37 小姓は約束を守ります。
「つっ」
小さな声が静まり返った会場に漏れる。
これまで一度も発せられなかった姉様の声が発せられた、わけではない。
扇の固い部分で強か打たれて、頬を腫らしているのは僕だからだ。
「なっ……!?私はこの女を打とうとしたのに……!?わ、私が悪いんじゃないわ!あなたが好きでここに飛びこんできたのがいけないのよ!!」
おそらく僕が使用人服ではなくタキシードを着ていたせいだろう、打ってはいけないかもしれない相手を叩いたことを慌てたように弁明するハリエット様。
「すみません、僕、そういう性癖ないんです。実は一度考えたこともあるんですよ。僕の主は他人を苛めるのが大好きなくせに、いたぶってほしいと言っている相手にはやる気を削がれるどうしようもないタイプなので、もしかして僕が積極的に求めれば何もされなくなるんじゃないかと……!ですが痛みと苦しみというのは人間が本来的に持っている生命に対する危機察知反応です。僕はどうしても人間としての本質に逆らえず、その方面はついぞ開発されなかったのです。というわけで、僕は好きで打たれたのではありません。でもご安心を、それほどの痛みではないので」
防御魔法を編む間がなかったせいで直に打撃を受け、頬をひりひりさせているのはなにも、ドM性癖があったわけでも、自虐的行為に目覚めたからでもない。
「な、何を言っているのか全く理解できないわ……。頭がおかしいんじゃないのこの者は……!」
「簡単に言うと、あなた程度、僕の主に比べれば大したことないということです」
「なんですって……!?」
もっと言葉を補足すれば、「あなたの(力で扇でぶったたかれた)程度、僕の主(のお仕置き)に比べれば大したことないということです。(同じ程度にするためには、鉄扇を用意してそこに重りをつけて殴っていただかないと)」なのだけど、どうせ言っても分かってもらえないので割愛した。
しかしこれでも僕の心からの本音はどうやら理解してもらえなかったらしい。
それどころか、姉様を初めとしたどの方もぽかんとしているのを見て、僕はようやく気がついた。
そりゃそうだった……頬を打たれそうになった人の代わりになる場面を見たら、誰もが庇ったと考える。「ぶたれるのが趣味なのでぶたれに行きました!」と言う人は普通はいない。これは完全にドSのご主人様に毒された思考だった。
「な、なんなの……この頭のおかしい無礼な少年は……!」
確かに言われても仕方のない発言はしたけど、頭がおかしいのは僕の主だけであって、僕ではありません。
頭がおかしいと名指しされるのは不本意なので、ここで自己紹介をすることにした。
「申し遅れましたことをお詫びいたします。僕の名前はエルドレッド・アッシュリートンと申しまして、今はアルコット侯爵様のご嫡男、グレン様の小姓を不肖ながら勤めさせていただいております」
僕が謝罪の意を籠めた45度の角度でお辞儀をしてから、首元のボタンを外し、大変不本意ながら赤い首輪が見えるようにすると、ハリエット様だけでなく辺りも
「なっ!?グレン様の小姓だと……!?」
「あのグレン様の……!?」
「あの小さい貧相な子供が?」
「だが確かにアルコット侯爵家の紋章が……!」
とざわめき始めた。
「ついでながら申し上げますと、事故とはいえ小姓である僕の頬を打ったことはそれすなわち、主人であるグレン様の頬を打ったことと同じになることは、ここにいらっしゃる聡明な上位貴族の皆さまは当然のようにご存知のことと存じ上げます」
ざわめきが大きくなったところで、僕はにっこりと笑う。
赤くなった頬が見えるよう、しゃんと背筋を伸ばして、丁寧にお願いする。
「このことを知った後に主がどうされるか、小姓の僕程度では全く想像もつきませんが、ひとまずこの場を収めるために、お時間を20ミニほど僕にいただけませんか?その間、何も文句を言わず黙っていただくとお約束していただきたいのです」
「20ミニ……?」
「えぇ、どうか、ご寛大な処置を」
