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にわかには信じられない話だった。
「そんなことが……」
健の口から一通りの事情を説明されても、芹はすぐには納得することができない。
芹、健、観憂の三人はテーブルの席に座っていた。
「観憂さんは……ホントにその、触人種、なんだよね」
「そうよ」
対面の席の観憂が頷く。赤い触手たちは背中に全て埋もれている。さっきまでは下着姿だったが、今は学校の制服を着ている。そうしていると、どこからどう見ても、普通の女子高生にしか見えない。
「人間の暮らしを知りたいっていうのは、わかった。でも、それでどうして、たけちゃんに手伝ってもらっているの? この街には退触師っていう専門の人――菊華先輩がいるんだよね。菊華先輩じゃダメなの?」
「菊華はダメよ。ソリが合わないのかしらね。顔を合わせればいつもケンカしちゃうの。それに、健が一番いいの」
「ど、どうして?」
観憂が、芹の隣に座る健を見た。
「健はあたしの触者だから。あたしたち触人種を好きになってくれる人――それが触者なの。運命の人って言えば、わかってもらいやすいかしら」
「う、運命!?」
芹は健のほうをバッと向いた。
「ですてにー!? たけちゃん、ですてにーなの!?」
「人を機動戦士みたいに言わないでくれ。でも……観憂がいま言ったことには、ある程度の説得力があるらしい。僕が観憂の触人種っていうことで、観憂は里を出てこられたんだ」
淡々と、他人事のように健は説明を加えてくれる。
どうやら健は自分が触者であることを、承知しているようだった。触者は触人種を愛する者。それはつまり、健が観憂に好意を抱いているということだ。
「もうすでに、ご……合意の上なの!?」
「合意? 芹、なんの話――」
健の声を、インターホンのチャイムが掻き消した。
「出てくる」
健は席を立って、玄関へ向かっていった。
彼がリビングを出て行く。そうすると、芹は観憂と二人きりになってしまった。非常に気まずい。ただでさえ話しづらかった人なのに、事情を知ったせいで、余計に身構えてしまう。
芹は俯いて、膝に乗せた自分の拳を見た。
「ごめんなさい。驚かせちゃったわね」
弾かれたように、芹は顔を上げた。
観憂が苦笑していた。
「ううん、そんな……わたしも、逃げようとしたから。ごめん……」
「あたしは気にしてないわ。初めて触手を見た人の当然の反応でしょ。退触師の菊華でも、今でもちょっとビビってるわ」
「でも、たけちゃんは……」
芹と観憂は揃って、リビングから玄関へと続くドアを見た。
「健が特殊なのよ。あたしが触手で捕まえたときだって、慌てる素振りも見せなかったわ。肝が据わってるのね」
たけちゃんらしい……。
芹は口の中で呟いた。
「もしかしたら、そういう健だから触者なのかも、ね」
観憂が独り言のように言った。
「……触者……」
芹はぽつりと呟いた。
この単語を発したあと、芹の口内に苦味が広がった。
リビングのドアが開いた。
「観憂、お迎えが来たよ」
健がリビングへ戻ってくる。そのすぐ後ろに、御千髪菊華の姿があった。
「観憂、門限を守るように言っただろう!」
菊華は大股で観憂に近づいていくが、ふと、芹に視線を向けた。
「きみは?」
「しっ、霜田芹、です……」
「……あぁ、北川くんと毎朝登校してくる子か。どうしてこんな時間に、北川くんの家にいるんだ? もう暗くなったぞ。きみも、自分の家に帰りなさい」
「は、はい」
菊華に注意され、芹は怯えながら返事をした。
生徒会長は学校の外でも風紀に厳しいらしい。
だが、芹はすでに、菊華にもう一つの顔があることを知っている。
「あー、そうだ。菊華、ごめん」
「……なんだ、観憂」
「その子にバレちゃった。わたしが触人種っていうこと」
菊華の表情がピシッと凍りつく。
芹も健も観憂も、菊華の挙動に注目する。
ぷるぷる、菊華の唇が小刻みに震え始めた。かと思いきや突然、凍っていた菊華の顔が真っ赤になった。解凍だった。
「なにやってんだ、お前は――!?」
菊華の怒号に、向けられたわけでもない芹は肩をビクっと震わせてしまった。
観憂は舌先をちょろっと唇の合わせ目から覗かせる。
「いやぁ、うっかりしてたわ。ごめん、ごめん」
「ごめんで済んだら退触師は要らない! ……あっ」
菊華はハッとした様子で芹を見た。
すぐに、観憂がフォローした。
「あ、大丈夫。菊華が退触師って言うのも教えてあるから、隠さなくてもいいわよ」
「む、そうか。それなら気をつかわなくてもいいな。ありがとう……なんて、言うと思うかバカ者―っ!」
「わっ、ノリツッコミ! 菊華すごーい!」
ケラケラ笑う観憂に、菊華は顔を両手で覆ってうずくまった。両手の隙間から「ぬぉぉおお」という、くぐもった悲鳴が漏れ出てくる。
(こ、これが菊華先輩……!?)
