのね」
「そうだな。あの時には不可能だったものが変わっていくのだと今日改めて思わされた。マーガレット嬢」
姉様が口の動きではい、と呟き、小さく視線を上げる。
「これからそなたは私たちの娘にもなるわけだ。私たちはそなたを家族として迎えるつもりでいる。それでもそなたの事情、身分であれば私が今日ああ宣言しても、動乱は避けられまい。そなたもフレデリックの隣にいる限り、様々なそしりを受けよう。その覚悟はできているのだな」
姉様が黙って頷くのを見て、陛下は目を細めた。
「容姿だけでなく、中身もアデラによく似た娘なのだな。アデラが存命であればさぞ喜んだであろうに。……エルドレッド」
今度は僕にその目が向く。
お優しそうな暖かい光がその目に宿っているというのに、頂点に立つ人間の段違いの威圧感は薄れない。
そのアメジスト色の瞳は何物をも見透かすようにまっすぐと僕に向けられているから、ただ呼ばれただけなのに緊張が走る。
その名に返事をすることは、僕が「男である」と王家に嘘をつくことになることくらい分かっている。
それでも、答えは変わらない。
自分の夢と信念のために、最大の秘密と嘘を抱える覚悟ならもうとっくの昔、学園に入るときにしてきているから。
僕は小さく息を吐き、そしてそのアメジスト色の瞳と不敬を覚悟で目を合わせた。
「はい」
「そなたはアデラにもオズヴェルにも似ており、そして似ておらんな。…確かアデラが死んだときそなたはまだ幼子だったはずだ。アデラのことはほとんど覚えておらぬのか?」
「……はい」
「でもあなたの中にアデラは生きているわ。その目を見れば分かる。あの子の親友だった私が保証してさしあげるわ」
「王妃殿下……」
「そなたはグレンの小姓をやっていると聞いた。認めたのはフレデリック、そなただな」
「はい、父上」
「……その目に迷いはない、か。ならばよい」
国王陛下がちら、と一瞬だけ僕の左手首に目を走らせ、そして息子である殿下をご覧になる。
殿下が僕とグレン様の関係を認めたということは、もし僕が失態を犯したとき、王家の秘密を僕に漏らしたその責任を殿下が取ることになるのだと、僕はこの時にはっきりと認識した。
「エルドレッドよ。どうかグレンを支えてやってくれ。あの者も私と妃にとっては息子のようなものなのだ。……あの者が必要としたときに何もしてやれぬ罪深い養父だがな」
「……はい?」
つい呟いてしまった僕を姉様が窘めるような目で見てきて慌てて口を閉じる。
その様子をご覧になっていた陛下は楽し気に髭を震わせてお笑いになった。
「ふふ……先ほどの言葉を補足しよう。そなたには昔のオズヴェルと同じものを感じる。先ほどからそなたの言動は昔のオズヴェルを見ているような気がして懐かしく思っておったのだ」
僕が父様と似ている、か。
ちゃらんぽらんな人だけど、そんな父様を誇りに思っているから悪くはない。
「エルドレッドよ。グレンのため、そしてこの国のため、よく勤めてくれることを願う」
「はっ」
僕は深く頭を垂れた。
国王陛下とのお目通りを終え、陛下方が退出された後、姉様はライオネル殿下方との挨拶があったので、僕はイアン様と一緒にナタリアがいる部屋の方へ戻った。
「そうだ。エル。このものを返さなければいけなかったな」
「きゅうっ!」
「チコ!」
イアン様に預けていたチコがイアン様のタキシードのポケットから勢いよく僕の方に跳んできて、僕の腕の中に収まると僕の頬を舐める。
「はははっ、くすぐったいよ。お疲れさま、チコ!」
「そのネズミのおかげで間に合った。感謝する」
「感謝ならチコにしていただけると。あの後何があったんですか?」
「お前が王都に向かった後、制限時刻の最後の最後に、ある川の本流の中腹あたりに鳥が集まってな。それで場所は掴めたんだが、急流で木を重ね合わせた即席の板船ではどうしても向かえなかった。これはまずい、と焦っていた時にあのお前が助けたワニが出てきたのだが、今度は、ワニは何かを訴えているようなのにそれが何か分からない。その時にそのネズミが縄を持ってきてな。それを持たせて、片方をワニに括りつけるよう示したのだ。ワニたちが舟を引っ張り、あるいは背に乗せてくれたおかげで川の小島にたどり着き、あとは鍵を壊してヨシュア殿を救出できた、というわけだ」
