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 芹はたじろいだ。

 一段高いところから、女性が芹を見下ろしてくる。感情を持っていないような、無機物的な顔つきをしている。

 その雰囲気と服装はかなりミスマッチだ。

 なぜか、彼女はメイド服だった。

「メ、メイドさん……?」

 芹がぽつりと零す。

 料理のレシピ本を買ってすぐ、芹は健の家にやって来た。あわよくば、買ったばかりの料理本を口実に、夕食を作ってあげようと画策していたのだ。

 前回は観憂の触手に驚いてしまい、それどころではなかった。

(今日はあんなアクシデントは起きないはず……!)

 いつも通りに、合い鍵で家の中に入った。するとリビングから出て来たのだ、このメイドが。健の家にはあまりにも不似合いな出で立ちの少女だ。

 入る家を間違えたのかと、芹は混乱した。

「どちら様ですか?」

 抑揚のない口調で尋ねられる。

「あ……えっと、わたしは……」

「芹じゃないか」

 聞き慣れた声がした。

 リビングに通じるドアから、健が顔を出していた。

「たけちゃんっ!」

 芹はホッとした。

「お兄様のお友達ですか?」

「うん。僕の幼馴染みの、霜田芹」

 健はごく自然に、メイドと接していた。

(つい数日前まではこんな人いなかったよね……?)

 芹は靴を脱いで、廊下にあがった。

「たけちゃん、その人……誰?」

「今日から家に来た、家事手伝いのマナだよ。メイド……なのかな?」

「やっぱりメイドさんなの!?」

 メイド。

 その単語の響きに、芹は様々な連想を抱いた。それもおもに、モザイク処理が必要になるものばかり。経験がまったく無いのを、官能小説で得た中途半端な知識で補っているせいだった。

「いつの間に雇ったの? 言ってくれれば、わたしが縛られてあげるのに!?」

 顔を真っ赤にして、芹は言った。

 健はきょとんとした。

「雇ったとかじゃないよ。父さんと母さんから送られてきたんだ」

「人身売買!? しかも両親公認の奴隷? 奴隷なの!?」

「……芹、ちょっと落ち着きなよ」

 落ち着いている健が言った。

 芹は大きく息をしてみた。過熱ぎみだった頭が、少し冷えたようだった。

「マナはロボットだよ。父さんと母さんの研究所で作られたんだ」

「ロボット……機械、なの?」

 チラッとマナのほうを見る。

「全然そうは見えないけど……すごく人間っぽい」

「ああ、観憂も同じこと言ってたよ」

「観憂さん?」

 健と芹はリビングに入った。

 ソファーに、観憂が座っていた。ゲームのコントローラーを握ったまま、こちらを見てくる。

「芹じゃない。やっほー」

「観憂さん……来てたんだ」

 強ばった笑顔を浮かべてしまう。

「遊びに来たの。芹も?」

「うっ、うん……」

 料理本の入っている書店の紙袋を、芹は体の後ろにサッと隠した。

「観憂さんは……ゲームやってるの?」

「そう。格ゲー。一人でやってるんだけど……三人目の敵が強くって……このっ」

 話しながらも、観憂はテレビから目を逸らさない。コントローラーで技コマンドを入力すると、テレビ画面の中で、スレンダーな女のキャラクタがサマーソルトを放った。

「芹もゲームする?」

「ううん……わたし、アクションって苦手だから」

「なーんだ、一緒にできると思ったのに」

 観憂が残念そうに言う。

 音を立てて、リビングのドアが開いた。

 振り向くと、マナが洗濯カゴを運んでくるところだった。

「お兄様のお部屋のシーツを洗濯いたしました」

「あぁ、ありがとう。よく考えたら長い間、洗ってなかったよ」

 庭に面したガラス張りのドアを、マナが開ける。シーツの入ったカゴは窓際に置かれ、マナは徒手空拳で庭へと降りる。

 それから、マナは両手の袖口から触手を数本ずつ伸ばした。

 銀色の触手は、その一本いっぽんの先端からさらに細い触手を出す。細引き触手でカゴの中のシーツを掴むや、中空に持ち上げ、庭へと運び出していった。

 その様子をリビングから見ていた芹は、口をあんぐり開けていた。

「たけちゃん……マナさんも、触手を使うの?」

「みたいだね。作業用のアームらしい」

 芹はガラス張りのドアに近づいた。

 マナの触手が左右に大きく伸び、シーツをピンと張る。日差しを反射して、触手の銀色が輝いていた。

「この人も触手かぁ……」

 健に聞こえないくらいの声量で呟いた。

 芹はふと、物干し竿のすぐ横に目を移す。一本の梅の樹がそこに根を下ろしていた。梅にしては大振りだ。季節外れなのか、花も実もついていない。

「梅……」

「ん? 梅の木がどうかした?」

 健が隣に立った。

「ううん。なんだか、あの木を見てると、こじろちゃんのことを思い出すなぁって」

「こじろ――そうだね」

 こじろ、というのは女の子の名前だ。

 芹と健が幼稚園に通っていた頃に、彼女はこの家の庭にときどき忍び込んでいた。和服の似合う、日本人形のような少女だった。

「初めてあの子と会ったのは、芹と庭で遊んでいたときだったかな?」

「そう。ふと気づくと、梅の木の陰から、こじろちゃんがこっちを見てて……一緒に遊ばないかって、たけちゃんが誘ったんだよね」

「なんだかこっちに来たそうな顔してたからな」

 こじろとは一時期、健の家でよく遊んでいた。それもある日を境に、パタリと姿を見せなくなった。

「あれから、会えてないんだよね?」

「うん。よく考えたら、僕はこじろの名前しか知らなくて、どこに住んでるのか聞いたこともなかった。引っ越しとかしちゃったのかな」

 芹は健と一緒にしばらくの間、和服の幼女との思い出に浸っていた。

 シーツを干したマナがリビングに戻ってくる。

「お兄様、夕食はなにかご希望のものはありますか?」

 マナが放ったその一言で、芹は過去の楽しい思い出から、一気に現実へと引き戻された。

「え、夕食って……作るの? マナさんが?」

「そうだよ。マナはまだテスト中らしくて、僕の家で一通りの家事をしながら、データを収集するんだってさ」

「へ……ぇ、そうなんだ……」

 健にアピールできる最大の武器が、ぽっと出の触手メイドに横取りされた。

 目眩がする。

(せっかく本まで買ったのに……こんなのって……)

 気持ちだけは、完璧に地面に四つん這い。

「あぁ、そうだ。芹、一つ頼み事があるんだけど」

「な、なに……?」

「芹は料理できるんだよな。良かったら、マナに教えてやってくれないか?」

 健は淡々と追い打ちをかけてきた。

「マナは料理だけが苦手みたいなんだ」

「フ、フーン? ソーナンダー?」

 かろうじて四つん這いになっていた心は、もはや完全に地面に倒れ込んでいた。

「私からも、よろしくお願いします」

 当のマナまでこの調子だ。しかも、両手をへそのあたりに置いて、丁寧にお辞儀をしてくる。

 芹はぐっと奥歯を噛んだ。

「……いいよ! わたしで良ければ、教えてあげる!」

 ニコッと笑って、そう答えた。

「ありがとう、芹」

「ありがとうございます、芹様」

 健とマナから礼を言われる。

 芹は表面上はほほ笑んでいたが、心の中では滝のような涙を流していた。

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