芹は今日何度目かの衝撃を受けた。
学校ではいつも、厳しい生徒会長の御千髪菊華。相手が誰であろうと悪いものは悪いと指摘できる、カッコイイ女の先輩。その人がいま、完全に弄ばれている。
目の前で小さくなっている女と、生徒会長の御千髪菊華は本当に同一人物なのか。芹はよく似た別人を見ているような錯覚がした。
菊華はやがて顔からを手を離し、ゆっくり立ち上がる。疲れ切ったような視線が芹に向けられた
「芹さん……わたしや観憂のこと、くれぐれも秘密にしておいてくれる?」
「は――はい、もちろんです」
「ありがとう」
菊華は息を大きく吐くと、やや鋭い言い方に戻った。
「観憂、帰るぞ。今日はたっぷり反省してもらうからな」
「はいはい」
観憂は鞄を掴むと、椅子から立ち上がった。
四人全員が、家の軒先まで出る。
日も没して、屋外は暗くなっていた。
芹は健の横で、観憂が険しい表情の菊華とともに帰って行くのを見送った。二人の後ろ姿が暗闇の中に消えていく。やがて完全に見えなくなると、健が言った。
「今日はすまなかった。いろいろ驚いただろ」
「……うん。でも、どうして最初から観憂さんがたけちゃんと親しかったのか、これで納得できたよ」
「そうか」
健は家の中に戻ろうと踵を返した。
「鞄、まだリビングに置いたままだよな? すっかり遅くなったね。きっと、おじさんとおばさんも心配してる。送っていくから、僕が適当に話しておくよ」
「ね、ねぇ、たけちゃんっ」
玄関のドアを開けようとする健を、芹は呼び止めた。
健が振り返る。
「なんだ?」
「たけちゃん……たけちゃんは、あの話、信じてるの?」
「あの話?」
芹は一瞬、自分の唇がこわばるのを感じた。
「たけちゃんが、観憂さんの触者っていう話……」
「あぁ、アレか」
健が思案する間があった。
「どうなんだろうな。僕には全然、そんな実感は無いよ。目に見えるものでもないらしいから、実際のところ、誰にもわからないんじゃないかな」
イエスともノーともつかない返事だった。
芹は思わず、さらに尋ねてしまう。
「たけちゃんはフェチを探してるんでしょ。聞いたことがあるけど、触手も、フェチの一つなんだよね。たけちゃんは触手、好きになりそう?」
健が返事をするまでの数秒、芹の心臓は激しく拍動していた。
健は表情を和らげた。
「植松部長からフェチの種類を教えてもらったときに、触手というジャンルがあることは知ったよ。でも、触手を好きになるかもなんて、今まで考えたことも無いね」
その言葉を、芹は「ノー」と解釈した。
ホッと息をついてしまう。
(たけちゃんは触手を好きにならないんだ……良かった)
三本目に続く