「そうだったのですか……。イアン様が途中で僕に絶望的な顔で首を振られたので、結局見つからなかったということだと思っていたのですが…違っていて良かったです」
「首を横に?…あぁ。あれは、俺が部屋に入る前に陛下に進言したグレンと廊下で会ってな。その時にグレンの顔がこれ以上ないくらいにやけていたから、これはまたえげつないことを考えているのだろうと思ったんだ。残念ながら俺にはあいつの暴走は止められないからな。無力ですまん、という意味だ」
「あぁ…。あの表情の意味を非常によく理解いたしました」
紛らわしいと思わないでもないのだけど、イアン様のその時の心中を慮ればおかしくはない。
話している最中にナタリアのいる部屋の前に着き、イアン様は僕に告げた。
「エル。俺はこれからこれまでの業務報告書をまとめなければならないから執務に戻る。お前はおそらくここのところの寝不足で疲れているだろうからよく休むといい」
「僕が先に帰ったら後からご主人様にお叱りを受けそうなのですが」
「そんなことはないぞ。グレンとは調査中も伝達魔法で連絡を取っていたが、やつはお前がどうしているか毎日訊いていたからお前の活躍は知っているぞ」
「それは監視、という意味での気がします……!」
あの時の僕のへたれっぷりが報告されていたか……!
顔を蒼ざめさせながら言えば、イアン様は苦笑した。
「それは誤解だ。俺はあいつにお前を適度に休ませるように頼まれていた。そしてお前が一番辛い時にあそこに留まらせるように言ってきたのも他ならぬあいつだ」
「そしてって接続詞はおかしいですよ。やっぱり、じゃないですか!全くあの方は!性格悪いんだから……!」
「エル、違うぞ。……いや、違わないというのも正しいか?」
「どっちですか!」
僕が噛みつくと、イアン様はその美しい顔に苦笑を浮かべる。
「あいつは確かに性格が悪いが、本来の性格以上にあえて周りに嫌われるようにやっているところがある…と俺は思う。今回の件だって、グレンに言われていなければ、俺はお前をあそこに残していなかった。お前が嫌がろうと無理に王都に送っただろう。それがお前の客観的な体力や能力を見たうえでは規律上正しい行為だと思ったからだ」
「どういうことですか?」
「俺は何度ももうこれ以上残しても無意味だろうと言ったのに、あいつははっきりと言ったんだ。『あぁ、僕の小姓は逆境に強いから。きっと成果を出すよ。体力的にできそうなら信用して置いてやってよ。』とな」
「そんなこと……!」
グレン様が僕の能力を信用している?いつもあれだけ使えないって言ってるのに?
「俺はフレディほどあいつのことは分からない。だが、あいつがお前を小姓にしたと聞いた時からこれだけは確信している。あいつは誰よりも早くお前のことを認め、誰よりもお前のことを信頼しているということ。そしてお前の前で素直に出さないだけでいつも誰よりお前のことを気にかけているということ。あいつは認めないだろうがな」
なんだ、それ。
息をのんだ僕を見て、イアン様は精悍な顔で美しく微笑んだ。
「というわけだ。今回もお前が今体力の瀬戸際だということくらいあいつにはお見通しだろうから、怒るということはないだろう。あいつにはお前が先に帰ることは伝えておくから安心しろ」
言うだけ言って、イアン様は騎士らしく姿勢よく歩き去っていく。
ど、どういうこと…!?今の話が正しいとすると…グレン様ってもしかして…ただ不器用なだけだったりして――いやまさかあの鬼畜ドSが……!
ぐるぐると思考が回る――のかと思いきや、回っているのは視界だった。
なんか考えてたら急に眠く……もう考えるの面倒くさいや……。
「エル!!ドアの前で何突っ立っているの?うまく行ったのでしょう!?……あら?エル?一体どうしたの?」
「ごめんナタリア急激に眠気が……僕、寝る……」
「ちょっ!?エル!待って!あぁ誰か、馬車を呼んでくださいませんかー!?」
大迷惑をかけてごめんナタリア――と思いながらも、緊張の糸が切れたらしく眠気に逆らえない。
ナタリアの腕の中って女の子の体でふわふわで気持ちいいなぁ、なんて完全に男子の思考をしながら、僕は久しぶりにゆっくりと眠ったのだった。




