30 小姓は感情のままに動きます。
イアン様と騎士様たちは、当初の予定通り人手を使ってマグワイアの弟君探しを再開させたのだが、依然として状況は変わらないまま時間だけが過ぎていく。
騎士様方も大人だから、表立って僕に何か言うことも、嫌がらせなどの低レベルなことをすることもなかった。
でも事態が膠着していたところに救世主扱いでやってきた僕の無能っぷりに落胆は隠せなかったのだろう、「子供が遊び半分でこんなことに足を突っ込むんじゃない」という露骨な視線や、「所詮、そんなものか。」というがっかりとした視線には常に晒された。
なにより僕を打ちのめしたのは、「動物たちに完全に拒絶された」という純然たる事実だった。生まれて物心つくころから、僕は動物にあれほど邪険にされたことがなかったから、この事実は僕の心を抉った。
精神状態の最悪な僕を見て心配してくださったイアン様は「先に王都に行っていていいぞ。お前は十分役割は果たした」と何度か言ってくださった。
でもこんな状態で王都に向かっても、何もできない気がして、せめてこの場に留まらせてほしいとお願いした。だから今僕はまだマグワイア領にいる。
でも、動物と仲がいいということ以外学生としても平均値以下の僕がその取り柄を生かせなかったのだから、今の僕は単なる足手まといでしかない。
あんなに姉様のために何でもするって大見得切って、このざまだ。
このままじゃ幸せどころか、悲しい顔をさせてしまうかもしれない。無力な僕じゃ役に立てない。
グレン様が今の僕を見たらおそらく「そんな白けた面の小姓なんていらない」って言うだろう。あんなに小姓なんて嫌だって思っていたのに、いざそう言われるだろうと思うと、それは悔しい。
情けない。
恥ずかしい。
僕は、何もできないのか。
失意のどん底のままに探索を続けていた滞在三日目の昼のことだった。
明日の朝一で発つことになっているその時ですら、僕はまだ悩み、悔しさとやるせなさに囚われていた。
「チコ、僕は何が足りていないんだろう。何がいけなかったんだろう?動物たちはどうして拒絶したんだろう?」
「きゅ……」
彼らは一度は出てきてくれた。初対面の僕の前に姿を現してくれたということは、彼らは僕の言葉を聞いてくれようとはしたのだ。
でも「何かが気に食わなかったから」彼らは行ってしまった。
一体、何が。
「エル!!後ろを見ろ!」
考えながら歩いていたところでいきなりイアン様の声が響く。
はっとして僕が後ろを見ると、川から這い出た巨大なワニが大きな赤い口を僕に向けてぱっくりと開いているのが目に入る。
これだけ巨大な、人を簡単に殺すことのできる生き物を前に、本能的な恐怖が先立ち、僕の足は全く動かない。
とはいえ、魔法を使って応戦することもできなかった。
だって僕にとって動物たちは友達だから。
友達に刃を向けるという発想自体、僕にはなかった。
立ち尽くす僕を見たイアン様は馬から飛び降りると、僕をワニから助けようと剣を閃かせる。
「伏せていろ!!!!」
でも待った。ワニって本気で噛みかかるときは一瞬で口を閉じるんだ。あの強力な顎力と鋭い牙で相手の骨を噛み砕いて離さず、そのままものすごい力で水の中に引っ張り込んで溺死させて獲物を食べる。本当に僕を食べようとしているなら、僕なんかがのんびり見ている暇なんかなく一瞬で噛みつく。
でもこの子は口を開けたままで――
「待ってください!!!違います!この子は僕を食べようとしてるんじゃありません!」
僕が頭を引っ込めさせなかったので、剣豪イアン様がワニくんを一刀両断するため振り下ろした刃を僕の頭上でぴたり、と止めた。
「っ!エルッ!」
「お見事です、イアン様。髪の毛一本やられていません」
「貴様は阿呆か!なぜそんな危険なことをした!!一歩間違えれば俺に斬られて死んでいたんだぞ!」
「すみません!誤解なんです、この子は僕を食べようとしていません。きっと、何かお願いしたいことがあって来たんです。ほら、今だって僕に噛みついていないでしょう?」
僕はまだ口を開けたままのワニに近づく。
