第十六話 交錯
「お前は私が怖くないのか?」
怖くなど、あるわけがなかった。人の何倍もあるその大きな体の中にある心が、誰よりも臆病だと、女は気付いていた。
その竜は、竜達から竜王と呼ばれていた。
この国の王は魔法大国メルニアに対抗すべく竜王を仲間にしようとしていた。
竜王に捧げられた供物は百を超え、五人の女が犠牲になった。女は全てこの国の貴族の娘であった。娘を失う事を恐れた貴族は、奴隷を差し出した。
それが、この女であった。
「怖いなど、どうして思うでしょうか。貴方の目は、とても優しい目をしていると言うのに」
お伽話の始まりであった。
ここ数日、目が覚めるとと止め処なく涙が溢れてくる。それが、近頃見る夢のせいだと美春はうすうす気づいていた。
孤独な原初の竜王に寄り添う奴隷の女。断片的に散りばめられた彼らの物語は、夢の終わりとともにほとんど忘れてしまっていた。しかし、物語は少しづつ形を成し美春の脳内に刻み込まれていく。
この竜の国に来てもうすぐ一月が経とうとしていた。
イノチビトととして何をすればいいのか、とりあえずあの小さな竜に言われた通り、真実の歴史を知ろうと美春は思っていた。そのため連日歴史書を紐解き、エナやリヒトなどからも過去の話を聞きだした。
ベッドの脇にあるナイトテーブルの上には美春が図書館から借りてきた本が数冊重なっている。美春はその中の一冊を手に取ると、栞を挟んでいたページを開く。そこには文章とともに挿絵が書かれていた。大きな竜の前に跪く一人の男。男の服装は明らかに貴族と分かるものであり、文章を読むとドーニア国の王子、と言う事が分かる。
もともとドーニアは人が治める国であった。
しかし、原初の時代、隣国のメルニアは魔法文化を発達させ大陸を支配しようと画策していた。メルニアが真っ先に支配しようとしていたのはドーニアであった。ドーニアの騎士団は大陸でも最強を誇り、名高い騎士が何人もいたと言う。けれど、その剣も魔法の前には無力であった。
ドーニアの王は魔法に対抗する手段として、竜を選んだ。ドーニアは山が多い国であり、その山には竜がひっそりと住んでいた。当時の竜は戦いには干渉せず、人と関わることもなかった。その竜の中で最も偉大で力あるものは、他の竜達からも竜王と呼ばれ畏れられていた。
むかしむかし、あるところに、竜王がくらしていました。
竜王のおおきな口からは巨大な炎がふきだし、その口元にはするどい牙がいつも光かがやいていました。
そんな竜王のまわりにはいつも何もありません。
真っ暗な世界です。
永遠ともおもえるような長い時間を、竜王はひとりですごしてきました。
あるとき。
竜王の目の前に、一人のヒトが現れました。
そのヒトと言うのがドーニアの第二王子であった。王子は様々な手段で竜王を懐柔しようとしたが、どれも上手くいかなかった。最後の手段に貴族の女たちを捧げてみたが、女たちは竜王を怖がった。窮余の策として捧げられた六人目の女は、竜王に対し畏れることなく接しつがいとなった、と記されている。
竜王はドーニアに味方し、他の竜達もそれに従った。そして、竜を仲間にしたドーニアはメルニアに勝利したのである。けれど、ドーニアはメルニアを支配することはしなかった。おそらく、魔法が失われたことと関係しているのだろう、とここでは締めくくられている。
美春は本を閉じ、元の場所に戻した。
どうにも腑に落ちないのは戦争の終わりの記述である。魔法がどのようなものか美春は知らない。いくら偉大な竜と言ってもそんなに簡単に勝利できるものなのであろうか。
図書室にある本をいくら読んでも、最も重要な戦争の終わりについては詳細が書かれていない。恐らくそこに隠された何か、があったのだろう。
「はー、埒が明かない」
この国の歴史は学べば学ぶほどよく分からない。この本に書かれていたのは恐らく国民が一般的に知っている事柄である。ディートハルトが言っていた呪いの歴史、とはまた展開が違っている。
『六人目の女は子を生み、愛する竜王と共にいた。しかし、竜族は年をとるのが遅い。人であった女は、自分だけ年老いていくのが耐えられなかった。醜くなる自分と美しいままの竜王。女は病んでいき、己と竜王を呪ったと伝えられている。呪いの方法は不明だが、当時敵国であった神聖王国メルニアが関わっているのではないか、とされてはいる』
女が呪いをかけたのは戦争中だったのではないか、と美春は思う。そうでなければ魔法がなくなった戦後、どうやって呪いをかけると言うのだろう。と、なれば、女が老いるほどの時間が必要となる。戦争は長引いたはずだ。けれど、長引いた戦争の記述はどの本にも書かれていない。また、原初の時代の歴史は年代も曖昧なものが多く、正しい年数が分からない。
考えれば考えるほど美春の思考は泥沼化してくる。
「あー、頭痛い」
美春はベッドの上から、そっと足を下ろす。毛足の長い柔らかな絨毯が冷えた足をつつみこみ気持ちが良い。一月前は過ごしやすかった気候も、気づけば寒さが増し朝晩は冷えるようになっていた。今の季節は日本で言う秋の終わりに近い。窓から見える山々や城下の街路樹は鮮やかに色づき、空の色は一層濃くなり澄み切って見えた。美春は立ち上がり小窓を開ける。室内の停滞した空気が冷たい風を受け流れ始め、美春の髪をわずかに揺らす。
