21 小姓は警戒を怠りませんでした。
それから結局、僕は寝なかった。
興奮して寝られなかったわけじゃない。どちらかというと、処置を終えてほっとしたときの気分に似ていた。
でもこんなグレン様を見た後の僕の処置がこれで終わりだと思わないでほしい。
グレン様の表情が穏やかなものに変わってすうすう寝息を立て始めたのを確認してから、僕は計画を実行に移した。
このままでは風邪を引いてしまいかねないくらいぐっしょり濡れたシャツを脱がし、体温程度に温めた温水タオルで体を拭く。
もちろん顔と上半身だけですとも!いくら風呂で見慣れていようともズボンは脱がせません!これでも女だ!一応な!ギリギリな!
……細いけどやっぱりちゃんと筋肉ついてるなぁ、引き締まってるなぁと思ってしまったけれど、極刑はなしでお願いします。
それから新しいシャツを着せて、首元第2ボタン以外はボタンを留めて、再びベッドに寝かせる。掛布団をかけて、室温が快適になるように小さく温風を起こしつつ、部屋に水の張ったボウルを持ってきて湿度を調整。
後は数時間置きにレモン水を替えながら、また魘されていないか確認しつつ、空いた時間で貴族図鑑を見て名前や役職、人間関係を頭にたたき入れた。
動物の処置で重いものになると、一晩つきっきり、というのもなくはなかったから、徹夜自体はそれほど苦にならなかった。
なにより、寝ているグレン様が時折楽しそうに無邪気な笑みを浮かべているのを見ると、ほっとしてこちらも穏やかな気持ちになる。
笑っていると本当に可愛いのに、どうしていつも人を小バカにしたような顔しかしないんだろう、もったいないよなぁ。
そうして朝になり、四刻になったので、そろそろ出かける準備をする。
もし姉様が昨日のグレン様の知らせを聞いてすぐに馬車を呼んで夜通しこっちに向かっていたらきっと今日の昼過ぎには学生街に着くだろうし、姉様ならそれくらいやっていそうだ。
ここから学生町までは馬で二刻分ほど。そろそろ出かける準備をしないと、姉様を待たせる羽目になってしまう。
最後に覗いてから行こうかな、と寝室に顔を出したところ、グレン様が上半身を起こしてぼんやりと外を眺めているのが見えた。
え、まさかもう起きたの!?
「グレン様?お目覚めになりましたか?」
僕の声にグレン様はこちらを向いて、訝し気な顔をした。
「……なんでお前がここにいるの?」
「酷いですね。一晩看病した可愛い小姓にねぎらいの言葉一つないんですか?」
「一晩?今日はあれから何日経った?」
そりゃ信じられないだろうなぁと思って答えながら、グレン様の枕元に行ってお水をコップに注いで渡すと、グレン様は素直にそれを受け取ってこくこくと全部飲み干した。
あ、両手で持っているとか、すごく可愛い。似合う。
お替りを入れようとコップに手を伸ばしたところで、グレン様がふ、と視線を僕の口元に固定した。
「……エル、その唇、どうかした?」
げぇえええっ!?僕、そういえば自分に回復魔法かけるの忘れてたっ!!
グレン様の服を替えて―とかで頭いっぱいになってた!
焦って作ったにしてはなかなかいい言い訳を思いついたはずだったのに、すぐさまダッシュして部屋を出かけた僕に、あの優しい声がかけられた。
「エル。こっちにおいで。ねぎらってあげるから」
この声に逆らうと、僕にはこの後壮絶な未来が待っている。
もちろん、姉様の元へも間に合うまい。
まだバレたとは限らないしっ、ここはうまく切り抜けよう。
「おいで。何度も言わせないでくれる?」
「うぅー……」
地獄の催促にしぶしぶそちらに向かうと、グレン様は少し黙ってから指を僕の唇の傷に滑らせた。
よくよく考えたら殿下がご存知なんだから、小姓契約でのメリットくらい、この方知らないわけないよね!?ってことはさぁ、この傷とか、この驚異的な早さで回復したことから総合判断したら分かるよね?
……そうすると、「てことは」も何もなく、この方はすごく頭がいいから、絶対気付くよね?
甘かった……!誤魔化せるはずなかった……!
