月夜の焼き栗
短編 「鏡の中の機械」
の続編です!
侯爵令嬢の桃羽が、幾百もの宮灯の光を浴びながら、上座の少女帝から遠く離れた、定められた席に張り詰めた面持ちで座っていた。
目の前には、透き通るような水晶餃子や、大輪の牡丹を模した冷菜の盛り合わせが、綺麗に並んでいた。
しかし、最高級の鹿肉の煮込みは、冷気の中ですっかり脂が白く固まり、せっかくの燕窩のスープからも湯気は一切立ち上っていなかった。
左手の広い袖で美しく口元を隠しながら、右手の箸で、冷えて固まった脂の浮く肉料理を、崩さぬよう優雅に一切れだけ挟み持った。
音を立てずに極めて小さく口を動かし、味わう余裕もないまま喉へ流し込んだ。冷えた肉の脂が舌にべったりと貼りつき、味など感じる余地は全くなかった。
淑やかさをまとい、気配を消し、微笑みを湛える。
幼き日、母に刻みつけられた振る舞いだ。
絹布でそっと唇の端を押さえ、口紅が乱れていないかを確認すると、何事もなかったかのように再び静座の姿勢に戻った。
その完璧な所作は、侯爵家の名に恥じぬ教養の証であった。
周囲の令嬢に微笑みを返しながら、桃羽は、冷えた水晶餃子を黙って見ていた。
(……やはり、宮中の御膳は氷のように冷めきっている。けれど、ここで不満な顔を見せるわけにはいかないわ)
幾百もの宮灯が昼間のように大殿を照らし、重厚な宮廷音楽が地を揺らすように鳴り響いている。
少女帝の御膳卓には龍の彫刻が施された銀の器が、何十品と厳かに並べられていた。
少女帝は、刺繍の固い礼服に身をこわばらせ、じっと座っているのだ。
桃羽と同い年のはずの少女帝は、御膳の料理を、箸の先でほんの僅かに摘まんでいた。
機械のような微笑みを浮かべて。
(陛下も……)
そう思った時、少女帝の視線が桃羽と交差した。
それはほんの一瞬であったが、深く胸に焼きついた。
◇
緊迫した大殿の宴とは異なり、御花園の東屋は、花の香りと華やかさに包まれていた。
少女帝の身にまとっているのは、先ほどまでの、金糸の重い礼服とは似ても似つかない、少しだけ仕立ての柔らかい綾の衣で、どことなく表情が和らいでいる。
招かれたのは、桃羽だけだった。
桃羽は、緊張のあまり姿勢を正したまま固まっていた。
女官長たちがきびきびと茶器を並べる間、桃羽は、息をするのも忘れて東屋の脇で立ち尽くしていた。
やがて、厳しい女官長たちが静かに下がり、いなくなるのを見届けた少女帝が、ふぅ、と大きく息を吐き、几に突っ伏した。
「へ、陛下!?」
「……疲れた」
桃羽は、はっとした。
そこへ、先ほど下がった侍女たちが、人目を忍ぶようにして小さな漆盆を運んできた。
「陛下、お待たせいたしました」
侍女たちが持ってきたのは、宮廷の厳しい料理人が作った飾り料理ではなく、厨房の片隅で焼かせた、出来立てでアツアツの焼き栗。それに、満月のように丸く焼かれた、蜂蜜入りの甘い木の実の点心。
「これだ、これが食べたかったのだ!」
少女帝は小さな手で栗を掴むと、袖で口元を隠す作法も忘れ、小さな口いっぱいに頬張って笑った。
「あつっ、あつい、うまい!」
少女帝は宴の時とはまるで違って、人そのものだった。
ひとりの無邪気な少女に戻って楽しむ姿に、周囲の侍女たちも穏やかな笑顔を見せていた。
「ここには口やかましい大臣もおらぬ。早く座って冷めぬうちに、遠慮なく食すがよい」
少女帝のその言葉に、桃羽の張り詰めていた肩から、ようやく力が抜けた。
席に座り、ためらいながら栗を手に取ると、じんわりとした熱が掌に広がる。
殻を割ると、白い湯気が静かに立ちのぼり、甘く香ばしい匂いがあたりに満ちた。
ひと口かじる――味が、する。
手のひらにのせた栗のぬくもりが、そのまま心に染み込むようで、宮中にいることを忘れさせるほど、優しく温かい味がした。涙が静かに込み上げるような感覚に包まれた。
(陛下!私も、これが食べたかった!)
宴のあいだ、ずっとそう思っていた。
大臣たちの鋭い視線が行き交う中、桃羽はただ、少女帝への忠誠を示す飾りとして並べられた冷たい料理を前に、背筋を伸ばし続けるしかなかったのだ。
いくつ目かの栗。
知らないうちに桃羽は、少女帝と同じように、頬いっぱいに栗を詰め込んでいた。
ふと、東屋の向こうの空を見上げる。
仰ぎ見た天には、非の打ち所のない真円を描いた満月が、圧倒的な存在感で君臨していた。
(お月さまも応援してくれてるよ。大丈夫、言ってごらん)
桃羽は、口の中の栗をすっかり飲み下し、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「……あの、陛下」
「ん?」
少女帝が、甘い木の実の点心を取ろうとした手をふと止めた。
透き通るような瞳だった。その奥に揺れる光は、まるで長い時間をかけて磨かれた湖面のようだった。
「つ、月が……きれいですね」
言ってしまってから、桃羽は凍りついた。
(……何を言っているの、私)
言いたかったことは、もっと別にあったはずなのに。
けれど、それが何だったのか、今となっては自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥にあった何かを、月の明るさに紛らわせるようにして、そんな言葉が口からこぼれた。
顔から火が出そうだった。
少女帝は思わず目を丸くして、その後、夜空へと視線を向けた。
「……ほう、良い満月じゃな」
それから、そっと桃羽に向かって微笑んだ。
「そなた、栗を美味しそうに食べていたではないか」
桃羽は、思わず頬に手をやった。
「宴で、そなただけが、余と同じ顔をしておったぞ」
桃羽は、はっと息を呑んだ。
あの一瞬の視線。
あれは、ただ偶然に目が合ったのではなかった。
桃羽の内心をこの少女帝は見ていたのだ。
胸の奥が、じんと熱くなる。
(気づいておられた……)
言葉にしたのは、月のことだけなのに。
桃羽は声にならない返事をし、こくりと小さく頷いた。
「あはは。なら、来年の月見も、ここで栗や木の実を食おうぞ。良いな」
少女帝は、茶目っ気たっぷりに笑った。
桃羽は、涙のにじんだ目で、そっと笑った。
二人の少女は顔を見合わせて、栗や木の実を食べながら声をひそめて笑い合う。
侍女たちの温かな眼差しに包まれながら、満月が、栗や木の実を頬張る二人を静かに照らしていた。




