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「おーわりっ!」
観憂が大きく伸びをして言った。
健もノートを閉じる。これで今日のぶんの、観憂との勉強はひとまず終了だ。
「今日はいつにも増して難しかったわ」
「新しい単元に入った教科が多かったからね。でも、最初でつまずくと大変だから。明日も頑張ろうな」
「ええ。よろしく頼むわ、北川センセ」
茶目っ気たっぷりな観憂の言葉に、健はくすり笑う。
「終わったのか!」
こじろが駆け寄ってくる。リビングのソファの背もたれにあごを乗せて、健と観憂の二人の手が空くのを今か今かとずっと待っていたのだ。
「終わったならわしと遊ぶのじゃ、二人とも!」
「いいわよ、今日はなにする? 昨日の続き?」
観憂とこじろはさっそくソファに座り、ゲーム機の電源を入れる。据え置き型のゲーム機も、すっかり二人の遊び道具として定着した。対戦でも協力プレイでも二人は楽しそうなので、健にはなによりだった。
(今度久しぶりに、中古ゲーム屋にでも行くかな)
ソファにいる観憂とこじろを、食卓の席から見守る。
ふいに、インターホンが鳴らされた。
健はリビングを出て、玄関に向かった。
「北川くん、突然すまない」
来訪者は菊華だった。開けられた玄関ドアを通って、家に入る。
「観憂はまだ邪魔しているな?」
「そうですけど。今度はどうしたんですか?」
「すまない、こんな遅くまで。本当はもうあいつの門限は過ぎているんだ」
「あぁ、それで」
話ながら、健は菊華をリビングへと通す。
ゲームのコントローラーを握っていた観憂がげぇっと声を上げた。
「菊華!」
「帰るぞ、観憂。いつまでもいたら迷惑をかける」
「えーっ、いま遊び始めたところなのにー?」
観憂はすぐには菊華に従わない。
「知ったことか。門限は守れといつも言っているだろう。それに合わせて行動できなかったのは、お前の落ち度」
「ダメじゃ!」
菊華のすぐ前にこじろが両手を広げて立ちふさがった。
今度は菊華が驚く番だった。
「ぐっ、こ、子ども!? 北川くん、きみはいつの間にこんな幼女をかどわかしたんだ!?」
「人聞きが悪くないですか……。連れてきたわけじゃありませんよ。この子は――」
健はかいつまんで、こじろのこと菊華に説明した。
「梅の樹に宿っていた子ども……付喪神の一種か……? まぁ、そういう事情なら、特に咎めはしないが」
なぜ梅の樹から幼女が、と驚かないあたりはさすが退触師だった。
菊華は膝を床について、こじろと目線の高さを合わせた。
「ダメとはどういうことだ?」
「観憂はこれからわしと遊ぶのじゃ! 帰らせるなんてあんまりじゃ! 横暴じゃ!」
「お、横暴と言われても……こちらにも事情があるんだ。遊ぶのはまた明日ということにしてくれないか」
「いーやーじゃっ!」
こじろはぶんぶんと首を振って駄々をこねる。
交渉は難航していた。
菊華も幼女が相手では強く出られないようだ。どうにか納得してもらえるよう、最善の言葉を探しているのが健にもわかった。
「菊華」
観憂がコントローラーを置いて、そっと立ち上がる。
「こじろちゃんがそう言ってるんだから、今日ばかりは見逃してちょうだい。あたしからもお願いするわ」
「観憂……お前まで便乗して」
「せっかく秘密にしてあげてるじゃない」
意味深なその一言に、健は首を傾げた。しかし、言われた本人にはその意味がばっちり伝わったらしい。菊華が目に見えて動揺した。表情がピシッと凍りついていた。
「こ、ここでそれを出すのか、お前は……!」
「え、なんのこと?」
「ぐっ、ぐぐぐ……卑怯者め……!」
菊華は奥歯を噛みしめる。
健には事情がさっぱりわからないが、軍配が観憂に上がったことはなんとなく察することができた。
