4 小姓が説明いたします。
ぜぇはぁと息を荒げながら、どうにか戻りたくもないグレン様の部屋に戻るとグレン様は部屋を出る準備を整え終えており、僕を残念そうに見つめた。
「うわなにそのひっどい髪。ぼっさぼさで見るに堪えない」
元々梳いていなかったとはいえ、今逆さまにしたやつに言われたくはない。
「これからフレディのところに行くからちゃんと梳いてよ。主人として恥ずかしくて部屋の外に出せないでしょ」
「……今、僕の意思に反して外に出させられましたが……」
途端に額に刺さらんばかりの勢いで飛んできた櫛を真剣白刃どりの要領で顔の目の前でキャッチし、不浄場まで歩いていって命じられた通りに髪を梳く。
この程度でキレていたら僕の脳の方が先にやられる。慣れというやつはげに恐ろしい。
あぁ人間丸くなったもんだ。
「エル、用意できた?」
「はい、ただ今」
応接間に戻り、恭しく櫛を返す僕を、さっきまでの寝ぼけはどこに行ったのやら、ピシッと決められたグレン様がまじまじと見た。
「うーん、まぁ身なりを整えれば見られなくもなくもなくもなくもないかもね」
「……それ、見られないって言ってませんか?」
「よく気づいたじゃないか。へぇ、犬っころも成長するんだ。大丈夫、唯一お前の目だけは美しいと褒めてあげよう。この僕が褒めるんだから自慢するといいよ」
満面の笑顔で僕の頭をなでなでするグレン様。
あぁそうですね自信過剰のドS様。僕の目だけはただ唯一亡き母様、そして母様に瓜二つのお美しい姉様と全く同じコバルトブルーですからね。
つまり父要素部分は全否定、というわけだ。父様、残念。そして僕よりも父要素を濃く継いで全く同じ色彩を持つ兄様、残念。
「最近ではその灰色の短い髪も、挑戦的な青い目も見慣れてきたから、魔力よりも先に外見でお前だと分かるようになったんだ。客観的に見たらどんなに不細工でもペットが可愛いと主張する飼い主の思考回路も今回で学習できた。お前がいると僕も日々新しく知ることばかりで飽きなくていい」
グレン様ほどの魔術師になると他人のことを見た目よりも魔力の量や質、色彩 (あるのだそうだ)で見分けてしまうことがほとんどなのだという。
顔と名前を覚えておくのは必要に迫られるからであり、その必要のない相手の顔なんかに記憶容量を使うのは脳みそと時間の無駄、とはっきり言われた。
そしてさりげなく人を不細工わんこ扱いするのはよしてほしい。
「僕はペットではありません。それにしてもなぜグレン様は殿下のように髪を伸ばされないのですか?」
この世界で、女性は髪が長いのが当たり前。髪の長さや艶やかさは女性の美しさの一つの基準である以上、どの女性も髪を腰より先まで伸ばし、編み込んだりまとめたり流したりしている。
一方男性でも、どこまでかはまちまちだが、髪を伸ばす方は多い。特に上位貴族になると殿下のようにある程度の長さに伸ばし、一つに束ねる。美しい髪を維持するのは大変なので、富の象徴にもなるからだ。
そんな中、グレン様は髪を短めに切り揃えており、横は耳が隠れるかどうか、後ろも首元までだ。僕が髪を切っているのは経済的にも男装のためにも当然だが、侯爵家のグレン様はもちろんそんなことをする必要はないはずなのに。さらさらで綺麗だからもったいないのにな、と寝顔を最初に見た 一日目だけは思った。一日目だけはね。
「僕の家が侯爵家であることは自明。今更富を象徴する必要なんてないでしょ。それに髪を伸ばしたら他人に手入れしてもらわなきゃいけないじゃん。僕、他人に不用意に身体に触られるのは嫌いなんだよね」
「あれだけご令嬢方とうにゃうにゃされているのに、ですか?」
「いつ僕があいつらに身体を触らせたって?」
「え。だってグレン様はあちらのご経験が豊富だと……」
「触らせないで色々する方法はいくらでもあるよ。喘がせる方法も溺れさせる方法もね。知りたい?」
うっわ笑顔が黒い。
乙女の僕になんとハードなプレイを要求するのか。無茶苦茶言ってもらっちゃ困る。
「いえ欠片の興味もございません」
すぐにそうお返事してからちょうど到着した殿下の部屋を僕がノックする。
「フレデリック殿下、グレン様が小姓、エルドレッドでございます。扉を開けて構いませんでしょうか?」
「いいぞ。入れ」
「失礼いたします」
僕が殿下の部屋の扉を開けると、眩しい笑顔の殿下が意気揚々と僕のところまで早足でやって来られた。
「エル、朝からご苦労。それで今日はメグからの手紙は……」
「今朝は受け取っておりません」
「………そうか……」
しょぼーんとあからさまに肩を落としてとぼとぼと室内に戻られる第二王子殿下。
あぁ、この姿を世の女性が見たらなんと言うだろう。