城下からは早朝だと言うのに、煙突から煙が見える家が多い。さすがに竜の市は始まってはいないようだが、あちらこちらに鮮やかな色の大きな旗が掲げられている。お祭りでもあるのだろうかと、美春はもっと見えるようにと窓から顔を突き出す。
「美春! 何していますの!」
「あ、エナ、おはよう」
美春はすぐに窓から顔を引っ込め、エナに向かい笑みを浮かべる。対してエナの顔は真っ青である。
「危ない事はなさらないでください!」
「危ないことなんてしてないよ、ちょっと窓から顔出しただけ」
「窓から落ちたらどうなさるんですの!」
実際は人が落ちるような大きさの窓ではないのだが……美春はそれに対しては言及しないことにした。
「でも、エナもノックした? 全然聞こえなかったんだけど」
「しましたわ。しましたけれど返事がなかったので心配になって覗いてみたら……!」
話を逸らそうとしたが失敗したようだ。美春は慌てて窓の外を指さす。
「あ、エナ、あの旗はなに?」
「旗?」
エナの声にはまだ怒りが含まれているが、渋々美春の指さした方を見やる。
「あれは豊饒祭の旗ですわ」
「豊饒祭?」
「作物の実りを祝い、これからやってくる寒期に飢えがないようにと、皆で願い祝う祭りです。また、国を守ってくれた竜達に感謝を表す祭事の一つでもありますわ。祭りは来週からのはずですけど、気の早い人たちが旗を挙げているのでしょうね。あの旗は竜への感謝を表すものなのですけれど……最近では目立つためにか奇抜なデザインのものが多くなってきてますの」
「へー、でもすごく楽しそうだね。竜の市もにぎやかになるんだろうなー」
正直にいえば、とても行きたかった。けれど、恐らく誰も許してはくれないだろう。
「ええ、竜の市だけではなく祭事のときはこの国全体がにぎやかになりますわ。他国の王も期間中に訪れたりしますし」
「メルニアの王も?」
「それはあり得ませんわ」
きっぱりと言い切るエナの言葉に、美春はドーニアとメルニアの仲の悪さを再認識する。
「美春、くれぐれも祭りの期間は部屋からあまり出ないように。出る時は必ず護衛をつれてくださいませ。人の出入りが多くなる分、危険も増しますわ」
「分かってるよー」
エナの小言はその後も十分ほど続いたが、美春が空腹な事を伝えると慌てて朝食の準備を始めた。お腹が空いたと言うのは大嘘で、本当はエナの言葉ですでにお腹がいっぱいである。けれどこれ以上耳を傾けていては爆発してしまいそうだったので、美春はあえて話を中断させたのだ。
「そういえばさ、エナ」
ほのかにバターの味がするやらわらかなパンを咀嚼しながら美春は尋ねる。マナーのなっていない美春の態度に、エナは一瞬咎める視線を送ったが、言っても無駄だと分かっているためため息一つですました。
「何ですの?」
「私最近歴史の勉強がんばってるでしょ?」
「ええ、原初の時代の話は私もよく知らなくて、あまり力にはなれませんでしたけれど」
エナもリヒトも原初の時代に関しては美春と同程度の知識しかもっていなかった。しかし、どうやらその事に関してはそれほど気にしていないようなのである。知らない事が当たり前、の時代なのだろう。呪いの話もさりげなくふってはみたがエナは知らないようであった。
「でさ、原初の時代の歴史に関して知らないのは当たり前だけど、最近の歴史に関してどうして皆口を噤むの?」
「最近の歴史と言うのは?」
エナの声が固くなる。
美春は原初の時代の歴史を勉強するうちにこの国の歴史に詳しくなった。もっと学びたいと言う欲が出てきたころ、ふと疑問に思い歴史の講師に質問した事があった。
「なぜ、ディートハルトは若くに即位しなければならなかったのか」
講師から返ってくる答えは前竜王の体調によるもの、と言う曖昧なものだけであった。リヒトにも同じように聞いたが、リヒトが仕える前の話と言う事で詳しくは知らないようであった。
本で過去を振り返ると、竜王が即位する年齢はばらばらだが平均すれば五十代前後で代が変わることが多いようだった。そして五十年ほどで竜王としての役割を終え、長命な竜族は残りの年数は余生を楽しむのだと言う。
前竜王は現在七十四歳、竜族としてはまだまだ働き盛りの齢である。そして、ディートハルトは二十四歳、あまりにも早すぎる即位であった。
「それは……前竜王様がお身体を壊したからですわ」
「本当に?」
「ええ」
「でも、誰も前竜王様の事を話題にしないね」
身体を壊したのであれば心配する声が聞こえてもおかしくないと言うのに。
「美春、その話題はあまり触れてはいけないものですわ。それと、決してディートハルト様にその事を聞いてはなりません」
美春が初めて聞くエナのキツイ口調であった。
「ごめんなさい」
しおらしく謝る美春を見て、エナの口元はわずかに緩む。
「いえ、美春は知らなくて当然ですから。けれど、本当に即位の事に関しては誰にも聞かないようにしてくださいませ」
「うん、分かった」
ふれてはいけない話題。
恐らく、歴史として残してはいけないことなのだろう。
原初の時代の出来事も、こんな風に忘れ去られていったのだろうか。
人々が気付かぬうちに、歴史は変わっていくのだ。