第五話 存在理由
窓の外には抜けるような青空が広がっている。
眼下には城下の街並みが見え、石や煉瓦でできた屋根が並んでいた。さすがに街道を歩く人の姿までは捉えることはできないが、週に一度、中央街道と竜の広場で開かれる竜の市は毎回大盛況らしい。様々な種類の出店が並ぶと言う竜の市に美春も一度は行ってみたいと思っているのだが、この城内から外に未だ出たことがなかった。
竜の国に美春がやってきて、一週間が経過していた。
その間美春は后候補に必要な后教育を自室で一日中受けていたのであった。内容はマナーに始まりダンスやこの世界の常識、国政、文化など多岐に及んだ。そのため美春もこの一週間で大体この世界の事を把握できていたが、それは全て机上でのことであった。
竜の国にいると言うのに、竜の姿を見てもいない。リヒトが竜舎に連れて行ってくれると約束してくれたものの、美春の予定は一日中詰まっていた。正直そろそろ精神的な限界が近い。
特に美春にとって苦痛であったのが、竜王、ディートハルトの訪問であった。
后候補に均等に訪れなくてはいけない、という掟をディートハルトは律義に守り、一日に二、三人の后候補の元を訪れているようだった。もちろん忙しい時は訪問もないが、美春の元へもすでに二度訪れているところを見ると、現在はそこまで忙しくはないのかもしれない。
ディートハルトは嫌々やってきたという態度を全面に押し出し、美春の元を訪れる。それに対抗して美春もあんたなんて大っ嫌いです、といった視線をディートハルトに投げかけるのであった。二人の間に会話などないに等しい。社交辞令の挨拶が終わると、五分も経たぬうちにディートハルトは退出する。
そして、その後はエナからの地獄の説教タイムが始まるのであった。
美春が窓の外を眺めている現在も、その説教は継続していた。
「どうして美春がそんなにディートハルト様を嫌うのか、私にはまったく分かりませんわ! 容姿も美しいですし、中身だってそんなに悪い噂をお聞きしませんわ。確かに少々気性が荒い一面もありますけれど、他の后候補の方々には優しく接しているそうですよ! 美春、あなたの態度がディートハルト様をあんな風にしているんじゃなくって?」
「ディートハルトは会った瞬間からあんな態度だったけど」
「ディートハルト様、ですわよ美春」
エナは美春のディートハルトに対する態度が信じられないらしいが、美春からすればエナの言い分の方が信じられなかった。そもそも、美春は后など興味ない。この国でひっそりと平凡に生きていけたらと思っているのだ。
「ねえエナ。何度も言うけど私は后になりたくないの。それにディートハルト……様のことも別に好きじゃないし。……こんな話よりも、エナ。私城の外に出てみたいんだけど。一日中室内は息がつまるよ。城内も気分良く散歩できないしさ」
城内の散歩を美春は始めのころよくしていた。中庭などは美しい花々が咲き誇り、美春の心をいやしてくれるのだ。しかし、城内で后候補たちの女官とすれ違うたびに、女官たちは美春に嫌悪の眼差しを向けてくるのであった。理由はおそらく最初のお茶会だ。あのとき美春とディートハルトは、傍から見ると熱く見つめ合っているように見えたらしい。特にコーネリアからの嫌がらせは群を抜いてひどく、花に水をあげるふりをして美春に水をぶっかけてきたコーネリア付きの女官もいたくらいであった。あのときはリヒトが傍にいたため、リヒトが美春をかばったので濡れなくてすんだが、美春の扱いにリヒトは憤慨していた。
そんなことがあってから、美春は城内を出歩くのも控えていたのである。
「竜の市に行ってみたいなー。それに竜舎にもまだ行けてないし」
「竜舎については近々可能ですけれど、竜の市の方は難しいですわ。あの市は人が大勢集まるので護衛も難しく、危険が増しますわ」
「竜舎に行けるの!?」
竜の市のことについては残念だが、竜舎に行ける、というエナの言葉に美春は一気に気分が高揚した。
そんな美春を見てエナは口元に手をあてて苦笑する。
「竜舎は本来は后候補が行くような場所ではないのですよ。けれどクリス様にリヒト様がお願いしてくれたそうですわ。あとでお二人にお礼を言うことをおすすめしますわ」
