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睡魔との闘いとなる午後の授業も、全て終わった。
ホームルームも終わり、担任の教師が教室を出て行く。クラスが解放感に包まれ、にわかに騒がしくなる。
健は鞄を掴んだ。自分の席の近くで女友達と歓談している観憂のもとへ近づく。
「観憂」
「あっ、健! ――じゃ、また明日ね」
あとの言葉は、女友達に向けられたものだった。
話の途中で席を立つ観憂を、彼女たちはやはりニヤついた笑顔で見送る。
男子と同様、女子たちも観憂との仲を勘ぐっているのだろう。――まるで他人事のように、健にはそう推測できた。
観憂とともに教室をあとにする。
「た、たけちゃん」
廊下に出てすぐ、声がかけられる。
声に振り向くと、芹が少し離れたところから駆け寄ってくるところだった。
「芹。今日も図書委員か?」
「うん……たけちゃんと観憂さんは? また、どこかに寄り道?」
「いや、今日は違うよ」
健は視線で観憂を示した。
「観憂が僕の部活動を見学したいっていうから、これから連れて行くところなんだ」
「たけちゃんの……」
芹の顔がわずかに曇る。
観憂が一歩、前に出た。
「せっかくだから、なにか部活動っていうのに入るのも面白いかなって思って。他の部活も今度、クラスの子たちが案内してくれるのよ。芹は何部に入ってるの?」
「わたしは……部活はなにも。図書委員にしか、入ってないから」
「ふーん、そうなの? 図書ってことは、図書館に行ったら芹に会えるのね」
ニコニコと笑う観憂。それとは対照的に、芹の表情は暗い。そのコントラストには、さすがの健でも気づくことができた。
(芹のやつ、どうしたんだ……? もしかして、観憂が苦手なのか。そういえば、芹は人見知りするほうだったな……)
芹の様子がおかしい理由を、健は自分なりに解釈した。そしてそれを疑うことはない。
「行こう、観憂」
二人の会話の途切れたところで、健は観憂にそう促した。芹のためを思ってのことだ。芹がこれ以上緊張しないようにという、健の気遣いだった。
「え――えぇ。またね、芹」
観憂は少し慌てて、芹に言った。
「じゃあ、芹。図書委員、がんばって」
「あ、ありがと……」
芹は微妙な笑顔を浮かべていた。
今日のところは、これで芹とお別れだ。
健は観憂とともに、廊下を歩いていく。
差しかかった階段を、下りようとした時だった。
菊華がちょうど、上の階から降りてきた。彼女の周りに友人の姿はない。鉢合わせてしまい、三人とも、その場で足を止めた。
「北川くん……と、観憂か。二人はこれから帰るところか?」
「いえ、今日は」
健が答えかけたが、それを遮るように観憂が続けた。
「わたし、これから健の部活動の見学に行くのよ」
「部活……? 北川くんは部活動に入っていたのか? 今年度初頭に作られた名簿には、部活も委員会も、無所属となっていたが?」
菊華が怪訝な目が健に向けられる。
「生徒の入っている部活動なんて、よく覚えてますね」
「いや、わたしが知っているのは北川くんのことだけだ。きみの顔と名前を調べるときに、たまたま一緒に確認していてね。何部に入ったんだ?」
尋ねられてしまった。
自分の入っている部活動について話すことにはためらいはない。ところが、相手が御千髪菊華となれば対応も変わってくる。菊華は生徒会長――しかも「生徒たちに厳しい」という前置きがつく――なのだ。サブカル研のことは聞かせられない。
健は返事を渋る。
すると、観憂が口を開いた。
「サブカル研っていう部活よ」
代わりに、観憂が答えた。
内心で健は驚いたが、すでに遅い。
観憂は得意げに胸を張り、健を流し見る。そして生徒会長の菊華は当然、露骨に険しい顔をする。
「サブカル研……あの同好会に、北川くんが?」
「まぁ……ちょっと理由がありまして」
「感心しないな。あの同好会の良い噂は聞かないぞ」
容易に予想できた反応だった。生徒会長なら、そう言うに決まっていた。
「きみがあんな同好会に入っていたなんて意外だ。北川くんなら、もっとちゃんとした部活動のほうが合っていると思うが」
「なによ、文句あるの?」
反論したのは観憂だ。
「どの部活に入ろうが、健の勝手でしょ? 菊華が口うるさく言うことじゃないわ」
「なにぃ!」
観憂が菊華と、視線で火花を散らす。
通りかかった生徒たちが数名、立ち止まって遠巻きに三人を見ていた。厳格な生徒会長である菊華に口答えをする生徒なんて、今まで出てこなかった。事情を知らない生徒たちからすれば、観憂は恐いもの知らずな女子に見えるに違いない。
またここでケンカをされては敵わない。
健は観憂の肩に手を置いた。
「観憂。こんなところで先輩につっかかっちゃいけないよ」
「でも、健……」
「いいんだ。御千髪先輩がああ言うのは、ある意味では仕方ないことなんだ」
観憂は口を噤んだ。しかし納得できないのか、むーっと頬を膨らませた。そうかと思えば、肩に乗せられていた健の手を掴んだ。
「こんなお固い黒髪ロングほっといて、早く行きましょう」
「固い黒髪ってなんだ! わたしの髪はサラサラだぞ、おい!」
観憂に手を引っ張られて、健は階段を下りていく。
「観憂! 門限には帰るんだぞ、いいな!」
