第十八話 交錯3
竜舎からはもうもうと白煙が上がり、あたりは物の焦げた臭いで充満していた。肝心の炎が外からは見えないが、肌にちりちりと刺す熱気が美春にまで届いてくる。
燃えているのは、第一竜舎であった。騎士達のペアが暮らす場所である。それに気付いた瞬間、リヒトの表情にさっと陰りがさした。竜騎士にとっての竜は大切なパートナーであり、一生を共にするかけがえのない存在であった。おそらく、傍に美春がいなければリヒトは竜舎へと駆け寄っていた事であろう。
竜舎の周囲では怒号が行き交い、竜達の咆哮が鳴りやまない。意味を成さない竜達の叫び声は悲哀と怒りに溢れており、混乱して暴れている竜も数頭存在した。
「リヒト! お前の竜が暴れてる! どうにかしやがれっ」
大声で周囲の騎士達に指示をしていたダグラスがこちらに気づき、リヒトの方へとずかずか歩み寄ってくる。その鋭い瞳が美春を捉えたと思うと大きく見開いた。
「美春様がどうしてここにいる……! リヒト、どう言う事か分かってるのか」
リヒトを叱咤しようとするダグラスを美春が遮る。
「私が無理に来たの。リヒトは悪くない」
それに続けた言葉は、ダグラスに届くか届かないかほどの声量であった。
「私なら、聞こえるから」
竜舎に近づく毎に竜達の声は大きくなっていく。美春の頭の中に直接届くその声は、混乱のためか言葉にはならず感情だけ伝わってくる。熱い、怖い、憎い。負の感情が美春に大きくのしかかり、そのまま気を失いたくなる。けれど、それではここに来た意味がない。美春はしっかり足の裏で地面を踏み締めて、倒れないように真っ直ぐ前を向いた。
「リヒトの竜はどこにいるの?」
逆らいようのない強い声に、ダグラスは一瞬たじろぐ。
肩にかかるほどの美春の黒い髪は熱風でなびき、なめらかな白い頬は煤で汚れてしまっている。けれど、彼女の黒い瞳は濁ることなく強い意志を抱いていた。
騎士団長である自分がまさか気圧されるとは……ダグラスは苦笑する。
「竜はあそこにいる。リヒト、分かってはいるだろうが……」
「言われなくても分かってます」
終わりまで言葉を聞かなくてもリヒトには分かっていた。美春を守る事、それが最優先事項だと言う事は。
美春だけはきょとんとした表情を一瞬見せたが、事態が事態だ。追求する時間もなく、ダグラスが示した方へと足を向ける。
リヒトの竜は、鈍色の鱗にペアのリヒトと同じ紫の瞳を持った幼い竜であった。
混乱しているためか、翼をはためかせ近くに人を寄せ付けようとしていない。翼によっておこる風圧は周囲の音をもかき消しているようで、リヒトの声がなかなか竜まで届かない。
『アツイのはイヤ、コワイ、コワイ』
火を遠ざけようと必死に翼で風を起こしているようである。
「リヒト、竜の名前はなんていうの?」
「レイロンですけど……?」
竜達の声は美春の耳ではなく、脳に届くものである。なら、その逆もできるのではないだろうか。
美春は必死に心の中でレイロンへと呼びかけた。
『レイロン、レイロン、聞こえる?』
声が聞こえたのか、レイロンの翼の動きが鈍くなっていく。同時に、周囲の竜達にもそれは伝染していき、徐々に落ち着きを取り戻していっていた。どうやら美春は上手く声がコントロールできず、周囲の竜にも語りかけてしまっているようだ。しかし、構うことなく美春は続けた。
『火はあなたのそばにはもうないよ。大丈夫。リヒトもここにいる』
レイロンの視界にリヒトがようやく映る。リヒトが安心させるように頷くと、レイロンは広げていた翼を静かに畳んだ。
『この声は、イノチビトだ』
始まりは、どの竜であったか。
美春がイノチビトだと気付いた竜達は次々と首を垂れていく。今まで興奮していた竜達が一様に大人しくなっていくのを、騎士達は驚愕して見つめていた。
事情が分かっているリヒトは、美春にそっと耳打ちする。
「美春様の力ですよね。おかげでレイロンに怪我をさせなくてすみました、他の竜達も。ありがとうございます」
「ううん、いいの。これが私の役目だからね。それよりも……」
美春に届いてくるたくさんの竜の声。以前は音の集合体が一気に集まり処理しきれず気を失ってしまったが、今は違った。聞きたい情報、聞きたいと思う声、それを聞きわけることが出来るようになっていたのだ。
「竜舎にまだ竜が取り残されてる。助けなきゃ!」
竜達によると一頭だけ、竜舎の奥に残っているものがいると言う。
今にも駆け出してしまいそうな美春の手首を、リヒトが慌てて掴む。
「美春様、駄目です! 竜舎の中はもう火が回って……」
