20 小姓は困った時に友達に頼ります。
それから僕はグレン様のお部屋に戻って、言いつけられたお仕事をこなした。
グレン様が指摘された不正の証拠に当たる部分を膨大な資料の中から探し出してまとめていく。最初は文字と数字ばかりで見つからなかったけれど、慣れてくると単純作業になったので、ひたすら手を動かす。
一刻分ほどかけて終わらせ、それから今度は貴族図鑑の方を開く。
うん、多すぎる。これ一晩とか、あの鬼畜悪魔。昏倒直前まで鬼畜だったか。
今回覚えておくべきは王家、それからマグワイア家周辺だろうと思ってそのあたりから眺める。
僕の部屋にはない、時計という高級品が動く音だけがあたりに響く。
「うがああああ!覚えられるかぁ!こういう時は寝てしまおう!集中が切れたら寝る!それが一番だ!」
部屋の隅で足を抱えて小さくなって目を閉じる。
既に時刻は一刻。病み上がりで動き回ったのだから眠くなってもいいはずなのに僕の瞼は一向に重くならない。
困った時はどうするか、そう、友達に相談しよう!
僕は上位貴族男子寮のグレン様の部屋を出て、寮の前に広がる学園庭園の草むらに座る。
友達はすぐに寄ってきてくれた。夜型で遅い時間が活動時間の子たちだ。フクロウくんに、ミミズクくん。レッサーパンダくんにモモンガくん。そして腕にはヤモリくんがこそこそと乗ってくる。
人間の友達?――夜中一刻なんかに起こしてしまったらヨンサムなら多分半分寝たまま
「あー……んーそうだなー……」としか言わないだろうし、他に仲がいいと言えば同じ獣医師志望のリッツあたりだが「ねぇ……エル。貸しがいくつたまっているか俺はちゃんと覚えてるからね……」とか言われて後から法外な請求が来る。
あれ、僕の周りってろくな人間がいない?
「お前たちだけだよねー優しいのはさぁー」
そう僕がぼやけば、くるっくー、と僕の肩に乗ったフクロウくんが喉を鳴らした。
地べたに座る僕の膝に乗ったモモンガくんの背を撫でながら考える。
取りうる手段は二つだ。
寝ているグレン様に血を飲ませる。
または寝ているグレン様の唇を奪って唾液を流す。
「だめだぁぁぁぁ!!!」
どっちにしたって変態としか思えない!
僕が男でないのは救いなんだろうけど、それでもだよ?恋人でもない僕が、寝ている男性に意思を問わずに勝手にする、なんて。僕は痴女じゃない!例え男子の裸を見慣れてても違うはずだ!!できるわけない。
それもよりにもよってグレン様。あんなに綺麗な男の子、いや男の人にキスするなんて、完全に僕が襲っている図じゃないか!
そしてバレたときの報復が恐ろしすぎる。
人にむやみやたらに触られるのを一番嫌う方に血を擦りつけるだ……?キス、だ……!?
無理無理無理っ!!
きっと体中の血を枯らされるか、口を縫い止められる!
――だけど現実にグレン様は魔力枯渇で昏倒してしまっている。
魔力枯渇のときには起こそうとしても絶対に起きない。昏倒期間は魔力量に比例するから、グレン様ほどの魔力量になれば、ややもすると四分の半月は起きられない。殿下の危惧していた通り、婚約発表のときにぐうすか寝ていることになるのだ。それは大変まずい。
「……なんでこんな時期にそんな賭けに出たんだよーグレン様の馬鹿!!」
毒づけば、レッサーパンダくんが宥めるように猫パンチをしてくれた。
爪は出さないでいてくれるから、肉球のざらぷに、とした感触が押し付けられる。あったかい。
レッサーパンダって本来気性の荒い動物だけど、でも人情もある。人間でいえば、「元気出せよ!」と肩を組んでくるタイプかも。
「ねぇ、君たちは僕がいないときに、ごしゅじ……友達が怪我をしたらどうする?」
問いかければ、トカゲくんは尻尾を僕の腕の上で振った。
「撫でるってこと?まぁそれも痛みを和らげる手段だよね……」
今度はフクロウくんが嘴を僕の腕に擦りつけて上下させる。
「ん?それ何の動き?」
そこでチコがポケットから出てきて僕の腕を舐めた。
「あぁそっか。そうだよね、親は子供が怪我したら舐めて治すよね」
そこに羞恥心もなにもない、か。
動物だから舐めても気にしない。彼らにとってそれは毛艶を整え、虫をどけたり病気にかからないようにする行為でもある。特別の意味は――
「でも君たちだって、好きな相手の体を舐めて毛づくろいとかしてあげて、それが特別な行為でもあるんだよね。――それでも、怪我してるときは関係ない、かぁ……」
結局、助けたい相手がいたら彼らは何も考えずに助けるのだ。
