34 小姓は姉を見誤っていました。
馬を駆け続けて王都に着いたのは夜会の当日の朝だった。
王都に入るのは生まれて初めてだったのだけど、さすがに警備もしっかりしており、街道から城下に入る門のところで身分確認をされた。
街に中に入っても見渡す限り、人、人、人、物、物、物。朝っぱらなのにこんなににぎやかなんて、と落ち着かない気分になる。
平民から貴族から、様々な店から貴族の屋敷から城から何まで、目に入るものは全て真新しいものばかりだが、それでもそんなものをじっくり見るわけにもいかず、手紙に入っていた地図に従って姉様がいる、ナタリアの実家であるハットレル男爵家の王都別邸まで馬に頑張ってもらう。
ごめん、疲れたね。長いこと走ってくれてありがとう。
本当は自分でケアしてあげたいのだけど、そうする時間はまるでないのでハットレル家の馬丁さんにケアをお願いする。馬も僕の状況が分かっているかのように、鼻先を押し付けて気にするな、というようにぶるる、と鳴いた。
「ナタリア!姉様!」
「エル!」
客間に通された僕に二人が駆け寄ってきた。清めの魔法をかけておいたおかげで汗臭くも汚くもないが気分的に埃っぽい僕とは対照的に、二人は王都にいるにふさわしい綺麗なドレスを着ていた。
「ナタリア、姉様のことありがとう」
「お礼を言われることじゃないわ。労われるべきは文通をしてくれた鳥よ」
「その通りだね、鳥さん、ありがとう」
窓際に止まっていた青い鳥を労うように羽を撫で、それから姉様と目を合わせると、姉様はその可愛らしいお口を動かした。
『エル、早速だけど、私の話を聞いてくれる?』
「もちろんだよ、姉様。話して?」
『私は殿下にお会いしてからずっと考えてきたわ。私がこの話に頷いてしまったら、何が起こるのだろうと。伯爵家のお母様を男爵家のお父様が妻とした時ですら苦労したのですもの、侯爵家の方から王家の殿下を奪ったりなどしたらその怨みは計り知れないでしょう。殿下を誘惑して侯爵家のご令嬢様から奪い取った悪女として私が後ろ指を指されるだけならまだいいけれど、そうなればお父様やユージーン、そしてあなたにたくさんの迷惑がかかってしまう。領民のみなさますら苦しめてしまうかもしれない。慎ましく穏やかな今までの通りの生活など何一つできなくなって、きっといいことなど何もない。だから、お断りしようと。そうも本気で思ったのよ』
「姉様……」
『でもね、ダメだったの。ほぼ毎日お手紙をやり取りして、殿下のお人柄や考え方を知れば知るほど、その想いは増していったわ。たった一度お会いしただけの殿下のお顔を思い出してはため息をついて、気付けばあなたのいる学園の方を見て便りを持ってきてくれる鳥さんが来ないか、遠くの空を眺めてしまったの。この前殿下にお会いしたときに、あぁ、この気持ちを抑えられないと思ってしまったの。この歳になってようやく、周りの反対を押し切ってお父様との生活を選んだお母様の気持ちが痛いほど分かってしまったわ』
姉様の長くカールした睫が伏せられ、蜂蜜色のウェーブがかったブロンドがふわりと首の動きに合わせて流れた。
『みんなの迷惑と、自分のわがままな気持ちと。そんなものを比べたら、今までの私なら当然前者を優先すべきだと考えたわ。何度も何度も、そう思ったわ。それでも迷いは切れなかった。困った末に、城に来てくれる領民のみんなに尋ねてみたの。「恋は幸せ?」って。貴族にとって恋など辛いものよ。普通は恋をしても、当主の命令した相手と否応なしに結婚させられる。決して叶うものではない…って。でも、領民のみんなは当たり前のように笑顔で答えたわ、「幸せだ」と。「愛する家族は一番の生きがいだ」と。それは本当かしら?と疑う余地はなかったわ。なぜなら周りの反対を押し切って愛を選んだお母様は最期まで幸せそうに笑っていらしたから。お父様と、私と、ユージーンとそれからエレイン、あなたに囲まれて、短くても充実した幸せな毎日だったと、そう仰って亡くなったの。……そう考えているうちに悔しくなったわ』