落ち着いて見ればワニの目が食欲でギラギラしておらず、僕を食べようとは思っていないのが分かる。
「ちょっと診せてね。すみませんイアン様、そのあたりの太めの木をこのワニくんの口の大きさ程度の長さで切ってもらえませんか?」
「あ、あぁ……構わんが」
怒鳴ったのに一向に堪えない僕を見て度肝を抜かれたのか、イアン様はすぐにお願いを聞いてくれた。
スパンッといい音をさせて切ってもらった太い生木をワニの口に縦に挟み、口をいっぱいに広げさせた状態のつっかえ棒にしてゆっくりと歯を診ていく。
口を開けておくことの負担が少ないのか、落ち着いた様子で僕の診察を受けるワニくん。
それはきっとつっかえ木のおかげだ。一瞬で長さを見切って適度な大きさにしてくれているし、断面が滑らかなおかげで口腔を傷つけていない。さすが次期筆頭騎士様。
「人で想像するとなかなか痛そうなのだが、なぜその棒を突っ込む必要がある?」
人で想像して心配するところが思いやりのあるイアン様らしい。
グレン様ならきっと「自分で新しいお仕置きを見つけて来るとか偉いじゃないか。ご褒美に早速試してあげよう。針と焼けた鉄とどっちがいい?あぁ、選べない?じゃあ片っ端からやってみようか。」とか笑顔で言ってくる。人徳の差というやつだ。
「ワニは獲物を捕獲するときに一気に顎を落として骨と肉を噛み砕いて捕まえるんですが、それは口のある部分に顎を落とす起動になる触覚器官があって、それに獲物が触れたことをきっかけにするんです。例えこの子が僕を齧りたいと思ってなくても、僕が不用意にそこに触ってしまったら、腕と頭ごとばっくりと持って行かれます」
「なるほど。さすがに獣医師志望だな」
本当は生木程度では噛み砕かれてしまうので鉄の棒を入れた方がいいのだけど、今はないから仕方ない。なるべく歯に触れないようにし、頭を口の中に入れないようにしながら視覚で歯の一本一本を確認していく。
そして見つけた。
「ここか……」
尖った歯が1本、内向きに中途半端に折れたのか、中の舌と肉を傷つけて大きく出血しているところが一箇所。
それから、食べ物の肉が挟まって歯が黒ずみ、歯肉が化膿しているところが三箇所。
「痛かったね。もう、痛くなくなるから。チコ、ティルーの葉っぱとサモネットの葉っぱを3、4枚。それから枯れ気味の葦を数本取ってきてくれる?」
「きゅっ!」
僕の指示でチコが肩から飛び降り、森の方へ走っていく。
ティルーの葉は麻酔、サモネットの葉は血止めに効く。本当は他の葉や実、種と混ぜて薬を作った方が効能が高いし動物側も受け入れやすいのだけど、今は時間がないから仕方ない。
チコが薬草を取りに行ってくれている間に、まずは虫歯と歯槽膿漏の処置だ。
該当三箇所に手を近づけて心をただ治療だけに研ぎ澄ます。
魔力の光が広がり患部を柔らかく包むと、そこに巣くった病巣と痛みを取り除いていく。集中を切らせれば中途半端に病巣が残ってしまうので、これは集中力勝負。終わると汗をびっしょりかいてしまうくらい精神的には繊細な作業だ。
病巣を取り除いたら腰に着けていたポーチから、トリモチと数種の薬剤を混ぜて作った固定剤を出す。生体にも対しても使えるし、温度を0度以下にするとかなりの強度を持った固体になって液体に戻らないという特徴があるこれは、処置の時にも散策の時にも役立つので入れていた。
小さいガラス瓶の蓋をきゅぽん、と開けて、ドロドロした液体を治療によって歯の欠けた部分にそれぞれ流しいれ、そこに氷魔法をかける。
固定剤がしっかり固まったのを確認すれば、虫歯の処置はようやくお終い。
でも今回はこれで終わりじゃない。
今度は折れた歯の方で、こっちはもっと厄介だ。
「ちょっと痛いかもしれないけれど、我慢してね」
ちょうど虫歯の処置を終えたところで帰ってきたチコからティルーの葉を受け取り、自分でそれを噛み、唾液と混ぜて柔らかくする。葉から麻酔成分が漏れ出して僕の口も少々痺れるけれど、毒はないことは分かっているからここは我慢。それを噛みながら、折れた歯を抜くときにワニくんの柔らかい舌を傷つけないよう、葦の葉で逆サイドに固定する。
