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(よく食べるなぁ)
そう感心しながら、健は対面に座る観憂を見ていた。
ラーメン、目玉焼き、スパゲッティ……。
料理ののった何枚もの食器を同時に持ちながら、観憂はそれらを休み無しに食べている。彼女の両手には箸とご飯の盛られた茶碗がある。他の料理が載った皿は全て、背中から生えた触手に持ち上げられている。
それらの触手たちは一般的な筒状のものではない。先端が平べったく、裏側にぶつぶつの突起物が敷き詰められた、モップのような触手だ。モップ触手は皿の下側に添えられ、観憂の周りでうねっている。
(触手にも種類があるんだ……)
奇怪な食事風景を見ながら、健はのんきにそんな感想を抱いていた。
「美味しいわ、健! ありがと!」
健の作った料理を食べながら、観憂が満面の笑みで言った。
健は手の込んだものを作ったわけでもない。それでもこうして美味しそうに食べてもらえるのは、素直に嬉しいことだった。
「ずいぶん空腹だったんだね」
「里を出て来て、お金もけっこう使っちゃって……」
「里――触人種の人たちがいる場所?」
むぐむぐっと口の中に食べ物を詰め込んだまま、観憂は頷く。いったん飲み込んで、口内を空っぽにしてから教えてくれる。
「そうよ。わたし、その里からこっそり飛び出してきたの。触人種が人間の街におりるときに、退触師の許可がいるっていうのは、昨日教えたわよね。わたしは、その許可を取らなかったの。だから、あの退触師にも睨まれちゃって……先の夜もね、工事現場に追い詰められて、彼女に里に帰れって言われたの。それが嫌だったから、わたし、つい襲っちゃって」
あの退触師、というのは御千髪菊華のことに違いない。そして健が初めて会ったとき、自分の里へ戻るように勧告してきた菊華に、観憂は触手で抵抗していたのだ。
「そうまでして、どうして人間の街にいたいんだ?」
健が尋ねると、観憂は拗ねたように唇を尖らせた。
「結婚させられそうだったから」
「結婚?」
観憂の返答は、健にとっては予想外のものだった。実年齢は知らないが、観憂はその外見から自分と同じぐらいの歳だと思っていたからだ。
「触人種の里では、里の子たち同士で結婚するのが決まりになってるの。里を出て、人間の世界で生活しているのは一部の人たちだけ。ほとんどは里の中で一生を過ごすのが普通なのよ」
「そうなのか……」
「わたし、結婚相手が決められて……そのまま、里に居つづけないといけなかった。でも、わたしはそんなの嫌。人間の――外の世界のことを知らないまま、一生を終えるなんてまっぴら。だから、みんなの目を盗んで、里を出て来たのよ」
そこまで言ってから、思い出したように観憂が言った。
「あっ、結婚って言っても、人間みたいに男と女でするものじゃないわよ? 触人種って、人間で言うところの女性しかいないの」
「女性しかいないって…それじゃあ、子どもはどうやって作るんだ?」
「触手があるもの」
さも当然というふうに、観憂は答えた。
(……いや、この女の子にとっては当然なことなんだよな)
触人種たちの結婚に関して、健はそれ以上は尋ねないようにした。
「それで、外世さんはこれからどうするの?」
「観憂でいいわ」
食事を進めながら、観憂が言った。
もう料理はほとんど残っていなかった。
「外世さん、なんてよそよそしい呼び方はしないで。健はわたしの触者なんだから」
「――その、触者っていうのは? 昨日も言ってたけど」
観憂は全ての料理を平らげて、皿と箸を置いた。役目を終えた触手は、観憂の背中へしゅるしゅると収納されていく。掃除機のコードのようだ、と健は思った。
「触者はね、わたしたち触人種にとっては特別な存在よ。人間の中には、ごく稀に、触人種を絶対的に従えることができる人がいるの」
「言って聞かせることができるっていうこと?」
「そうそう。あれをしろ、これをするな……とか。触者が強く言ったら、相手の触人種は思わず従っちゃうの」
観憂は目を伏せた。
「触者の存在は、里でずっと言い伝えられてたわ。けど、長い間、触者と出会う触人種はいなかった。正直に言うと、わたしも触者なんてのがいるなんて、信じていなかったわ――つい、この間までは」
観憂が上目遣いに、健を見てくる。
「初めて会った夜、わたしが退触師を触手で縛っているときに、健は触手を離すように言ったわよね? あのとき、わたしは自分の意思とは無関係に、触手を引いていたわ。その瞬間、わかったの。触者は本当にいた。そして、わたしの触者は、あなたなんだって」
