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 霜田芹の一日は、学校に行く前に、隣家の幼馴染み、北川健を迎えにいくことから始まる。小学生の頃から変わらない日課だ。

 健の家には、合い鍵を使えば入れる。息子一人に留守番をさせがちな健の両親から直々に、「ときどきでいいから様子を見てやってくれ」と芹に与えられた鍵だ。

 いつもの時間に、芹は幼馴染みの家に上がる。

 わずかな期待を抱きつつ、リビングへのドアを開ける。

「あぁ、芹か。おはよう」

 キッチンで食器を洗っていた健が、芹の方を見て言った。

「……おはよう、たけちゃん」

 芹はがっかりしたものの、それを顔には出さないように注意する。

 また今日も、健はちゃんと起きていた。それどころか、庭の物干し竿にはすでに洗濯物が干されている。食器を洗っていることからも、朝食をすでに終えたと判る。

(ああ……たけちゃんって、どうしてこんなしっかりしてるの……)

 中学生の頃に、健はほとんど一人暮らしのような生活になった。そうと知ったとき、芹は内心でガッツポーズをした。チャンス到来。想いを寄せる幼馴染みと、距離を縮める機会が訪れたのだ。これを芹が喜ばないはずがなかった。

 かいがいしく世話をする自分と、その姿にときめく彼。

 そんな妄想を無邪気に抱いていた。

 だが、芹の目論見はもろくも崩れる。両親が家にいなくなっても、健は一人でなんでもこなしてしまったからだ。唯一苦手だと言っていた料理でさえ、すぐに問題ない腕前になっていた。

「レシピ通りに作ればいいんだから、いったん慣れれば難しくはないね」

 中学時代、淡々とそう言った健に、芹は乾いた笑いしか返せなかった。

 今でもそうだ。

 健は芹の手を必要としていない。寝坊もしないから、寝室まで起こしに行くという理想的なシチュエーションも再現できない。

「お待たせ。行こうか」

 身支度をととのえた健とともに、芹は家を出る。

 まったく頼ってもらえないのは寂しい。しかし、芹には満たされている部分もあった。たとえ世話を焼けなくても、こうやって健の隣を歩けるだけでも良かったのだ。

「たけちゃん、ちょっと顔色悪いよ?」

「ん……やっぱりそうか? どうにも、起きたときから貧血っぽくて」

「たけちゃんって朝、弱くなっちゃったの? なんだか高校に入ってから、よくそうなってるよね。夜遅くまでゲームしてるから?」

「そう言うわけじゃないんだけどなぁ」

 健は首を傾げる。

 毎朝、学校に着くまでの道のり。

 それが二人きりでいられる時間だった。

 ――つい最近までは。

 気が重くなりつつも、芹は健とともにその場所までやって来た。信号のある十字路。その少し手前のガードレールに、一人の少女が腰かけていた。

 彼女はふと顔をあげ、芹と健を見つけるや、駆け足で寄ってくる。

「おっはよー! 健、芹!」

 外世観憂は今日も底抜けに明るい調子で、朝の挨拶をしてくる。

「お、おはよう、観憂さん」

 同じ学校の制服を着ている観憂に、芹は笑顔が硬くなってしまう。

 観憂は先週、芹たちの高校に転校してきたばかりだった。学年は芹や健と同じ。転入先のクラスは、健と同じ二年D組だ。

 その、転校生である観憂が、なぜか転校初日から健と親しげに話していた。それだけでも驚きなのだが、芹が健のクラスの女子から聞いた話によれば、観憂は健を一目見た瞬間に抱き付いていったらしい。

「知ってる人なの……?」

 観憂が転校してきた日の翌日、登校途中に、芹は健に意を決して尋ねた。すると健は表情一つ変えずに言った。

「この街に引っ越してきてすぐの彼女と、たまたま街なかで知り合ったんだ。まさか、学校で再会するとは思っていなかったよ」

 自分の知らないところで健が別の少女と知り合っていたことに、芹はしばらく声が裏返るほど動揺してしまった。

 ただの知り合いではなない。

 芹はそう考えていた。

(いきなり再会して抱き付くなんて変よ! たけちゃん、この人といったい何があったの……?)

