嵐の後に……
大変お待たせ致しました。
「アルの言った通りだったな」
呆と窓の外を見つめていたアルは、ぽつりと落とされた呟きに視線のみを室内へと招き入れる。しかし、それが自分に向けられたものではないのだと分かると、再び視線を
外へ向けた。
「ああ、全くだ。もう少し遅かったら、嵐に巻き込まれちまうところだった」
「自分の荷物を減らして軽くしたのは正解だったな。――まぁ、かなりの強行軍にはなったが」
只の独り言だったのだろう。しかし、何気なく落とされた呟きは波紋となって部屋全体へと広がってゆく。
「でも、あんま休憩はとれねーし、飯はまっずい携食だし、かなりキツかったよな」
「鍛え方が足りねぇんじゃねぇの?」
どっと室内に笑いが起こる。それを窓越しに見つめていると、ふと懐かしい光景がアルの脳裏を過ぎった。
『鍛え方が足りん!!』
『勘弁して下さいよ……貴方が特別製なんですって!』
ガタガタと激しく揺れる窓を見つめる。まるで、その音が忌々しい声を消してくれるかの様に。
――何故、思い出すのだろうか。
ここ数年、何度も反芻され続けた声、顔……。
忘れた事など1度もなく、事あるごとに己を苛み続けてきた忌むべき記憶。
何度も何度も思い出した。そして、何度も何度も苦しんだ。――けれども、最近は特に頻繁に思い出す。
何故、と疑問に思っても、決して答えが出ることはなく。
似ている2人組に会ったせいだろうか?
――それとも……
「しかし、よく分かったな」
己の世界に沈みこんでいたアルを引き揚げた一言。一拍の後、それが自分に掛けられた言葉であると気付く。
「……別に。ある程度の天候が読めなければ、旅なんて出来ない」
窓に視線を固定したまま、アルはぽつりと呟いた。それを不快に思う者もなく、流石だなぁと感心する声を聞きながら、アルは荒れ狂う光景を見つめ続けた。
アルの予想通り、嵐は街に襲いかかった。街に足を踏み入れた頃に丁度雨が降り出し、慌てて宿で部屋をとった頃には風が激しく窓を叩き始めていた。まさに、間一髪とい
ったところだった。
恐らく明日の夕方には通り過ぎるであろうが、その激しい爪痕が彼等の帰還を妨げるであろう。
ぬかるんだ地面、川の氾濫。倒れた木々に壊れた橋。
幸い、と言うべきか、自分達は川の近くを通らない。しかし、ぬかるんだ地面や深い傷を負った山道は、通る者全てに牙を剥く。特に土砂崩れは恐ろしい。
確実に2、3日はこの街に滞在しなければならないだろう。しかし、川を渡って来る者は橋の修繕を待ってからになるので、更に時間がかかってしまう。矢張り、自分達は幸
運な方なのかもしれない。
「アル……」
再び現実へと呼び戻す声。窓越しに声の主を確認すると、その男以外の者達がいなくなっている事に気がついた。
宿で幾つかの部屋をとった。1室は自分とその男――自警団団長とで荷物の張り番を。更に2、3部屋を残りの者達に充てた。
かなりの強行軍であった為、皆疲れているのだろう。早々に部屋に戻り、恐らく今頃は夢の中へと旅立っているかもしれない。だからこそ、誰にも聞かれずに話が出来ると
いうものだ。
団長はふうと大きく息を吐くと、改まってアルに向き直る。
「……なぁ……アル……。お前はいつまで村に居るつもりだ?」
窓越しに男と視線を合わせる。
「……否、勘違いはしないでくれ。別に、早く出て行って欲しいとか思ってる訳じゃない。――寧ろ、その逆だ」
男は慌てたように言葉を紡ぐ。
「……お前は有能だ。誰よりも。――勿論、俺よりも、だ。だからこそ、この村に居て欲しいと思っている」
アルは身じろぎ1つせず、視線だけを男に滑らせる。
「我々が負った傷は深い。それでも立ち直れたのは、お前がいたからだ。お前は強い。――お前がいれば、もう2度とあのような目には合わない。……それを支えに、必死で立
て直してきたんだ」
あの悲惨な出来事は、この嵐の様なもの。激しい暴風雨が襲いかかり、木々をなぎ倒し、橋を崩落させ、土砂崩れを起こす。けれども、嵐が去ってしばらくすれば、大地は
乾き、橋は修繕され、木々は人々の肥やしとなる。
今はまだ、立ち直っている最中なのだ。
「……出て行くなとは言わん。今直ぐに出て行っても構わない。それは、お前が決める事。だがせめて、一言……前もって言って欲しい。自分勝手な我儘である事は重々承知
している。だが、今お前に出て行ってもらっては困る。皆、お前に依存しているんだ。……支えを失ってしまえば、立つ事は出来ない。」
情けない話だがな。自嘲気味に呟く。
アルは今度こそゆっくりと振り返り、男と向き合った。
「俺はあの村を出て行く。だが、急ぐ必要もない。村が立ち直るまでなら――ほんの、わずかな間なら……居ても構わない」
「そ……そうか!それは有り難い!!」
男はほっとしたように顔を綻ばせた。
アルはそれをどこか冷めた瞳で見つめていた。
――何て、楽観的で 愚かしいのだろうか。
自分さえいれば?――そんな事はない。
喩え外的要因がほんの少しばかり減ったところで危険である事には変わりなく、あの不幸な出来事を、なかった事には出来ないのだ。
不幸だ何だと騒いだところで、正直アルには同情をする気すら起きない。大陸中を旅してきたアルは知っている。家も友も家族も親類も恋人も――全てを奪われた人々を。
過酷な労働を強いられ、人としての生すらも奪われた人々を。
正直、アルゴ村を襲った悲劇は悲劇とすら言えぬ程に軽く、例えるなら犬に噛まれた様なもの。彼等は狼の存在を知らず、犬に噛まれた事で大げさに騒いでいるだけなのだ
。
犬に噛まれ大騒ぎをし、自分さえいればもう2度と危ない目には合わぬと楽観視し、警戒すらも怠り……傍から見て、これほど滑稽な事があろうか。
――しかし。
『……俺たちは、生きている――いつまでも……過去に捕らわれ、未来を捨てる訳にはいかないんだ』
真っ直ぐな瞳を思いだす。
アルは只のきっかけに過ぎない。人はきっかけなくしては動けないのだから。
喩えどれ程滑稽であろうとも、彼等は確かに生きて、そして困難を乗り越えようとしているのだ。
――ならば、自分はどうなのだろうか。
彼が――友が死んでしまってから、自分は何をしていたのだろう?
世界に色を見いだせず、生きる理由すら分からず。
彼と共に、自分も死んでしまった。
――いいや、違う。
自分は元から生きてなどいない。
只、彼があまりにも自然だから――彼が、自分を人として扱っていたから、自分は人間であると錯覚をしていただけ――
己を人たらしめていた友は死んだ。だから、自分は人形に――道具に戻った。
――只、それだけなのだ。
『過去に捕らわれ、未来を捨てる訳にはいかないんだ』
ならば、過去に捕らわれ、未来を――現在すらも捨ててしまった自分は――?
彼らは強い。自分なんかより、何倍も。
ガタガタと揺れる窓を見つめる。荒れ狂うのは外ばかりではない。
アルの心は色々な感情が入り乱れ、決壊寸前であった。
全てが破壊されつくした後、残るものは何であろうか?
そして、嵐は過ぎる。
何が壊れ、何が残るのか――それを知る術はなく。
しかし、運命の足音は刻一刻と近付いて来ていた。