「……だから、退触師の御千髪会長じゃなくて、僕に接触してきたのか」
「うん。里の人たちの話だと、今まで触人種は自分の触者を見つけたら、その人のもとから離れなかったんだって。それで……」
観憂が背中から出した触手を、中空でうねうね揺らした。
「生涯、愛してもらっていたらしいわ」
うねうね……
赤い触手が恥ずかしげに揺れる。
「触者はわたしたち触人種を、触手ごと愛してくれる人しか現れないの。だから健もきっと」
「少し、待ってくれ」
理解の範疇を超えた説明が次々なされたせいで、健は頭の中がこんがらがっていた。
「観憂の言いたいことはわかった。触人種の里を出て来た理由も、僕を捕まえた理由も。触者に関しても、おおかた理解した」
「ホント?」
「この先、きみを好きにならないとも、断言はできない。でも、さっきの観憂の説明で、一つだけハッキリ言えることがある」
なに、と観憂は先を促してくる。
彼女の顔を見続けることができず、健は視線を逸らした。
「僕は、自分が触手を好きになるとは思えない」
今までうねうね揺れていた観憂の触手が、その動きを止めた。
「――健は触手が嫌い?」
「いや……嫌い、ではないと思う。観憂の触手を見ていても、特に何も感じないから。でも、だからって好きってわけでも」
「なら、まだ分からないわね」
思いのほか明るい観憂の声に、健はハッとした。
観憂はニコッと笑っていた。
「だって、そうでしょ? もしかしたら、これから健は触手のことを好きになってくれるかもしれないじゃない!」
「それは……」
どう答えたものか、健は悩んだ。下手に答えれば、この触人種の少女を傷つけてしまうかもしれないからだ。
適当な返事の仕方を探していると、家の中にインターホンのチャイムが鳴り響いた。
「ちょっと出てくる」
健は席を立った。
観憂をリビングに残して、玄関へと向かう。
(芹……じゃないな)
幼馴染みは合い鍵を持っている。わざわざ呼び鈴を鳴らすわけがない。
(となると、宅配便か)
健はそう予想を立てた。
玄関のドアを開ける。ドアとその枠との間にわずかな隙間が生まれる。その途端、ドアは健の手を離れ、勢いよく開け放たれた。玄関ドアの向こう側に立っていた人物が、強引にドアを引っ張ったのだ。
健の眼前に、長く、光るものが突きつけられた。
健は目の焦点を、その光るものを合わせる。それは抜き身の日本刀だった。鋭い切っ先から、柄のほうへと視線を這わせる。そして最後に、その日本刀を握っている人物を見る。
「御千髪先輩……?」
健に日本刀を向けているのは、御千髪菊華だった。今朝、校門で会ったときと同じ学校の制服を着ている。だが、手に持っているものがおかしい。片手には抜き身の日本刀、もう片方の手には布に覆われた鞘……。学生服との組み合わせはかなりアンバランスだった。
菊華は厳しい表情で健を見つめている。その視線の鋭さは刀の切っ先にもけっして劣らない。
「突然の訪問、失礼する」
言って、生徒会長は健の足もとへ視線を向ける。そこには靴が数足あった。健の学生靴、その横には観憂の履いてきたパンプスも置かれていた。
「上がらせてもらうぞ」
有無を言わさず、菊華は靴を脱ぎ廊下へと上がる。
ダメだ、と健は思った。
「あの、御千髪先輩。今はちょっと」
制止を試みるが、その甲斐も空しい。菊華はリビングへのドアを開けた。そこに観憂がいることを見透かしているかのような、迷いの無さだった。
「やはり、ここにいたか!」
リビングに入るなり、菊華は食卓に向かって言った。
それに応えるように、食卓の椅子の脚が床をこすり、キィッと音を立てた。
「あんた、この前の退触師……!」
テーブル席に座っていた観憂が急いで立ち上がっていた。
「どうしてここに!」
「そこの男子生徒……北川くんの体から障気が漂っていた。触人種だけが残す障気が、な。それも二日前に嫌というほど嗅いだ、外世観憂と同じ匂いのものだ」
菊華はドアから数歩進んだところで、立ち止まった。刀は下へ向けられているが、柄を握る菊華の手の平からは力が抜けない。
「匂い?」
健はリビングと廊下の境目に立ったまま動けなかった。
「まさか、御千髪先輩……今朝、僕が香水をつけていないか、嗅いで確認したのは――」
「そうだ。触人種の障気を確認するためだ。普通の人間は気づかないが、退触師は障気を感知できる」
いつの間に、そんなものが体に染みついたのだろうか。
健はすぐに思い当たった。
(昨日、ビルの合間で観憂の触手に縛り上げられたときか。あのとき、障気っていうものが付いたんだ!)