「いいだろう、門限については見逃してやる……そ、その代わり! 今日の夕食は用意しておかないぞ! あとでお腹すいたとか抜かしても遅いんだからな!」
顔を真っ赤にした菊華が、人さし指を観憂に突きつけて言った。声がやや裏返っていた。菊華はそれを捨て台詞にして、リビングを一目散に走り出ていった。次いで、玄関のドアが開閉する音が聞こえてきた。
よっぽど、観憂の握っている秘密が効いたのだろう。
「……秘密って、なにがあったんだ?」
観憂は健にウィンクして見せる。
「女同士の秘密よ」
そう言われてしまったら、男の健はそれ以上立ち入ることができなかった。
「さ、こじろちゃん、続きやりましょ」
「うむ!」
二人はソファへと戻っていく。すぐに健は観憂に尋ねた。
「なぁ、夕食はどうするんだ? さっき、夕食抜きって言われてたけど」
「……そうね、適当にコンビニで買って帰るわ」
「食べていったらどうだ?」
「嬉しいお誘いだわ。でも、それはさすがに気が引けちゃう」
健はキッチンの方に向かって呼びかけた。
「マナ」
キッチンで夕食の仕度をしていた触手メイドが出てくる。
「なんでしょうか、お兄様」
「今日の夕食の人数、一人増やしても大丈夫?」
マナは一瞬だけ目を閉じた。
「はい、問題ありません。カレーですので、人数の調整はある程度なら利きます」
「ありがとう。じゃあ、そうして」
「かしこまりました」
キッチンに戻っていくマナと入れ替わりに、芹が顔を覗かせる。
「観憂さんも食べていくの?」
「うん」
「そ、そっか……」
あまり元気のない反応だ。
(どうしたんだ?)
健が不思議に思っていると、観憂がキッチンの芹に向かって言った。
「芹、いいわよ。あたしならコンビニ弁当で充分だから」
「うっ、ううん! 大丈夫! 観憂さんのぶんまで、ちゃんと美味しく作っちゃうから! 少し待ってて!」
芹はキッチンへと再び引っ込んだ。
「大丈夫らしいよ」
「健って強引ね。でも、ありがとう。そういうことなら、今日は思い切ってお世話になるわ」
観憂はこじろのほうを見た。
「こじろちゃんも食べるのよね?」
「わしは食事はせんぞ」
「え……それで大丈夫なの? お腹が減ったりしない?」
こじろはうむと大仰に頷く。
「水を飲んで日光を浴びていれば、どうということはない。それに、わしはときどき、健の血をもらっておるからの。腹が減ることはないのじゃ」
「へぇ~、こじろちゃんってエコなのね」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
人の血を吸うのはエコと言っていいのだろうか?
健は疑問に思ったけれど、口には出さなかった。
その後、観憂とこじろが遊んでいるうちに夕食の仕度は終わった。
「ありがとう、マナ、芹」
食卓に並べられた二人分の夕食に、健はお礼を言った。
芹はすでにエプロンを外していた。
「あれ? 芹、帰っちゃうの?」
「家でお母さんがご飯作っててくれるから……」
観憂にそう言った芹だったが、玄関で靴を履いたところで、見送りにきた健に尋ねた。
「ね、たけちゃん。あとで、また来てもいい?」
「いいけど? どうかした?」
「べ……勉強……わたしも見て欲しいから。最近、数学が難しくて、それで、たけちゃんさえ良かったらなんだけど……」
なぜかもじもじする芹。
健は笑いながら言った。
「いいよ。僕もちょうど、引っかかってたところなんだ」
「そうなんだ!」
パァッと芹の表情が明るくなる。
「じゃ、じゃあ、またあとで!」
「うん」
芹が玄関ドアの向こうへ消えた。
(せっかく芹と勉強するなら、国語のほうを教えてもらおうかな……)
健はぼんやりと食後のことを考えながら、カレーのいい匂いのするリビングへと戻っていく。