瞬間、大きな爆発音がリヒトの言葉をかき消す。同時に強い熱風が吹き込み、美春は思わず倒れそうになるが、リヒトが手を握ってくれていたおかげで何とか持ちこたえた。
先ほどまでは白い煙が上がっていた竜舎が、今度は黒煙とともに猛々しい炎をあげ燃えていた。爆発は竜舎の奥の方で起こったようだが、竜舎は崩れかかっている。このままだと崩壊するのは時間の問題だろう。
「リヒト、手を離して!」
「こればっかりは美春様の命令は聞けません!」
非力な美春の手と、日々鍛錬している騎士の手。最初から勝負にならない事は分かっていた。力で勝負するなど馬鹿げている。
「リヒトの馬鹿! 大嫌い!」
「なっ」
嫌い、と言われリヒトは一瞬凍りついた。その隙に美春が思いっきり足をけり上げる。美春の細く白い足は、リヒトの大切な急所に見事命中した。リヒトは声にならない悲鳴をあげて、その場に倒れこむ。
美春は心の中で謝りながら、竜舎へと向かう。
現代社会で得た知識をもとに、傍にあった火消し用の水を頭からかぶり、美春は竜舎の中へと消えて行った。
竜舎の中は煙が立ち込めており、天井付近は灰色の煙で何も見えなくなっていた。美春は重心を落とし、出来るだけ床に近づいて歩きだす。まさかこんな所で学校の避難訓練が役に立つとは思っていなかった。火事に出くわすと知っていたら、もう少し真剣に訓練を受けていたのにと、美春は己の学校生活を振り返り後悔する。しかし、誰が異世界で火事に合うと思うだろう。
美春は濡れた服の袖を口元にあてて、できるだけ煙を吸い込まないように前に進む。それでも煙は目に沁みこみ、自然と涙がたまりだす。次第に方向感覚は失われ、どちらが入り口なのか分からなくなっていく。美春は心の奥から湧きあがってくる恐怖を必死に抑えつけながら、竜へと語り続けた。
『どこにいるの? お願い、答えて』
煙の合間からは赤い炎が見え始める。側壁が燃えているのだ。
髪の毛の先が熱で溶けだしそうなほど、火を間近に感じる。空気がどんどん薄くなり、思考に靄がかかりはじめた時だった。
『―――……』
か細い、今にも消えてしまいそうな声。声と言うよりもそれはもう吐息に近いものであった。けれど、確かに助けを呼ぶ声が美春には聞こえた。
何かに急きたてられるように美春は足を動かし続ける。
そこにいるのは見ず知らずの竜だ。美春とは何の関係もない竜だ。
それなのにどうして命をかけて助けに来ているのだろうか。
引き返したい、とも思う。
助けになんてこなければよかった、とも。
けれど、美春に見捨てると言う選択肢は存在していなかった。心の深淵で、竜へとつながる糸が強く存在を主張し始めている。奥底で眠っていたイノチビトの力が徐々に産声をあげようとしていた。
つま先が、何かに躓いた。
前のめりになっていた美春はそのまま勢いよく転び、体のあちこちが床とこすれ擦傷ができる。今の姿をエナが見たら発狂するに違いない。そう思いながら美春が顔をあげると、煙の中に影が見えた。
ぼやけた思考をフル回転させて、それが竜の姿だと言う結論に遅まきながらたどり着く。
煙の向こうに浮かびあがる姿はまだ幼い竜であった。おそらく、新米竜騎士のペアなのであろう。炎に怯えて声も出せずに震えている。
檻は他の竜が壊したのか、もはやその役目をなしてはいなかった。檻の破片に気をつけながら美春は竜のそばへとたどり着く。そっと固い鱗に手を伸ばし、小さな子供をあやすようにさすった。竜は煙で目を傷めているようだったが、幸い他に外傷は見つけられない。
「もう大丈夫だよ」
竜から伝わる恐怖の感情が和らいでいくのを美春は感じた。
あとは今来た道を戻ればいいだけだ。そう思い振り返ると、黄色を帯びた白煙の壁が美春の前に立ちふさがる。気づけばどんどん煙は濃くなり、見上げると天井にまで炎の手が広がっていた。
(来た方向はどっちだっけ)
美春の頬を汗が伝い落ちていく。熱によるものなのか、焦りから来る冷汗なのかは判断できない。
とにかく移動しなきゃ、その一心で美春は竜を誘導しながら歩き始めた。竜は怯えながらも美春の後を追ってくる。人一人が乗れるのがやっとの大きさの幼い竜だ。竜に乗れたら楽なのだが、それでは美春の位置が上になり、煙の被害を被るのは目に見えていた。脆弱な自分の足を叱咤しながら、美春は一歩一歩前へと進む。
しかし、今まで蓄積された熱と煙が美春の足取りを重たくさせていた。
目が霞み、美春がバランスを崩した時であった。大きな熱量を感じ、思わず顔を上に向けた。美春の目に飛び込んできたのは、天井から剥がれ落ちた板だ。板は炎を纏いながら美春の頭上へと落ちてくる。