菊華は観憂に向かって言った。
「さぁ、外世観憂。里へ帰りなさい。あなたがこちらへ来るという事前通達は受けていない。そのうえ、里のほうからは探索願いが出ている。」
「イヤ! わたしは帰らないわ! せっかく人間の街に出て来たのに、また帰ってたまるもんですか!」
「これは人間と触人種との間で交わされた取り決めに乗っ取っているのだ。あなたはその約束を破る気だと?」
事務的に事を済ませようとする菊華。
観憂は「べーっ!」と声に出して、その菊華に舌を出して見せる。
「約束なんて知らないわ。そんなの、わたしが決めたことじゃないもの。それにね、わたし、自分の触者を見つけたの」
「触者?」
菊華の声には驚きが滲んでいた。
ふふんっと観憂は勝ち誇ったように笑い、健を指さした。
「健――そこの男の子よ」
「……なんだと?」
菊華がチラッと健を見る。その瞳には疑惑の色がありありと浮かんでいた。
「苦し紛れの嘘はほどほどにしろ。たとえ本当に、北川くんが触者だとしても、それとこれとは別問題だ。里からはあなたの探索願いが出されているんだ。見逃すわけにはいかない」
「ほんっとうに頭の硬い女ね。退触師って、もっと話ができる人たちだと聞いてたけど……あんたは別ね!」
リビングに一触即発の空気が流れ始めた。
健の立ち位置からは、菊華は背中しか見えない。それだけでも、菊華が徐々に苛立ち始めている気配を感じることはできた。
「……どうやら、無理やりにでも引っ張っていかないといけないようだな」
「やれるものならやってみなさい。またこの間みたいに、ヒィヒィ言わせてやるんだから。あとで泣いて謝ったって遅いわよ」
菊華は刀の切っ先を持ち上げる。
観憂は背中から赤い触手を何本も伸ばし、その先端を菊華へと向けた。
健の脳裏に、二日前に見た光景が思い浮かんだ。それは、夜の工事現場で、観憂の触手に自由を奪われている菊華の姿だった。
赤い触手に腕や脚を絡みとられ、挙句にはそのうちの一本を口へ入れられ、苦悶の表情を浮かべる少女――。
健の心臓が跳ねた。
「やめろ、観憂! 触手をしまえ!」
反射的に、健は叫んでいた。
いち早く反応したのは観憂だった。
「――っ!」
苦しげな顔を見せながらも、観憂は触手を背中へと収めたのだ。
「本当に……触者だというのか?」
菊華が目を細めて、健を振り返る。
その健はというと、自分の声の大きさに驚いていた。しかしすぐ、ハッとして、観憂と菊華の間に割って入る。
「観憂、きみの気持ちはさっき聞いた。でも、暴力――触手で無理やり人を従わせようとするのはダメだ。自分の考えを伝えるのは悪いことじゃない。でも、相手の言うこともちゃんと聞くんだ」
「でも、その女が……」
「観憂」
健は努めて穏やかに言った。
「僕たち人間の世界では、話し合いが大事なんだ。自分のことが一番大事なのは当然だけど、それと同時に、相手のことも理解してあげなくちゃいけない。もし、きみが人間の世界に居たいなら、これを守るべきだ」
健がそう言い終えて、わずかな間があった。
観憂はふてくされたように頬を膨らませていた。
しかしやがて、ふっと息を吐いた。
「……健が、そう言うなら」
渋々といった様子だったが、観憂は健の言葉を受け入れる。
健は内心で胸を撫で下ろした。
振り返ると、菊華は日本刀の切っ先を鞘に差し込んでいた。こちらもまた、完璧に納得したわけではない顔つきだ。
「なら、外世観憂。わたしとともに来てもらおう。まずはあなたの里へ、自身で連絡を入れてもらわなければならない」
「わかったわ」
観憂が菊華のもとへ歩み寄っていく。
健のそばを通り過ぎようとしたとき、ふいに彼女は立ち止まった
「ねぇ、健。次に会ったら、わたしに人間のこと、たくさん教えてくれる?」
「もちろん。僕の知っていることなら、なんでも」
「ホント? 約束よ!」
触手少女は邪気のまったく無い笑顔を浮かべた。




