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「あっ、菊華先輩……」
校門をくぐったところで、隣の芹が言った。
健は芹の視線を辿る。
朝の校門付近は、登校してきた生徒たちで賑わっていた。誰もが昇降口へ向かう。その流れからやや外れたところに四人の生徒が立っていた。
生徒会役員の面々だ。会長である御千髪菊華も、当然その列に加わっていた。
生徒会役員たちは登校してくる生徒たちを厳しい目で観察し、ときおり一人ひとりに指をさして服装の注意をしている。身だしなみのチェックだ。
健の近くを歩いていた男子も女子も、慌てて上着のボタンをしめ始める。普段から制服を着崩していない健と芹にとっては、生徒会の服装チェックは関係のないことだ。
しかし、健はいつものように素通りはできない。
(御千髪先輩――)
昨日の触手少女、観憂から聞いたことが頭に思い浮かぶ。
触人種、退触師、触者……。
御千髪菊華は退触師であるという。おそらく、学校内の誰も知らない、菊華のもう一つの顔。それを知ってしまったら、ただの一高校の生徒会長としては見られない。
それでも、健は平然を装わなければいけなかった。
『ここで見たものは誰にも言ってはダメよ。そして、できれば忘れること。いいわね?』
観憂と初めて会った、あの夜に菊華に言われた。たとえ表面上であっても、あの言いつけは守っているように見せるべきだった。
健は他の生徒たちに紛れ、生徒会役員たちの目の前を通り過ぎる。
「こらっ、そこの男子! ズボンが下がりすぎだ!」
菊華の鋭い声が飛んでくる。健のすぐ後ろを歩いている生徒へ向けられたものだったらしい。
なにもお咎めが無いままに、健は芹とともに生徒会役員たちの前を過ぎることができた。
「菊華先輩……今日も容赦ないね」
生徒会役員のほうをチラチラ振り返りながら、芹が呟いた。少しビクビク怯えている。自分が注意されたわけでもないのに。
「菊華先輩って勉強もできて、生徒会長で、そのうえ美人……怒らなければ、もっと人気出ると思うのに」
「ああいうふうに、いつも厳しくしてるからイイっていう男子はけっこう多いみたいだよ」
日頃のクラスメートたちの会話を思い出して、健は言った。
芹が健の顔を横目でちらっと窺ってきた。
「……たけちゃんも、厳しくされるのがイイの?」
「僕? 僕は……そういうのは趣味じゃなかったな」
「そう、なんだ……良かった」
芹の言葉の後半に、背後からの菊華の声が覆い被さった。
「二年D組の北川健!」
思わず、健は立ち止まった。
その場で振り返ると、菊華がこちらに鋭い視線を向けていた。
「こちらに来い」
菊華は腰に手を当てて、威圧的に言ってくる。
「た、たけちゃん……」
「先に行ってていいよ」
戸惑っている芹を置いて、健は指示通り、菊華のもとへ歩いていく。菊華は他の生徒会役員たちからやや距離を空けた。
「そこに立て」
菊華はそう言うなり、健の胸元に顔を寄せた。鼻先が健の上着に接するほど近くなる。柑橘系の香りが、健の鼻孔をくすぐった。
「すんっ、すんすんっ……」
菊華が鼻息を激しくする。匂いを嗅いでいるようだ。
しかし周りからすれば、美人の生徒会長が男子生徒の胸元に唇を寄せているように見えてしまう。当然、周囲から生徒たちの視線が一斉に向けられる。
菊華本人はそれを気にする様子はない。
健も健で別段、恥ずかしいとは思わなかった。それよりも気になることがあった。
「御千髪会長、僕の名前を……?」
あぁ、と菊華は健の胸に鼻を寄せたままで答える。
「あの夜のあと、すぐに調べた。暗がりだったが、きみの顔は覚えていたからな。片っ端から生徒の顔写真とにらめっこした」
観憂との騒動に割って入ったのが誰であるのか、菊華はすでに知っていたのだ。昨日の全校集会の最後に感じた視線は、健の気のせいではなかった。
「わたしの言ったこと、破ってはいないだろうな?」
「……はい」
「なら、良い」
菊華は健の胸から顔を離した。前におりてきていた長い黒髪を、背中側へ手で流す。
「確認のためだけに、わざわざ呼んだんですか?」
「……いや」
菊華は首を振って、微笑を浮かべた。
「少し、香水の匂いがしたような気がしてな。それで呼び止めさせてもらったんだが……気のせいだった」
「香水ですか」
「校則では、学校内での香水は禁止されているからな」
菊華は怪訝な表情を浮かべた。
「む、どうした? 附に落ちない顔をしているが」
「……御千髪会長は、香水をつけていないんですか? さっき、先輩から柑橘系のいい匂いがしたんですが」
健は正直に、思ったことを口にした。
すると菊華にしては珍しく、驚いた表情を浮かべた。見る見るうちに、その頬が紅潮する。
「ばっ――バカ者! 変なことを口走るな! わたしは香水なんて付けん!」
「え? でも……」
「それはただのシャンプーの香りだっ!」
誰に注意するときよりも大きな声で、菊華は言った。
行き交う生徒たちが何事かと注視してくる。
そんなことにも気づかず、健は一人、納得していた。
(なるほど、シャンプー……それは考えつかなかった)
菊華は咳払いをした。すぐにいつもの仏頂面に戻る。だが、頬の朱色までは消せていない。
「もう行っていい」
「はぁ……」
健は踵を返し、昇降口へ歩いていく。
少し先には芹が浮かない表情で待っていた。
「菊華先輩、なんだったの? なんだか、顔ちかづけられてたみたいだったけど……」
「香水をつけてないか、チェックされただけだよ」
健はそう答えて、わずかな間、中空に視線をさまよわせた。
「たけちゃん?」
不思議そうに芹が首を傾げた。
芹の後頭部に手を回すと、健は自分のほうへと引き寄せた。身長差のせいで、芹の頭頂部はちょうど、健の鼻のあたりに近づくことになった。
「ひぇっ!? たけちゃん!?」
「――――」
幼馴染みの顔を引き寄せる。そのまま、健は数回だけ鼻で呼吸を行なった。
(特になにも匂わない……)
芹の髪から香りを感じられないことを確認すると、芹の頭を解放した。
「ありがと、芹」
「え……いまの、なに……?」
芹が鞄を持っていないほうの手で頭頂部を押さえる。瞳は潤んでいて、顔はリンゴのように真っ赤だ。
「なんでもない。行こう」
健は昇降口へ歩き出した。
その頭の中は、髪の匂いに関することでいっぱいだった。
(芹とはよく一緒にいるから、僕の嗅覚が芹の匂いに慣れてるのか。いや、使ってるシャンプーの違いかも)
背後から、幼馴染みが困ったように「うーっ」と唸っているのが聞こえていた。




