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 健はチラッとリビングの壁にかかった時計を見る。

 時間にしても、そろそろ切り上げどきだった。

「今日はこれぐらいにしておこうか」

「ひーっ、疲れたぁー!」

 観憂がシャーペンを机の上に転がしながら、ノートに顔面を突っ伏す。ノートには、観憂が数学の問題と格闘した形跡が残っていた。

 今朝の約束どおり、健は自分の家のリビングで、観憂の勉強を見ていた。

「でも、健の教え方、とっても上手でわかりやすいわ。おかげで少しできるようになった気分がする。ねぇ、また教えてくれない?」

「うん、いいよ。僕も観憂に説明しているときに、自分でも理解しきれていないところが見つかったんだ。お互いのためになるね」

 緑茶の注がれたコップを、健は口もとに運んだ。

「はぁ、休憩きゅうけい」

 対面に座る観憂がおもむろに顔を上げた。かと思ったら、自分のブラウスの胸もとに手をやった。リボンがほどかれる。次いで、ブラウスのボタンが上から外される。

「なにやってるんだ?」

 緑茶を飲みながら、健は尋ねた。

「上着を脱いでるに決まってるじゃない」

 ボタンを全て外すと、観憂はとうとうブラウスの袖から腕を抜いた。脱いだブラウスは丁寧に畳まれ、隣の椅子の上に置かれた。

 それで上半身を包む物は、もはや生地の薄い、黒のキャミソール一枚のみとなった。制服の上からでは見えなかった胸の谷間が露わになる。

「制服ってホントに息苦しいわ」

 観憂の肩口から、赤い触手がひょこっと顔を出す。出てきた触手は一本だけではない。観憂の背中からは五、六本の触手が伸びてくる。

「背中が塞がれてると違和感があるのよ」

「背中が、触手の生えてくる場所だから?」

「そう。長袖よりもノースリーブのほうが、開放的で動きやすいのと似てるかもね。だから、里のみんなは、寒くないかぎりは背中の開いた服ばかり着てたわ」

 うねうね触手をくねらせながら、観憂が笑う。

「本当は学校にいるときも、触手を自由に伸ばせたらいいんだけど」

「観憂、それは」

「わかってるわ。人前で触手を出したらダメなんでしょ。今日のお昼休みに言われたことぐらい、ちゃんと覚えてるわ。ま、あんなこと言われなくても最初から、場所と相手は選ぶようにしてるのよ?」

 触手が伸びてきて、その先端を健の額にむにゅっと押し当ててくる。

「そういえば、健はさっき、あの部室で植松先輩となにを話してたの?」

「部長と?」

「どこまで進んだ……とか訊かれてたじゃない」

 健は茶をもう一口飲んだ。

「あの話か。ゲームだよ。部長から借りてるゲームソフトをどこまで進めたかっていう話さ」

「ゲーム? どんな?」

「恋愛シュミレーション……いわゆるギャルゲーっていうジャンルのソフトなんだけど。観憂は知らないよね」

 うん、と観憂が頷く。

 どう説明したものか。

 考えようとして、健はすぐにやめた。実物があるのなら、それを見せた方が説明の手間が省けることに気づいたのだ。

「実際に見ればわかるよ」

 健は椅子から立ち上がった。

 テレビを点け、ゲームのできる状態にする。

 コントローラーを持ってソファに座る。

 すると、観憂は触手を一旦片付けて、健のすぐ隣に腰を下ろした。お互いの肩が触れるほど近い。

(ソファは広いのに、なんでこんな至近距離に……?)