「エル、目をつぶれ?」
ばれたばれたばれたばれた!一瞬でばれた…!
「うわあああああああごめんなさいいいい!目は潰さないでくださいっ!亡き母の形見なんですっ!!!」
「早くしてくれない?」
「お慈悲をぉおおおお!」
そう言いながら目を固くつぶってさりげなく目に防御魔法をかける。
どのくらいの強さまでなら耐えられるだろう?あの長い指を思い浮かべて寒気がする。
あぁ……頭の中のグレン様の細く綺麗な長い指が僕には釘に見える……!
と、ふわり、と全く予想外の感触がした。
まず、目じゃない。背中?腰?何かが回ってる?
これ、腕?固い何かに僕の身体が閉じ込められてる?
ん?これ、抱き締められてる…?
まさか、このまま背骨をボキッ!と一気に…!?
急いで背中に防御魔法を編もうとしたところで、一気にそれが吹っ飛んだ。
柔らかくて温かいものが僕の唇に触れたからだ。
うえ?なんだなんだなんだ?
感触的にはぷにっとした芋虫っていうのもあるかもしれないけど、きっとこんなにあったかくないし。いやそもそも芋虫いなかったし。
え?なにが?何が起こっている?
僕のお粗末な脳みそでは状況を分析しきれないでいるまま、耳元で少し掠れた美声が囁かれた。
「ありがとう。お前のおかげで助かった。感謝してる」
え。空耳?幻聴?
いやいやいや!聞き間違いじゃない!2回お礼言ったもん!
絶対感謝の言葉だったよ今の!
グレン様が感謝!?
ありがとうの「あ」の字も知らないんじゃないかって方が!?
よく見たら、いや、これどう見ても絞め殺すつもりなく抱きしめられているし!だって力が優しいもん!
さっきの「ぷに」だってもしかして、あの?
「うえええええええええええ!?」
「………うるさい。耳元で大声出すなら、お前の耳に熱湯をかけるけど」
ようやく少しだけ体を離したグレン様がこれ以上なく面倒そうな顔でそう言ってくる。
「それ拷問にありますからっ!じゃなくてっなんで僕っそのっ!?こんな状況にあるんですか!?」
「さぁ?」
さぁ!?!?さぁってなんだよ、さぁって!
理由もなくあんたは人のこと抱き締めたり。その…き…キスとかするんかいっ!!
恥ずかしいだろこんなん!!やられたこっちが目の前の顔が見られないくらいなのになんであんたは僕のこと楽しそうに目を細めて観察していらっしゃるんですかね!?
大体、僕は女なんだぞ!?この人それ分かってんのかな!?
女の子にとってキスってどういう意味があるかとか知ってんのかな、このご主人様は!!
「したくなったからしただけ。気分だよ気分」
「僕のファーストキスぅうう!」
「お前、寝ている僕にしたでしょ?その時点でファーストキス終わってるよね。数すら数えられなくなったわけ?」
やっぱりばれてたぁああ!ってことは報復!?嫌がらせ?
「それにしてもお前、キスすらしたことなかったんだ?お子ちゃまぁ」
「うるさいですよっ!どこに常に男装で当然のように男だと思ってる相手にキスするやつがいるんですかっ!?」
「世の中にはそういう趣味の人もいるよ。魔力持ちには命懸けだけど。よし、できた」
パチン、という何かが留まる音がして僕は完全に解放された。
違和感を覚えて首の回りに手をやると、なんだか革のようなものが着けられていた。
「……これはなんですか?」
「触って分からない?チョーカーだよ。チョーカー。首輪」
にこにこと、満面の笑顔のご主人様。
「それは分かります。なぜこんなものが、という意味でお訊きしたのです」
「小姓契約の証が手の印だってばれたら面倒だからね。小姓って印は首輪でしておこうかなって。アルコットの紋章入りだし、赤色にしておいたし、これで分かるでしょ」
もしかして、もしかして、もしかして。
この男、これを着けるために、僕の気を逸らすためにわざわざキスしたんじゃ…。
いや、そうとしか考えられない!!絶対そうだ!!
「僕が手づから着けてあげたんだ。大事にしてよね」
「誰がするかこの鬼畜ドS野郎っ!!!」