損とか得とか恥とか見栄とか、後からどうなるかなんて考えない。助けたいから行動する、それだけだ。
僕はグレン様を助けたい?答えは簡単。イエスだ。
その時の僕は徹夜で頭が変になっていたとしか思えないが、なんとなくそれで納得した。
「なんだかんだ優しいときも………すご――――くたまにならあるし、ああ見えても僕のご主人様だし、実は小姓契約があんなに主側にリスクがあるって言わなかったのも僕に心配させないためだったかもしれないし……よし。みんなありがとう!僕、やってくるよ!」
動物くんたちは、僕が立ちあがると応援するように羽や尻尾で僕を叩いて見送ってくれた。
動物の毛を部屋で落としてしまうと、にっこり笑顔のご主人様にピカピカになるまでカーペットの掃除をさせられるので(掃除担当の使用人さんがいるのにだ!)、部屋に入る前に清めの魔法をかけるのは僕の習慣になっている。
今回も部屋に入る前に特に考えずに魔法をかけて、羽と毛だらけになった服を清めてから寝室に向かうと、当たり前だがご主人様が寝ていた。
綺麗な寝顔。いつ見ても寝顔だけは天使のように可愛いと思う。
いつもならそこで一緒に苛々が募ってしまうのだけど、今はよくよく見れば肌が若干蒼ざめているし、唇の色も悪いし、表情も硬いのが分かるから、怒りは湧かなかった。
だけどそのせいで余計お顔の出来の良さが客観的に目に入ってしまって、これから自分の犯す罪(もう罪と呼んでいいと思うんだ)を考えれば全身から血が引いていく。
つい寝室から走って出てきて、執務室に戻ると、はぁはぁと息を荒げてしまった。
この状況下で息を荒げるとか。僕、本当にいかがわしいことを考えている人みたいじゃないか!
「えぇい!気合を入れろ、僕!ばれなきゃオッケーなわけだ!どうせグレン様は寝ているんだし!魔力枯渇で昏倒したら僕レベルでも一日半は寝てるわけだから、絶対に起きないんだし!目覚められたときには僕はイアン様とマグワイア領に行っているんだから大丈夫だ!よし!」
僕とグレン様以外誰もいないガランとした部屋の中で言うと、妙に自分の声が響いて恥ずかしい。
「チコ、もう寝てていいよ?眠いでしょ?僕、今日はグレン様に付き合うつもりだから部屋に戻れないけど、僕のベッドで寝ててくれればいいから」
声をかけると、チコはぷいっとして僕の提案を却下すると、僕が先ほどグレン様の執務室で寝るために部屋の隅に用意していた毛布の方に走っていってそこでぐるぐる回って寝床を作ると丸くなった。
どうやらこの部屋で寝ることにチコも付き合ってくれるらしい。
「チコ、ありがとう」
「きゅっ」
チコは小さく返事をすると、目をつぶった。
さぁ、僕もあまり長いことうじうじしてても時間の無駄だ。
ポケットから、おやつの果物の皮を剥いたり、応急処置時のために常に僕が持ち歩いている果物ナイフを取り出して、鏡の前で唇の上で構える。
さすがに自分を傷つけるのは少し怖いけれど、昨日までの痛みに比べれば大したことじゃない。
目を瞑って手を小さく横に滑らせてから恐る恐る目を開けると、唇の上に小さな赤い線が出来、鉄の匂いが広がる。
血が渇く前にそのまま一直線に寝室に向かってグレン様を覗き込む。
ちょうどその時、グレン様は苦し気に顔を歪めていた。脂汗を額に浮かべ、浅い呼吸を繰り返し、寝苦しそうにして、起きたいのに起きられない苦しみから逃れるように羽毛布団を強く握っている。着ているシャツはびっしょりと汗で濡れている。
その姿を見て、僕の最後の迷いは吹っ切れた。
だって目の前にいるグレン様は傷ついた獣のようだったんだ。
誰にも見せない傷を抱えて、その苦痛に一人で耐えているような姿だった。
もしかしたら、寝るときに服を着ないのは、これくらい寝汗をかくからなんじゃ。
もしそうだとしたら、グレン様はいつもこれだけ魘されているということなのかな。
僕にとって夢なんてほのぼのしたものや美味しいものを食べたりする平和なものが多いのに、グレン様にとっては違うのかな。
目の前の苦しんでいる動物を助けたい、という気持ちのまま、僕は傷をつけた唇を強く噛む。
口の中に鉄錆の味が濃く広がったのを確認してからグレン様の白皙の美貌に近づく。
すみません、僕が勝手にあなたの唇を奪ってしまって。治療行為だと思ってお許しください。
どうか、少しでもあなたの傷が癒えますように。
心の中で祈りながら、色のない唇にそっと唇を重ね、僕は腔内に溜まった血液をグレン様に押し流した。