「うん! すごく楽しみ!」
美春は久しぶりに満面の笑みを浮かべた。
「お礼言いたいなー。リヒトはまた夕方頃に来るだろうけど、クリス様はいつもどこにいるの?」
「クリス様は大体神殿にいらっしゃいますわ。そこにいないときはディートハルト様の執務室で政の話しをしていると思いますけれど」
「今行っても大丈夫かな? 仕事の邪魔かなー」
「昼の休息時間ですけれど、クリス様のことですわ、きっとお忙しいでしょうね。それに、城内を一人で行かれるのは私は賛成しません」
エナの言いたいことをまとめると、部屋からでるな、と言うことであった。
美春はエナの言葉に殊勝に頷き、分かったとだけ小さく頷いたのであった。もちろん、美春は納得はしていなかった。
夕方頃になると、リヒトは竜騎士の訓練を終え美春の元にやってくる。それと入れ替わるかのように、エナは部屋ではできない女官の仕事をするために部屋からいなくなる。
「リヒト、今日もお疲れ様ー」
朝会った時よりも疲れた顔のリヒトの様子から、竜騎士の訓練の激しさを垣間見る。たまに擦り傷なども作ってくるときがあり、そのたびに美春は心配して包帯を巻こうとするのだが、リヒトは断固拒否していた。美春様に包帯を巻いてもらうなど恐れ多い、と言う事らしい。
「ありがとうございます。竜舎の話はエナからお聞きになりましたか?」
「うん! お昼頃に聞いたよ!」
最近暗い表情の多かった美春の笑顔に、リヒトは思わず赤面してしまう。
「あ、ならいいのですが。その、明日行ってもいいことになったので、朝から行こうと思っているのですが大丈夫ですか? クリス様からは后候補の講義も明日は休みにする、といった許可をもらいました」
「本当に! すごく嬉しい! クリス様にもお礼言わないといけないなー」
「俺から伝えておきますよ」
「うーん、でも自分の口から伝えたいんだよね」
もうすぐ日も暮れる。この時間ならクリスも仕事が終わりかけなのではないだろうかと、美春は考えた。
「ねえ、今からクリス様のところに行こうと思うんだけど……いい?」
「今から……ですか?」
美春の言葉にリヒトは眉をひそめた。もうすぐ夜が訪れる時間に、女性が男性の元を訪ねるべきではないが……。
「うん、駄目かな?」
美春はリヒトの顔色を恐る恐る伺う。下からリヒトを見上げるために、美春は自然と上目づかいになってしまっていた。黒曜石のように輝く美春の瞳に見つめられ、リヒト頬は赤く染まっていく。
「お礼を言うだけなら、お供しますよ」
「ありがとう、リヒト!」
この一週間を通して、美春のお願いにノーとは言えないリヒトであった。
城内の白い壁は赤く染まり、廊下を行き交う人々は夕餉の準備のためか、慌ただしく歩きまわっていた。
クリスのいる神殿までは中庭を突っ切り、美春のいつもいる棟とは違う棟に行かなければならなかった。別棟を通り抜けたところに神殿は建っており、その神殿の奥に命の間、美春の出てきた場所があるのだ。
夕餉までには部屋に戻らないとエナに怒られる、美春はその思いから知らずに速足になっていた。いつもなら堪能する中庭の花々も、今日は無視して庭を突っ切る。
「美春様、そんなに急ぐとこけますよ」
「子どもじゃないんだから大丈夫よ」
リヒトは過保護すぎるのだ。一体美春の事を何歳と思っているのだろう。今度問い質してやらないといけないと、美春が考えていたときであった。
「美春様!」
リヒトの声と同時に、浴びせられる大量の水。
一瞬、美春は雨でも降っているのかと思った。
何故ならその水は頭上から落ちてきたのだ。
突然のことに、美春は驚き水が口の中に入り込んでしまう。口腔内に広がる苦みに、美春はせき込みながら水が降ってきた方向を見上げた。そこには開いた窓があるだけで、人の姿を見つけることはできなかった。
もしこれが水ではなく、何か重たい物だったとしたら……そう考えただけで美春は寒気を感じたと同時に、二回続けてくしゃみをしてしまう。
「美春様、大丈夫ですか!?」
「まあ……!」
自分のマントを脱ぎ差し出してくるリヒトの心配する声と、可憐な少女の声が重なった。