そこで姉様が瞼を持ち上げ、コバルトブルーの瞳が覗いた。
そこにはいつもの母なる海の青のおおらかさはなく、温度の高い炎のような、強い怒りが揺らめいていた。
『どうして誰も、お母様のように、確固たる意思を貫かないのかしら。いえ、貫けないのかしら?なぜ貴族の令嬢として生まれたからという、ただそれだけの理由で気持ちを殺さなきゃいけないのかしら?どうして貴族だからと言って、好きな人に好きと伝えてはいけないのかしら?なぜ貴族の女性は男性に物のように扱われて何も物申さないのかしら?なぜこの国は、このような古めかしい風習に囚われて人の気持ちを大事にしない国であり続けているのかしら?……お手紙の中でこの国の宗教や体制について尋ねて、殿下からそれを変えたいと思っているとお聞きしたとき、私は決めたの』
忘れていた。
姉様は、美しく麗しい見目と同じく、我が家でおそらく一番強い、確固たる芯を持っていた母様の血を色濃く継いだ方なのだ。
『私は周りになんと言われようと、この国がおかしいと唱えてみせようと。私が先陣を切ってこのことを訴えようと。そうすれば私の殿下への気持ちを殺す必要もなければ、このおかしな国を少しでもいい方向に変え、忌まわしき風習を断つ一つの導にもなれる。女性たちの光になれる。これ以上に私が採るべき道はないと思ったわ』
弱く守られているばかりのお方などでは決してないのだと、僕の脳には今一度刻み付けられた。
『エルには迷惑をかけてしまうけれど、私は殿下に気持ちをお伝えしたい。そしてできれば共に生きていきたい。こんな私のわがままを、あなたは許してくれるかしら?』
姉様が言い切ったところで、僕は姉様に歩み寄った。
唯一姉様と同じコバルトブルーの瞳で、姉様の瞳をじっと見つめて答える。
「姉様、僕は言ったよね?僕は姉様がどんな選択をしようと、必ず味方になるって。父様だって、ユージーンだって、一度だって姉様の本気の訴えを否定したことなんてないでしょう?常識?そんなもの、アッシュリートン家には必要ないんだよ。姉様の望みは、僕が絶対に叶えてみせるから。今更許しなんて聞く意味ないよ」
アッシュリートン家は揃いも揃って非常識。
身分の釣り合う相手を選ぶことが徹底されているこの国で、伯爵家のご令嬢をかっさらって妻にした上、子供たちに好き放題やらせている父様も。
本来学園に通って決められた課程をこなさなきゃいけないのに、そんなもの無駄と切り捨てて国内の各地や外国を回って経済と政治を勉強している兄様も。
そして、宮廷従事職には男性しか就けないと分かっているのに、国を騙すために男装して学園に潜り込んで、男として生き、挙句の果てに鬼畜貴族様の小姓になって命かけてまで自分の夢を押し貫こうとする妹も。
まともな人なんて一人もいないんだから。
姉様だけ枠に収まる必要なんて、どこにもない。
そういう意思を籠めてじっと姉様の目を見つめれば、わざわざ言葉にしなくてもそれが伝わる姉様は相好を崩してありがとう、と唇を動かしてから僕を抱き締めた。
そんな僕と姉様を見ていたナタリアは、ぷぅっと唇を尖らせる。
「あぁ、いいなぁいいなぁ!!私も早くアッシュリートン家に入りたいわ!」
「ナタリアもユージーンなんかを好きになった時点で立派な変人だけど、こんな家族の仲間入りがしたいなんて知られたら変わってるって言われて苦労するよ?」
「あら、私、男爵令嬢だけど計算や家事仕事は器用にこなせる変わった娘として元々有名なのよ?これ以上悪く見られることなんてできないわ。それに、こんなに結束力の強い素敵な家族に入れない方が損してるもの。私も仲間に混ぜてくださいな、メグ姉様!」
ナタリアが跳びこんできて、僕は、姉様と将来の義姉と三人で抱きしめあうことになった。