 転校してきてすぐ、観憂は毎朝、芹と健の通学路の途中で二人を待つようになっていた。そして今日も、三人で登校することになった。

 喋るのはおもに観憂と健の二人だ。

「ねぇねぇ、健。昨日、数学の先生の出した宿題だけど、ぜんっぜん解けなかったの。あとで教えてくれない?」

「あぁ、あの問題? いいよ。数学なら僕でも教えてあげられる。放課後でもいい?」

「やった! ありがとっ!」

 同じクラスの二人にしかわからない話題だ。しかも心なしか、観憂と接する健は観憂には優しげに見える。

(わたしでも教えてもらったことないのに……勉強)

 つい唇を尖らせてしまう。

 すると不意に、観憂が芹の顔を見た。

「な、なに?」

 芹が思わずたじろぐ。

 ニコニコーッと笑いながら、観憂は芹に言った。

「芹は勉強、得意なほう?」

「えっ、勉強……? 得意かって訊かれても……そんなに成績がいいわけじゃないし……あっ、でも、順位は真ん中ぐらいだから、人並み、かな」

 しどろもどろに答える。

 その芹に続いて、健が付け足した。

「芹は国語が得意だよ。現代文も古典も、僕よりもよっぽど好成績を取ってる」

「へぇー! 健よりすごいんだ!」

 観憂は芹を見つめる目を輝かせた。

「そ、そんな……すごいってわけじゃないよ!」

 芹は慌てて、両の手の平を観憂に見せた。

「国語は、ちょっとデキがいいだけなの。他の教科はたけちゃんのほうがずっと優秀で、順位で見たら、わたしなんて……」

「ふーん? 健って、国語が苦手なんだ?」

 歩きながら、観憂は健の顔を覗き込む。

「なんだか意外。健って勉強ならなんでもできるイメージだったわ」

「僕だって苦手なものぐらいあるよ。覚えればどうにかできる数学とか物理化学はいいんだけど、国語だけはどうしてもダメなんだ。あの、作者の考えを答えなさい、っていう問題は毎回間違える」

「健と芹って、そういうところで相性良さそうね」

 相性良さそう。この言葉の響きに、芹はつい「えっ」と声をあげてしまった。

「健は国語以外が得意で、芹はその国語が得意なんでしょ? だったら、お互いに教え合ったりできるじゃない」

「あぁ、言われてみれば。たしかにそうだ。芹と一緒に勉強したのって、中学生の夏休みの宿題ぐらいだったな」

 健が納得したように頷く。

 その一方で、芹は顔を赤くし、誰に言うわけでもなくぶつぶつ呟いていた。

「教え合うって、そんな! いや、理想のシチュではあるんだけど……! 勉強ができることと、相性がいいっていうのはまた別問題だし……あっ、でも一度、実際に試しにやってみるのも……! それで、勉強以外の相性も確認しあえたらなんて……なんて!」

 芹の妄言は、幸いなことに、観憂にも健にも聞こえてはいなかった。

「芹って、健の家の隣に住んでるのよね?」

「ひぇ!?」

 観憂の質問に、芹は現実に意識を引き戻された。

「あ、家……? うん、たけちゃんの隣だよ」

「いいなぁ~。わたしが健の隣に住んでたら、きっと毎日通うのに」

「ま、毎日……?」

「夜から朝まで」

「夜から朝!? 逆じゃないの!?」

 笑いもせず、どこか本気の口調で言った観憂。

 ――観憂が健の隣に住んでいたら? 夜から朝まで通い詰め。そこで犯すに違いない、過ち。高校生の男女だから。異性に興味がある年頃だから。

(ダメ! そんなの、絶対にダメ!)

 芹はぷるぷると震え、青ざめた。

 だが、当の健は冷静だった。

「せっかく隣に家があるのに、夜を僕の家で過ごすのは無駄じゃないか? 自分の家のベッドのほうが寝心地もいいだろう」

 戸惑いもせずに、健が淡々と観憂に言った。

「それに、観憂にはもうちゃんと家があるだろう」

「むぅ。それはそうなんだけどー」

 不満そうに観憂が漏らす。

(観憂さん……)

 なぜ観憂が唇を尖らせたか、芹には容易に察しがついた。しかし、幼馴染みを見れば、やはり彼はわかっていない顔つきだった。

「どうした? 僕はなにか変なことを言ったか?」

「なんでもないわ」

 ふぅ、と観憂がため息をついた。

 それからは他愛ない話ばかりした。相変わらず芹は他の二人よりも口数は少なかったが、観憂がときおり会話に混ぜようとしてくれるので、まったく退屈というわけではなかった。そういう彼女だから、芹は外世観憂という少女を嫌いというわけではなかった。

 やがて三人は学校に到着した。下駄箱で靴を履き替えたあと、教室のある階まで歩いていく。そこで、別れることになった。

「じゃあな」

「またね、芹」

 同じクラスの健と観憂が同じ教室に入っていく。

 小さく手を振って二人を見送ってから、観憂は一人で自分のクラスへ向かう。

 しょぼんと肩を落としてしまう。

(……わたしも、たけちゃんと同じクラスが良かったな)

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