ある程度噛んで柔らかくなったところでティルーの葉を口から出し、ワニくんの折れた歯の箇所に当てる。
薬効が十分効くのを待つ間にワニくんの口の木に更に強化魔法をかける。
ここから痛みが激しくなるから、つい力が入って木が折られてしまいかねない。こういう時は本来は何人かの獣医師が一緒になって処置し、誰かが口を固定させておくはずなんだけど、僕しかいないんだから代わりになりそうなことをその場でやるまでだ。
「ワニくん、麻酔かけてるけど、一気に歯を抜くからちょっと痛みがあるかも。我慢できるかな?」
ワニくんは穏やかな目で僕を見ているから、それを信頼する。
どうか、ばくっとやられませんように。
素早さと角度が勝負なので、折れた角度をよく見ながら、滑り止めのために折れた歯に温風を起こして乾かすとそのまま指で歯を掴む。そして、それを力いっぱい引き抜く。
「ぐるるるるるっ!!」
ワニくんは喉の奥で痛みをこらえるような声を出したけれど、思い切り口を閉めることは堪えてくれたらしい。
一気に噴出す血を止めるため、歯の下の血管に回復魔法をかけて止血し、それでも漏れ出す血をサモネットの葉でかぶせる。サモネットの葉には鎮痛作用もあるから落ち着くはずだ。
「…あとはティルーの葉をどけて、サモネットの葉を葦で固定して…と。これで処置は終わり。ワニくん、痛かっただろうけどよく頑張ったね。いい子」
僕がワニ君の鼻を撫で、それから風の刃で木の棒を真ん中で切ってからゆっくりと外してやると、ワニ君はぱっくり開けた口をそろそろと閉めた。
それから、満足げにぐるるるると小さく鳴いて、僕の腕に軽く鱗の鼻先を擦りつけてから、のそのそと水辺に戻っていった。
「なんとなかってよかったですー麻酔の効果があまり僕の方に効かなかったおかげで話かけられましたよー……って、あれ?」
ワニくんの出血で汚れた手を水で流し、額の汗をシャツで拭っていると、イアン様とそれから騎士様方が、どこかぽかんとして僕の顔を見てから、ぱんぱん…と手を叩き始め、そのままなぜか大きな拍手をされた。そして駆け寄ってきた騎士様たちにいきなり肩を組まれたり、頭をぐしゃぐしゃっとされた。
「うぇぇ?!なんですかっ?!」
「見惚れたぞ、小僧!」
「いや、いい手際だった。学生だと侮って悪かった」
「お前もプロを目指す学生だったんだな」
「悪い、お前はあの時も真剣だったのに、つい当たってしまったな……」
「大人げないのは俺たちだったな、坊主!すまんかった!」
騎士の方々に一斉に謝られて戸惑っている僕を、イアン様がぐしゃぐしゃになった髪を整えるようにして撫でてくれた。
「こいつらはお前のことを見直したんだ。うじうじ悩んでばかりの子供じゃなくて、真剣に獣医師を目指すプロの卵なんだなと思ってな」
「うじうじした子供ってとこは否定できません。それに、見直していただいたからと言って僕が何も出来なかったことに変わりはありませんし……」
「いや、まだ子供だから当たり前と言えば当たり前かもしれないが、この任務中も、ただ動物たちと遊びにきた甘ったれのようにしか見えなかったのだ。だが、今の姿はプロの獣医師だった。知識があってもその場で動くのは難しい。それができるのをプロというんだ。お前を見直したことで一体感も高まるだろう?気力というのはこの仕事では大事だからな。よくやった。エル」
「ふ、普段からやっているだけですから。まだそうなりたいっていうただの夢でしかありません」
照れる僕をイアン様は美しい笑顔で労ってくれる。
「それでもお手柄には変わりない。そういえば、お前はなぜそこまでして宮廷獣医師になりたいんだ?」
「なんでってそりゃ――」
言いかけて、僕は大事なことを思い出した。
「…イアン様、馬を一頭お借りしていいですか?」
「なんだいきなり。構わんが、どこに行く気だ?」
「確認するだけなので、直ぐに戻ります!」
「おい、エル!」
イアン様や騎士様方の手を潜り抜け、僕は馬を乗って駆けだした。
ワニくんがエルが「治せる」人だと知ったのは、チコの努力のおかげです。チコはエルの知らない所で動物たちに必死でエルの良さを伝えようと奔走しておりました。主想いのいい子です。