 気にはなったものの、健はコントローラーのボタンを押した。しばらく操作していく。やがて、女性の立ち絵を伴ってゲーム画面が現れた。胸元の開いたスーツ姿の、美人な大人の女性だ。

「これがギャルゲーっていうやつ?」

「そう」

 健はボタンを押した。

 メッセージウィンドウに、女性のセリフが表示される。


『キミは先生を困らせるのが上手ね・・・』


 攻略ヒロインなので、セリフは当然ボイス付き。

 テレビのスピーカーからキャラボイスが聞こえてきて、観憂がビクッと肩を跳ね上がらせた。

「声が出た! すごい!」

「攻略可能なキャラとか、主要なキャラには声優さんが付いてるんだよ。ギャルゲーの目的は、ときどき出てくる選択肢を選んで、主人公をヒロインたちと恋愛させていくこと。主人公の目線になってるから、感情移入するっていう人もいるらしいね」

「ゲームの中で女の子たちと付き合っていくっていうこと?」

 観憂はへぇーと感嘆しながら、画面を見つめる。

「意外ね」

「こういうゲームがあることが?」

「それもそうだけど。健がこういうゲームをやってること自体が意外だわ。健もちゃんと他の男みたいに、女の子に興味があるのね」

 からかうように観憂が笑う。

 何かひっかかる言い方だ。

「ゲームと現実は違う――部長はそう教えてくれたよ。だから、こういうゲームをやってるからって、現実の女の子に興味があるっていうわけじゃないよ」

「ふぅーん、そういうものなんだ? ということは、健はただ単純に、ゲームに出てくる女の子が好きっていうこと?」

 観憂の問いかけに、コントローラーを握る健の手が一瞬だけ固まった。

「……いや、そういうわけじゃない」

「? じゃあ、どうしてゲームやってるの?」

 不思議そうに、観憂が見てくる。

 健は奥歯を噛んだ。

「フェチを探してるんだ、僕は……自分のフェチを」

「ふぇち――それって、好きなものっていう意味よね」

「有り体に言うとそうだね。もうちょっと細かくするなら、自分の好きな女の子のタイプ、その子を含めたシチュエーション、物語のジャンル、展開……そういうものの好みを、僕は知りたい」

 茶化すわけでもなく、卑下するわけでもない。健は真剣な声音で、恋愛ゲームをしている理由を語った。

「今年になってすぐの頃だったかな。クラスの男子たちと話してて、フェチに話題が移ったんだ。みんな、ちゃんと自分の好きなものがハッキリしてた。でも、僕にはフェチが無かった」

 話ながら、健は思い返していた。

 赤裸々に自分のフェチについて語る男子たち。その話に置いてきぼりにされた自分。あのとき、健は羨望の眼差しを同級生に向けていた。

「僕は自分のフェチを知りたいって思った。それで、サブカル研に入ったんだ。あそこなら、フェチとかに詳しい先輩がいるって聞いて……それからずっと、植松部長にはお世話になってる。このゲームも、そのうちの一つだよ」

 健の知らない知識や知恵を、植松俊矢は潤沢に持ち合わせていた。そしてありがたいことに、それらを健に惜しげもなく分けてくれる。

『ここは自由な場所だ。誰がどんな嗜好を持っていても咎められない。フェチとは本来、そういうものだ。そして、自分のフェチを追い求める者を、俺は応援しよう』

 植松に言われた言葉が脳裏をよぎった。

 彼はあの宣言通り、健のフェチ探求の手助けをずっとしてくれている。貸してもらった恋愛ゲームも、いまプレイしている一本だけではない。

「今までに見つかった? フェチっぽいの」

 健は首を「いいや」と首を振った。

「それらしいものは何も。……でも、もしかしたら、このゲームで見つかるかもしれない。まだ全てのヒロインを攻略したわけじゃないから、なんとも言えないよ」

 思わず、願望を含んだ言い方になってしまった。

(僕は焦っているのか……)

 健は歯がみした。

 なにかを感じたように、観憂がじっと健を見つめていた。しかし突然、パァッと笑顔を浮かべる。

「大丈夫よ、健。このゲームでフェチが見つからなくても心配しなくていいわ」

「どうして?」

「健は触者なんだから、触手を好きになればいいのよ!」

 これは名案とばかりに、観憂は嬉々としてソファから立ち上がった。そして健が口を挟む間もなく、観憂の背中からは触手が生え始める。

「触手のすばらしさ、教えてあげるわ」

 赤い触手が観憂の背中から左右に大きく伸びる。

 その姿はまるで、翼を広げた天使のように見えた。

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