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第六話 葛藤

 


 

 「美春様!」

 急に手首を掴まれ、体が反転する。振り返るとそこには美春を追いかけてきたリヒトがいた。

 息が荒くなっている美春とは対照的に、リヒトの呼吸は落ち着いていた。元々運動神経は良い美春だが、さすがに毎日激しい訓練をしているリヒトと比べると体力の差は歴然としていた。

「美春様、いきなりその場から駆け出す、と言うのは、その、失礼に値します。この世界では」

 叱る事に慣れていないリヒトはたどたどしく、美春を傷つけないように優しく諭すように注意する。その事がすぐに分かって、美春は余計に申し訳なさが増してきた。

「うん、ごめん。ちょっと……なんか馬鹿みたいで、私」

「美春様……?」

 俯いた美春の表情はリヒトからは見えない。しかし、今目の前にいる大切な主が傷ついていることはその声音から容易に推測できた。美しく艶めく黒髪からは、濁った水が滴り落ち、床に染みを作っていく。その染みは間違いなく美春の心をも浸食していっていた。

「私、どうしてこの世界に呼ばれたんだろう? 后候補なんていらないじゃない。だって、候補ですらないんだから」

 温かな家に戻りたい。

 つい最近までは当たり前にあった美春の存在できる場所。学校や友達、今まで築き上げてきたもの全て。この世界のくだらない儀式のせいで台無しにされたのである。おまけに水を浴びせられ、先ほどから手の震えが止まらない。寒さからなのか、心の奥底から湧きあがるどうしようもない感情からなのか、もう美春には分からなかった。

「……美春様、俺は、その」

 美春の疑問に対する答えを見つけることができなかったリヒトは、唇を噛みしめて下を向いてしまう。

 儀式のため、そんな答えを美春は聞きたい訳ではないのだろう。しかし、美春が呼ばれた明確な答えは、一つだけ。儀式のためこの世界に呼び出された。ただ、それだけなのである。

「ごめんね、こんな話リヒトにしても困るだけなのにね。なんか最近どうもマイナス思考で駄目だね、私。この世界に呼ばれたおかげで生きていられるのに。元の世界に戻ることもできない。戻ってももう死んでるんだから、なんの意味もない。……そんなこと、分かってるんだけどね」

 頭と心は、必ずしも一体ではない。分かっていても、真に受け入れることは難しかった。

 この世界で生きていくこと。目の前に広がる道は無限なのか、一つしかないのかそれすらも見えない。美春は途方にくれていた。

 今はまだいい。后候補として生きればいいのだ。じゃあ、その次は。后候補でなくなったあと、何して生きていけばいいのだろう。悠々自適に城の片隅で暮らすこともできるだろう、町に降りてこの世界で言う普通の人生を送ることもできるだろう。しかし、そのどれもが美春にとっては非現実的なままだった。

 自分の生きる道。それはどこにあるのだろう。美春は言いようのない不安に駆られて、自分で自分の身体を抱きしめる。

 参った、今日の自分は本当にどうかしている。

 今にも泣き出しそうな美春を見、リヒトはその小さな体を抱きしめたい衝動に駆られたが、僅かに残った理性を必死にかき集め、美春の肩を軽くさする程度に留めた。

「美春様、部屋に戻って、湯船につかりましょう。貴方は今、ひどく疲れているようです」

「うん、そうかもしれないね。ごめんねリヒト」

「いえ、謝るのは俺の方です。今回のことは美春様を守れなかった俺の責任です」

「何言ってるの! リヒトのせいじゃないよ。それに、誰だって水が上から降ってくるなんて思わないでしょ?」

「いえ、おそらく熟練の騎士であれば上空の殺気にも気づけるはずです。やはり俺はまだまだ修行が足りないようです」

「そういうもんかなー、リヒトは十分修行してるみたいだけど」

「修行に十分、と言うものはないんですよ、美春様。さあ、帰りましょう」

 リヒトの言葉に素直に頷き、美春は歩き始めた。



 頭と心は必ずしも一体ではない。

 けれども。

 一体にしなければ辛くなるだけなのだ。

 現実を受け入れる覚悟と、現状を破壊する何かが、美春には必要だった。



 











 「ディー兄様、さっきの方が異世界から召喚された美春様なのですか?」

「ああ」

「……どうしてあのような態度をとられるのです?」

「あのような、とは?」

「あんな、冷たい態度をです!」

「別に冷たい態度をとったつもりはない」

 ディートハルトは思い返す。先ほどの美春の態度を。

 常に輝いている黒曜石の瞳を見ることは出来なかった。

 珍しく顔を下に向け、その唇は寒さからか震えているように見えた。普段の勇ましさは影をひそめ、ただの弱弱しい少女に先ほどの美春は見えた。だからといって優しくしたい、などとディートハルトは思わない。ただ、いつもの威勢の良さがない美春と対面することはひどく居心地が悪く感じたのも事実であった。

