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背後で、観憂の着替える気配がしている。
「休みの日まで勉強なんてマジメねぇ」
観憂がしみじみと言った。
勉強机に向かっていた御千髪菊華は、シャープペンシルをノートの上に走らせるのを止めない。ノートには英文が筆記体で書き込まれていた。
「休みの日だから、だ。平日は生徒会の業務に忙しくて、予習復習しかできない。苦手分野にまで手を回そうと思ったら、休日が一番なんだ」
「ふーん……日曜日なんだから、息抜きしてもバチは当たらないと思うわよ?」
「余計なお世話だ」
チラッと後ろを見る。
観憂はよそ行きの服に着替え終えていた。
畳敷きのこの部屋が、菊華の自室。今では毎日、観憂という居候と一緒に寝起きしている。言葉での小競り合いが絶えないが、それでもなんとかやれている。
「お前はちょっとぐらい勉強しないとバチが当たるぞ」
「残念。あたしはこれから健の家に遊びに行くの。勉強なんてしてるヒマは無いわ」
「遊べるのはヒマだからだろうが……」
こめかみをシャーペンのノック部分で押さえる。
この触人種は自分勝手がすぎる。
「それじゃ、行ってくるわ」
「北川くんにあまり迷惑をかけるんじゃないぞ」
「はいはーい」
適当な返事をして、観憂は部屋を出て行った。
日曜日の朝だ。
観憂が出て行けば、家には菊華しかいなくなる。両親は毎週のこの時間には、仲良く買い物に出かけている。昼過ぎまで帰ってくることは、まずない。
日曜日の朝だ。
日、曜、日。
「…………」
観憂が部屋を出て行って、充分な時間を取った。
家に一人残された頃合いを見計らい、菊華は自室をそっと後にする。
長い廊下に出て、左右を確認。動く影は無い。
耳を澄ませてみる。自分の呼吸音しかしない。
安全を確認すると、菊華は駆け足で居間へ入った。
流れるような動作で、居間のテレビの電源を入れる。放送されている番組に興味など無い。リモコンを操作し、レコーダーに録画されている過去の番組をチェックする。
一番最新のものに、果たして、その番組タイトルが書かれていた。
『魔法少女ヒトミ』
日曜日の早朝に放送されている、女子小学生向けの、魔法少女アニメだった。
「よしっ」
菊華はガッツポーズを取ると、さっき録画されたばかりの『魔法少女ヒトミ』を再生する。このアニメを毎週欠かさず観るのが、菊華の楽しみとなっていた。
ろくに趣味を持たない菊華にとっては、唯一と表現してもいい娯楽。
『魔法少女ヒトミ』はこの春から始まったばかりのアニメだが、これまでも『魔法少女』シリーズとして、一年ごとに新作が放送されている。そのどれにも共通しているのは、主人公の女子小学生と、その同級生たちが魔法少女に選ばれ、友情を武器に、敵役と戦っていくというストーリー展開だということ。
菊華はこの『魔法少女』シリーズを、どれも愛していた。
今まで、菊華は自らを厳しく律してきた。そのため、同い年の少女たちが夢中になっている娯楽には一切、見向きもしてこなかった。
だが、この『魔法少女』アニメだけは別格だった。
早起きをした、ある日の日曜日。朝食を食べているとき、点けっぱなしにしていたテレビで流れ始めた見たこともないアニメ。初めは、子供向けの番組だとタカをくくっていた。しかし気づけば、食事をするのも忘れて、テレビの画面に魅入っていた。
菊華にとっては、運命的な出会いだ。
(ああっ! ヒトミ、かわいい……!)
今日も、テレビの前で悶絶してしまう。
いつも学校で口うるさい生徒会長が、自宅ではアニメを見て喜んでいる。――このギャップを、菊華は重々自覚していた。
だから、誰にもこのことは知られないように気をつけている。家族にさえ、勘づかれないように、視聴するタイミングに神経を尖らせているのだ。
こんなところを知り合いに見られたら、きっと生きていけない。
やがて、番組も終盤にさしかかる。
『どんな悪だくみも、わたしの目からは逃れられないわよ!』
テレビ画面の中で、主人公のヒトミが悪役を前にして、いつものセリフをビシッと決める。その直後、別の声が菊華の耳に届いた。
「ふーん、菊華もそういうの観るんだ?」
観憂の声が、した。
菊華は声にもならない叫びをあげた。恐くて、すぐには声のした方を振り向けない。オイル切れのロボットのように、震えながら観憂のほうを観る。
居間の入口に、観憂は立っていた。
「なんだか意外ね、菊華がアニメ観てるなんて」
「どうして……ここに」
声まで震えてしまう。
観憂は手に持った財布を振ってみせる。
「コレ、忘れちゃって。取りに戻ってきたら、居間に菊華がいるから、なにしてるのかなって思って」
観憂はニコッと笑いながら説明してくれる。その笑顔が、今の菊華には触手と同じくらい恐ろしく感じられた。
「みっ、観憂……わたしがこういうものを観ていることは、誰にも言わないでくれないか……」
「? いいわよ」
わりとあっさり、観憂は頷いた。
しばらく間を空けてみるが、見返りを要求してくる気配もない。
「ほ、本当にいいのか?」
「なんで確認とるのよ。信じられないの? 他の人にわざわざ言いふらしたって、あたしにはなんの得にもならないわ」
眉を寄せる触人種の少女。
「それじゃ改めて、行ってきまーす」
観憂はパタパタ足音を立てて、居間を出て行った。
『今よ! レーシック・フラッシュ!』
テレビの中で、魔法少女に変身したヒトミが必殺技を放つ。
『ぬぉおおぉんっ!』
悪役の断末魔を聞きながら、菊華は床に両手を着くのであった。




