5.違反行為
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第44条
甲が乙に対して次の各項に定める違反行為のいずれかを行った場合、乙の申し出によりこの婚約は契約時に遡って無効となる。
1 暴力をふるう
2 乙以外の女性と懇意になり、乙を蔑ろにする
3 第三者の目から見て明らかに甲に誠意がないと判断される行為を長期的に行う
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二人はそれを見てしばらく固まっていた。が、先に口を開いたのはマークだった。
「なあ、この暴力をふるうというのに、頬を引っ叩く行為は含まれるだろうか?」
「あー......そう、ですね。一般的に言うならば、えーと……、間違いなく、そうでしょうね」
「ふむ。そうだよな、暴力事件扱いで謹慎中だもんな、僕、今」
契約書を持つケインの手が震えている。
マーク自身も、今になって自分がしでかしたことの意味を理解し始めていた。
「なあ」
「はい」
「乙以外の女性と懇意になる、とはどうだろう。懇意の定義とはなんだろうな」
「そう、ですね。親しくなる、とかでしょうか」
「僕はアリシアを蔑ろにしていたか?」
「ええっ!? いや、その、正直なところ、大切にしていたかと聞かれましたらそうではなかったとしか……」
二人とも表面上は普通に話を続けながらも、半分は魂が抜けたような心持ちだった。
「なあ」
「はい」
「誠意がない、というのはたとえば?」
「そう、ですね。ほら、相手に対して心から接しないことじゃないですかね。
手紙とか……あ!」
動揺していたケインは、自分の発言がマークの大失態に触れたことに気付くのが遅れた。
「手紙……そうか、そうだよな。
僕はこれまでお前に代筆ばかりさせて、もう何年もアリシアに手紙など書いたことないもんな……」
いつものように怒られるかと思いきや、マークはケインを怒らなかった。それどころか、頬を冷やしていたハンカチに目を留めている。
白いそれにはマークの『M』とアリシアの『A』が刺繍されており、真ん中をピンクの『♡』がつないでいた。
「なんだ、このハンカチは......」
「それはですね、その、アリシア様自ら刺繍をお入れになったそうで、以前たくさん届けられたものです。
マーク様には捨てろと言われたのですが、とても良い生地でしたから勝手に手拭き用としておりました。すみません」
二人の間にしばしの沈黙が続く。
「なあ」
「はい」
「遡って無効とは、どういうことだろうか?」
「マーク様とアリシア様は婚約者でもなんでもなかった、ということになりますね」
マークは決して馬鹿ではない。
名門貴族の子息らしくプライドも高いが、成績も常に上位だ。
つまり学生とは言え、契約書の条文を理解できる程度の知識は持ち合わせている。
ケインもそうだ。次代の伯爵家を支える家令となるべく教育を受けてきた。
それゆえに気付いた。
「婚約が無かったことになる、つまり資金援助も無かったことになる?」
「ええ、おそらく。もしかすると、これまでの支援金に利息をつけて返すことになるかもしれません」
傾きかけていた暮らしが持ち直したのは、いつ頃だったか。
マークはそこに思いを馳せた。
「なあ、まだ何とかなるよな? だってあいつは僕にベタ惚れだったじゃないか……よし、まずはアリシアに謝ろう。僕から歩み寄れば、あいつだって考え直すに決まっている」
白いハンカチを握りしめ、マークはそう決意して立ち上がる。
ケインは、若き未来の当主が心を入れ替えた瞬間を目のあたりにして、希望を抱かずにはいられなかった。