(居心地が良いと思ったこともないがな)

「美春様が可哀想ですわ。あんな水を浴びせられて……! 犯人を見つけるべきですわ」

「犯人なら后候補の誰かだろう」

「……誰か、なんて分かってるでしょう。あんな性悪なことするの、コーネリアの仕業に決まってるわ!! 私にも隠れてねちねち嫌がらせをしてくるんですもの」

「コーネリアはトリキス家の娘だ。俺から直接何かをするという事は難しい。それに……」

「それに?」

「アイリシアを妬む気持ちは分かるが、あの娘に嫌がらせをする理由が意味不明だな」

「……分からないんですの、ディー兄さま?」

「分からんな、分かりたくもない。女の考えることなど」

 ディートハルトの銀の瞳が僅かに伏せられる。

 竜族であり、竜王である美しいディートハルトに言いよる女性は多い。それ故に、ディートハルトは女性と言うものを嫌悪していた。権力や外見に執着し、見え透いた嘘と媚を売ってくる女たち。不幸なことに、ディートハルトの周囲に集まる女性はそんな輩が多かった。

「ディー兄様、私も一応女、ですわよ」

「ふん、お前が女のうちに入るか! 女は夜中に一人で抜け出したりしない。お前につける竜騎士の数を増やすことを考えねばならんようだな」

「えっ! お願い、ディー兄様、私もうこんなことしないから。それに竜騎士はセシカ一人で十分ですわ!」



「そう言っていただけて嬉しいわ、アイリシア様」



 突然響いた女性の声に、アイリシアははっと身を固くする。そして恐る恐る振り返るとそこには声の主である美しい女性が立っていた。年のころは二十代前半であろうか。赤茶色の腰まで届く長い髪を無造作に結び、瞳は鋭い光を放っている。微笑めば世の男性が放っておかない美貌のはずなのに、全身にまとう厳格な雰囲気が全ての男性を遠ざけている。もちろん遠ざける理由の一つに、腰にさした剣も挙げられるだろう。

 セシカ・トキア。

 アイリシアの護衛の竜騎士であり、女性でありながら剣の腕は竜騎士団でもトップの部類に入る。

「セシカ……」

「私がいない時を狙って部屋から抜け出すとは、護衛の騎士が可哀想だとは思わない? 遠まわしに能なしだと彼らに告げているようなものね」

 アイリシアに向けられた言葉ではないはずなのに、セシカの言葉は的確にアイリシアの心を抉る。

「ごめんなさい、私、その、最近ずっと部屋にいたから飽きちゃって」

「何故部屋にいたのか? その答えをアイリシア様は忘れたのかしら? 高熱が続いたから部屋に籠っていたと言うのに、十分治りきらない内に外に出るなんて……后候補が聞いて呆れるわ」

 到底主に向けられているとは思えない言葉の数々だが、アイリシアとセシカの間ではこれが当たり前になっていた。もちろんセシカもディートハルト以外の者の前では分をわきまえた態度をとるが、ディートハルトしか傍にいないこの場で、セシカの口を塞ぐ者はいなかった。

「セシカ、すまんがアイリシアを送っていってくれ。くれぐれも目を離さないようにな」

「ええ、任せてください、ディートハルト様。アイリシア様、帰るわよ」

「う、うん……」

 大人しく部屋に歩き始めたアイリシアを見て、ディートハルトは深いため息を残しその場から去った。

 遠ざかるディートハルトの背中を見ながら、アイリシアは軽いため息をつく。

「ディー兄様って、誰かを愛せるのかしら」

「無理でしょう」

 間髪を容れずに答えたセシカの態度に、アイリシアは思わず笑ってしまう。

「あの男は表面だけで女と接してやり過ごそうとしてるのが見え見えよ。まあ、いつか痛い目に合えばいいわ。と言うか、アイリシア様、一応あの男はアイリシア様を愛してることになってるんじゃない?」

「ディー兄様は私を守ってくれるけど、愛してはくれないわ」

 そう、これは愛ではない。

 それよりももっと歪で厄介な、同族としての絆。二人を結ぶものはそれだけなのである。

 おそらくアイリシアが竜族でなければ、お互いに目を合わすこともなかっただろう。

 それだけの絆なのである。

 大きな銀の瞳を苦しそうに伏せたアイリシアを見て、セシカは優しくアイリシアの背中をさすった。

「アイリシア様、風邪をひく前に早く部屋にもどりましょ。愛だのなんだの語る前に、お子様は早く寝ないといけないわ」

 お子様、と言うセシカの言葉に頬を膨らませたアイリシアを見て、セシカは満足そうにほほ笑む。

 ディートハルトなどには絶対に嫁にやりたくはない。だから、新しくやって来た異界の少女が后になってはくれないだろうかと、セシカは淡い希望を抱いていたのだった。








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