姿が見えなくなっても、階段の上からは菊華の鋭い声が響いてきた。
「ふんだっ! お母さんかっての!」
見えない菊華に向かって、観憂はべーっと舌を出す。
「…………」
健は静かに息を吐いた。
菊華に部活動のことを知られてしまった。自分の本意ではない。できることなら、サブカル研に入っていることは、菊華には秘密にしておきたかった。
(でも、あの状況じゃ誤魔化すのも難しかったかな……それに、いつかは知られることだっただろうし)
バレてしまったものは仕方がない。
健は諦めて、観憂に掴まれている手の平を上げた。
「観憂、もう手は離してもいいんじゃないか?」
「そう? 離しちゃう?」
観憂は悪戯っぽく笑った。
ぎゅっぎゅっ
わざと手を握る力に強弱をつけてくる。観憂の手は柔らかく、健よりも熱を帯びている。だが、その熱が健に伝播してくることはなかった。
健は冷静だった。
「これから観憂を部室に案内するのに、手を繋いだままだとお互いに動きづらいだろう?」
「――それもそうね」
苦笑しながら、観憂は掴んでいた健の手を離した。
二人は再び、部室へと歩き出した。
健の部活、サブカル研の部室は別校舎の端にあった。日があまり当たらない場所。日中でも夕暮れ時でも、どこかじめじめした薄暗さがある。生徒も教師も滅多に立ち入らない。
まるで追いやられたような学校の隅こそが、サブカル研の居場所だった。
「ここ?」
サブカル研のドアを見ながら、観憂が言った。
「なんだか寂しい場所ね」
「そうかもね。でも、静かだからそのぶん落ち着くんだ。今なら、部長がいるはずだよ」
健はドアを開けた。
ドアは小部屋へと繋がっていた。教室の四分の一ほどの空間だ。部屋の中央には長机やパイプ椅子などが並べられ、壁際には台とともにパソコンと、今どき珍しいブラウン管のテレビが置かれていた。
真っ先に健の目についたのは、窓際で体を捻っている男の姿だった。
「部長」
「ん? おお、同志北川じゃないか」
健に呼ばれて、男は体を真正面へ向けた。細身の男で、枠の薄い眼鏡が理知的だ。
「また萌え悶えていたんですか?」
「ああ、このラノベはいいものだ。幼馴染みのヒロインが健気でな……特にこの部分の挿絵などはニヤニヤすること間違い無しだ」
男は手に持っていた文庫本――ライトノベル――のあるページを開いて、健に見せてくる。その見開きの左半分には、モノクロの挿絵が印刷されていた。パジャマ姿の可愛らしい女の子が、枕に口もとを押しつけたまま、こちらを見つめていた。
「む? 北川、その子は?」
男の目が、健のすぐ後ろに立っている観憂に向けられる。
「先週、僕のクラスに転校してきた外世観憂さんです。部活見学をしたいというので、連れて来ました」
「見学……それは珍しいな」
観憂が健の隣に並んだ。
「こんにちは。ここの部長さんですか?」
「いかにも。俺がここ、日本サブカルチャー研究会の部長、植松俊矢だ。きみの見学を歓迎しよう」
植松は口もとを歪めた。整った顔立ちと切れ長の瞳のせいで、彼は普通に笑っただけでもクールな微笑みになってしまう。しかしそれも、手に持っているライトノベルのカラフルな表紙で台無しだ。
「外世くんはどうしてここの部活に?」
「健が入ってるっていうから、どんなところか気になったんです。なにをやってるところなんですか?」
「活動内容は聞いてないのか。いいだろう」
大仰に言って、植松はライトノベルを机の上に置いた。
「このサブカル研では、その名が示すとおり、日本のサブカルチャーを研究している。もっとも、研究といっても本当に学術的なアプローチをしているわけではない。その実態は、個々の部員が気になる作品に触れ、それに関するレポートを月一で提出してもらうだけだ。あまり難しく考えず、サブカルに自由に触れられる場所、と思ってくれればいい」
観憂が首を傾げる。
「サブカルって、なんですか?」
「サブカルチャー……いわゆるアニメや漫画、ゲーム、最近の中高生向け小説などもそれに含まれるな。旧来の日本の文化との対比として挙げられることが多い。個人的には、すでにサブではないと思うが」
植松は壁際に歩み寄る。
サブカル研の部室の片側の壁は、背の高い本棚にほとんど覆い隠されていた。その本棚には隙間なく書籍――漫画、小説、画集、ムック、評論本――が詰め込まれていた。
「このサブカル研が所有しているものだ。部員が寄贈したものも入っている。これらは部員なら、自由に借りていっていい」
「へぇー! いっぱいありますね……!」
視界いっぱいの本の背表紙を前にして、観憂が瞳を輝かせる。
「見てもいいですか?」
「あぁ、どうぞ」
観憂は本棚とにらめっこを始めた。気になる背表紙の本を見つけるや、本棚から取り出して、ページをぺらぺら捲る。かなり興奮気味だ。
本に夢中になる観憂の後ろ姿を、健は眺めていた。
「ところで、同志北川よ。アレはどこまで進んだ?」
隣に来た植松がやや声を潜めて尋ねてくる。
健はやはり淡々と答えた。
「かなり進みました。あと一人、教師のヒロインを攻略すればコンプリートです。レポートは来週中には持ってこれると思います。感想はそのときに」
「ふむ、そうか……」
なにかを思案するように、植松が目を閉じた。
「今度こそ、見つかるといいな」