第二王子殿下と言えば、立ち居振る舞いも教養もそのご容姿も、王子の鑑として世の女性がほう、と頬を赤らめるお方なのに、今の殿下はただの尻尾を下げた犬だ。
姉様に一目惚れしたはいいが、殿下にはハリエット・マグワイア様という「事実上の」婚約者がいらっしゃる。もろもろの事情から、殿下が懸想した姉様の存在を嗅ぎつけられでもしたら我が家のような弱小男爵家など簡単に侯爵家に潰され、最悪姉様本人も命を狙われる危険がある。
そんなもろもろ面倒な理由で殿下も姉様に直接アプローチすることができないでいるのだ。
それでもしぶとく姉様を諦められない殿下は、僕を介して姉様との文通をしたい、とワガママを仰った。そんなわけで、僕は当初のグレン様の予言通り、殿下の伝書鳩にさせられ――ごほん、させていただいている。
なぜ殿下とハリエット様の婚約が「事実上」なのか、そして姉様が命まで狙われる可能性があるのかの理由は、実はこの国の歴史に係わる問題だ。
時代は今から二百年以上前のこと。
この大陸にはたくさんの小国が群雄割拠していた。
我が国・エッセルベルク王国も、歴史が長く、宗教的色彩が強いことを除けばそんな小国の一つにすぎなかった。
しかし、それが二百年ほど前を過ぎたあたり、ちょうど現二十代国王陛下の曽祖父にあたられる17代国王陛下の時代に、大陸の国家統一のための大きな戦が起こった。
その戦いは長きにわたり、我が国もかなりの損害を被ったが、結果として大陸は大きく三つの国に分かれることになった。
エッセルベルク王国はその一つで、かつ一番大きな国にあたる。
戦いの最中に十八代国王陛下が戦争で死に、即位したばかりの十九代国王陛下は荒廃した国土や経済社会の立て直し、残り二国との和平協定といった戦後の処理に追われることになった。
さて、その戦いで多大な戦功をあげたのが、まだそれほど位は高くなかったが戦いにかけては抜きんでていた、当時のマグワイア家だ。
マグワイア家はこの功績に対する報償として、二つのことを十九代国王陛下に要求した。
一つが爵位の格上げ。そしてもう一つが王家に一家の血を取り入れさせる、すなわちマグワイア家の令嬢を妃にしろ、というものだった。
しかし、この国は宗教上、一夫多妻制は認められていない。
十九代国王陛下には既にお妃がおり、まだ二十歳歳ほどだった現国王陛下、当時の王太子殿下も結婚されたばかりで、かつ他に王子もいなかったので、その条件はのめる状態になく、十九代国王陛下は「侯爵位への格上げ」だけで満足してくれないかとマグワイア家に頭を下げすらした。
それでもマグワイア家は強情にも折れず、「どうしてものめないのなら、国内はまた戦火の海になるだろう」と脅した。戦争で疲弊した国力では、マグワイア家の内乱に対応できるはずもなかった。
そこで仕方なく十九代国王陛下は、二十代国王陛下に息子が生まれたときに、その王子を結婚させると約束した。第一王子、すなわち王太子殿下は人質としてこちらに来る他国の姫を妃にとることが和平協定により決まっていたことから、必然的に第二王子――のちのフレデリック殿下がその相手となったのだ。
ただし、さすがに殿下の祖父であられる十九代国王陛下も将来の孫が戦争の犠牲にされることを哀れに思われたのか、はたまたマグワイア家の思い上がりをお怒りになられたのか、この約束には条件をつけられた。
それは、王子の生まれた日(我が国では歳をとるのは一律年始めとなっている。)までに、「マグワイア家が現在の爵位を失っている」か、もしくは「王子が真に愛し合う相手を見つけ、相手もそれと全く同じくらい強く王子のことを想っていることを表明し、かつその愛を貴族のみなが認めたとき」にはこの約束はなかったことにする、というものだった。
この史実は貴族ならだれでも常識として知っている。
だから正式な婚約発表がされていないにもかかわらず、「事実上」婚約があるものとされていて、条件成就のことを「婚約解消」と呼んでいる者もいるくらいだ。
ふぅ、疲れた。
それにしても、グレン様が朝食を取らずに殿下の元に訪問するのは珍しい。
いつもは朝食を部屋(もちろん僕に食事を運ばせるし、ちょっとでもスープが冷めていたり、スプーンが足りなかったりすると「最初から」やり直しさせられる。姑かと心の中で幾度も罵った)、もしくは本当に稀に気が向けば食堂(とはいっても下位貴族男子寮のように平民の食堂の様相ではなく、豪奢でだだっ広く高級感溢れる場所である)で取ってから、殿下の元に向かわれるのに、今日は殿下の朝食にご一緒するらしい。
こういうパターンは初めてなので、僕はとりあえず、殿下のこの道何十年の執事の方々が朝食準備をしていらっしゃるのを見つつ、窓際で直立不動で待機することにした。
ようやく少しだけ世界感を出せました。ストックがなくなったら鈍足カメの不定期更新に入ります。