僕が微笑んで丁寧にお辞儀をすると、毒気を抜かれたのか、ハリエット様は案外素直に頷いた。
「し、仕方ないわね。20ミニだけよ。そんな短時間をどうするのか知りたくもないけれど」
「ありがたき幸せ。ハリエット様のご温情、心より感謝申し上げます」
そう言って再び頭を下げ、姉様をそっと手で後ろに押すと、姉様は心配げに僕の頬をちらりと一度見た後、決意を固めたように表情を引き締めその場を出る。
姉様を押しとどめようとしたハリエット様には、僕がなしうる最高の笑顔でもって再度最敬礼して目だけでその場にとどめさせてもらった。
ちなみに途中からの手法は全てご主人様を模倣、ないしご主人様ならどうするかという思考で行わせてもらった。
慇懃無礼って目下の者の最高の攻撃手段だな、と僕が妙に感心していると、殿下が通りかかり、「今回のこと、後でグレン共々罰してやろうと思ったが、メグを庇ったことと私の怒りを抑える程度には痛快なやり方だったことに免じて許す」と僕にしか聞こえない声で通りすがりざまに言われた。
あぁ、危なかった。
それにしても僕も大概性格が悪くなった。きっとご主人様に似てしまったんだ。
だけどこの時ばかりはご主人様があの性格の歪んだドS鬼畜野郎で良かったと思ってしまう。
姉様を侮辱されたことに誰より怒っているのはこの僕なのだから。
この後始まる姉様の独壇場を思い、僕は見えないようにくすっと笑いを零した。
20ミニ後。
水に石を投げ入れたかのように始まった僕の起こしたざわつきは、始まった時と同じくらい唐突に静まった。
会場の全員が入口に注目し、そして見た者から魂を吸い取られるようにそちらに目を奪われる。
衆目の先にいるのは、一人の女性。
その女性は小さく壇上の王家の皆様に礼をすると、中央、ハリエット様と殿下のいらっしゃるところまで歩いていく。
長い水色のドレスには下品にならない程度のスリットも入っており、歩みに合わせてその足の曲線美がちらりちらりと見えるか見えないかを繰り返す。
蜂蜜ブロンドの長いウェーブがかった髪もその歩調に合わせて揺れ、周りの人をからかう妖精のよう。
小さなお顔には、意思の強さを映し出す青い瞳があり、誰もがその光に心奪われる。
白い頬はほんのり赤くなり、普段は薄桃色の唇はきりりと引き結ばれ、決意の固さをうかがわせる。
ドレスのところどころにあしらわれたシフォン部分には薄い金属がちりばめられているのか、会場の光を反射してきらきらと七色に光り、愛する王子様に会うことため、ひれを捨てて命を懸けて海から上がってきた物語のお姫様を想起させる。
そこにいるのは、まぎれもなく僕の姉様なのに、どこか別世界の人のように感じられた。
周りと同じく、僕が呆然と姉様に見惚れている間に、舞台は進んでいく。
普段は淑やかで物静かな面が目立ち、内に秘めた意思の強さが隠れる姉様の真の強さを前面に押し出す化粧も、歩調に合わせて揺れるイヤリングなどの装飾具も、派手すぎず、しかし姉様を主役足らしめる程度に、中央に立った姉様を惹き立てる。
ナタリアはあの短期間でどれだけの技術を身に付けたんだろうと僕が真剣に考えていると、聞き慣れない音が僕の耳に入った。
「みなさま、お初にお目にかかります。私はアッシュリートン男爵家の娘で、マーガレット・アッシュリートンと申します。お騒がせして申し訳ございません。私は生まれつき声が出ず、今も特別な魔法薬で考えていることを音声に変えている状態です。それほど長くもちませんのでどうぞ、そのままご清聴いただきますようお願い申し上げます」
きっと出ていたらこんな声なのだろうと僕が想像していたよりもはるかに透き通った美しい音が耳朶をくすぐる。
その声は落ち着いているのに、決して有無を言わせない強さを持っていて、そのせいなのか、あのハリエット様からも「男爵家ごときが!」などという罵倒はされなかった。
姉様はいつの間に座っていらしたのか、国王陛下の方を向いて一度臣下の礼を取ってから、ハリエット様と目を合わせた。
戦いの火ぶたが落とされた瞬間だった。