突然現れた第三者に、リヒトは警戒心を露わに剣に手をかけた。しかし、声の主の姿を確認するとリヒトは瞬時にその場に片膝をつき深い礼をした。
リヒトのその態度に美春は今目の前にいる少女が、偉い立場にいる人なのだと認識する。
銀糸のように細く美しい長い髪は、少女の細い背の上を滑るように波打ち、瞳自身が輝きを放っているのではないかと錯覚をおこすほど綺麗な銀の瞳は、驚きのため丸く開かれていた。美しく、そして可憐な少女であった。
少女、と言っても年は美春と同じか少し下くらいにみえるが、少女全体を覆うあどけなさが少女の印象を幼くさせていた。
「頭を上げてください竜騎士さん、私に対する礼よりも貴方の主人を優先してください」
「は、もったいないお言葉ありがとうございます」
リヒトは少女の言葉に急いで美春をマントで包みこんだ。先ほどまでリヒトが着ていたマントは温かく、美春はなんとか震える体を落ち着かすことが出来た。降ってきた水は綺麗な水とは言えず、泥の混じった水であった。そのため美春の身体は全身が茶色く汚れていた。正直、今この美しい少女の前にいることが恥ずかしかった。
この少女が何者なのか分からないが、早く立ち去ってくれないだろうかと美春は心から願った。
しかし美春の願いは虚しく、更に最悪の事態を呼ぶことになる。
「アイリシア……! 部屋を抜け出してはいけないとあれほど言っただろう!」
「ディー兄様、そんなに大きな声を出さないでください」
現れたのは、アイリシアと呼ばれた少女と対になるような、美しい男……。
『ディートハルト』
美春は胸中でその名前をつぶやき、今目の前にある現実は必死で理解しようとした。
ディートハルトは少女をアイリシア、と呼んだ。
アイリシア、ディートハルトと同じ竜族であり、后の最有力候補だとエナが言っていた。
その事実に気付いた時、美春が一番最初に思った感情は劣等感であった。
最有力候補のアイリシア、一体どのような女性なのだろうと思っていた。おそらくコーネリアのように傲慢なお姫様なのだろうと、勝手に勘違いしていた。しかし、今美春の眼に映るアイリシアは、おとぎ話のお姫様が絵本から抜け出てきたような存在であった。その隣にはアイリシアを心から心配しているディートハルトの姿。
それは、美春が今まで見たことのないディートハルトの表情で、嘘いつわりのない優しさにあふれる風姿であった。
「私の事よりもこちらの女性を心配してください。こんなに汚れてしまって……」
アイリシアの言葉を聞き、ディートハルトは今気付いたとばかりに美春の方に目をやった。先ほどまで穏やかな光に満たされていたディートハルトの瞳に鋭い光が宿る。
美春はディートハルトの視線から逃れるように顔を下に向けた。今の汚れた姿を見られるのは屈辱であった。自然と目に涙が浮かんできそうになるのを必死に堪えた。
「早く湯殿に入らないと風邪をひいてしまいますわ」
女官にお湯の用意をさせましょうというアイリシアの提案に、ディートハルトは深く息を吐いた。
「放っておけ。そんなことよりもアイリシア、いつまでも外にいるんじゃない。早く部屋に戻るぞ。体が冷えてお前が風邪でもひいたらどうするんだ!」
「そんな言い方ひどいわ!」
このまま無視すれば口喧嘩に発展しそうな二人の物言いに、美春は慌てて割って入った。
「アイリシア様、いいんです! あとは自分でできるから、リヒトもいるし、ね、リヒト」
突然話をふられたリヒトは驚き、勢いではいと頷いてしまう。
「だから放っておいていいんです。私の事は気にしないで、もう部屋に帰るので。リヒト、行こう」
リヒトの手を掴み美春は軽く一礼して身を翻した。
後ろからアイリシアの声が聞こえてきた気がしたが、気付かないふりをして駆け出す。
早く、早く。
あの場から立ち去りたかった。
『お前を選ぶつもりはない』
初めて会った時のディートハルトの言葉が改めて美春の胸に突き刺さった。
当たり前だ、あんなに愛らしい少女が傍にいるのだ。美春を選ぶはずなどないだろう。
でも、でも、それなら、どうして。
私はこの世界に呼ばれたのだろう?