第十五話 醜心3
レイモンドは落ちついた、しかしよく通る声で騒ぎに関して謝罪を述べた。続けて楽団員に合図をおくると、テンポの速い音楽が会場に流れ始める。
「皆さま、引き続き踊りとご歓談をお楽しみください」
柔和な笑みを浮かべてはいるが、命令に近い声色であった。
あとは、トリキス家の問題だ、とレイモンドは暗に伝えているのだ。権力社会で生きる貴族達にとってトリキス家は頂点に君臨する。その一族の機嫌を損なわないように貴族達はレイモンドに促された通り踊りを再開していく。そして、気づけば美春の周囲にいた大勢の人々は散会していた。
「陛下、見苦しいところをお見せしていまい申し訳ございませんでした。美春様も、ご迷惑をおかけしました」
レイモンドには分かっているのだろう。これは、コーネリアが仕掛けて起こった惨事だと言う事が。しかし美春はあえてそれには触れず、自分のした行為を謝罪する。
「いえ、私も無作法なことをしました」
コーネリアが何か言ってくるのではと美春は様子を窺うが、当の彼女はレイモンドが現れた時から借りてきた猫のように大人しくなっていた。幾分顔も青白い。
「マティアス、父がコーネリアを呼んでいる。連れて行ってくれるか」
レイモンドが名を呼ぶと、どこからともなく一人の男が現れた。長い亜麻色の前髪は斜めに分けられており、髪の後ろは短く刈り込まれている。目は糸のような細さだが、かろうじて髪と同じ色の瞳が見え隠れしていた。その細い眼以外にこれといった特徴がないあっさりとした風貌の男である。細身の腰には一本の剣が携えられており、リヒトとよく似た服を着ていることから男が竜騎士であると言う事が分かる。おそらく、コーネリアの護衛なのだろう。
マティアスは美春達の方に一切視線をおくることなく、コーネリアに寄り添いその場を後にした。
立ち去って行くコーネリアの背中はわずかにだが震えていた。泣いているのかもしれない、少しやりすぎてしまったかと、美春は先ほどの行いを反省する。しかし、その震えは悲哀からくるものではなかった。怒りで人は震える事があるのだと、今の美春に気づくことはできなかった。
「トリキス家は男ばかり生まれましてね、コーネリアは一人娘なんですよ。そのせいか我儘に育ってしまって、皆さまにはご迷惑をおかけしているでしょうね」
誰の口からも否定の言葉が出てこない事に、レイモンドは苦笑する。
「陛下、また改めてお詫びに伺います」
「そんなものは良い」
ディートハルトは断るが、恐らくレイモンドはディートハルトを訪ねるだろう。今回の騒ぎに対してどう丸く収めるのか、それは美春の預かり知らぬところで決まる。
レイモンドはもう一度美春達に謝罪の言葉を述べると、周囲の貴族達の輪の中に溶け込んでいった。
「優しい顔をしているが切れ者だな、ありゃ」
騒動などなかったかのような貴族達の空気に、ダグラスは頭をかく。空気を変えたレイモンドの手腕に関心すべきなのか、それともコロリと態度を変える貴族達に嫌気をさすべきなのか。美春は汚れたドレスを見下ろしながらため息をついた。
「美春様、大丈夫ですか?」
気遣ってくれるアイリシアの行為は嬉しいが、彼女にみっともない姿を見られるのはこれで二度目になる。どちらも水にまつわるものだ。そういえば自分が召喚された時も水浸しだったっけ、と思い出す。水難の相でも出ているのではないかと、美春は思わず自分の顔に手を当てる。
「あ、えと、大丈夫です。変なところを見せてしまってごめんなさい」
「ああ、本当にな。お前は穏便に事を済ます、と言う事ができないのか」
アイリシアに謝ったはずだが、何故かディートハルトが答える。その反応に美春はあからさまに不機嫌な顔になった。
イノチビトになることに前向きにはなったものの、一度できたディートハルトとの溝は埋めることが難しい。悪い人間ではないと言う事は分かっているが、いかんせんディートハルトが良い人間だ、とも美春は思えなかった。王としては、良い王なのだろうが……。
「穏便にって……こんな風に私が虐められる原因は、あなたの后候補だからなんだけどね」
后候補としてではなく、最初からイノチビトとして召喚されていたら、美春に対する周囲の対応も違ったものになっていたのではないだろうか。そんな事を今さら考えても仕方がないが、そうしてくれなかった誰かさんを恨まずにはいられない。
「……それに関してはすまないと、思っている」
「へ?」
美春は思わず自分の耳を疑った。
「だが儀式の慣例上后候補から外すことはできない。さっきみたいな挑発的なやり方ではなく、大人の上手いかわし方を学んでくれ」
美春の対応が悪かったのは事実のため、何も言い返すことができない。それに何よりもディートハルトが謝罪した事が信じられなかった。素直に謝られては美春も二の句が告げなくなる。己の行いを反省し落ち込みそうになる美春の頭をダグラスが軽く叩く。
「まあ、何事も勉強だ。美春様もそのドレスでいつまでもここにはいられない。俺も背中がひどい有様だしな。今日のところをお暇させてもらおう」
ダグラスの一声に、ディートハルトもそうだな、と頷く。
美春はディートハルトとアイリシアに軽く挨拶をすませ、会場を後にした。
部屋まではリヒト一人だけで大丈夫だ、と言ったがダグラスも付き添ってくれた。
「美春様、あのお嬢様には気をつけろよ」
リヒトに対しても同じ言葉を残し、ダグラスは帰って行った。
お嬢様。
気をつけなければいけない女は、コーネリアしか思い浮かばない。
美春が今日の事を深く後悔するようになるまでに、恐らく時間はかからない。
にくい、にくいにくいにくい憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いニクイニクイニクイ……――!
始めは心の隙間にその感情は存在するものだった。しかし気づけば隙間から溢れだし、その感情だけが心を埋め尽くしていく。
父に激怒された。公の場で醜い行動をするのではないと。コーネリアを后にしたいと強く望んでいるのは父であった。その父のためにコーネリアは日々切磋琢磨してきた。今日のこともその一部にすぎない。邪魔な女を排除しようとしただけである。けれど、コーネリアの歪んだ真心が父に届くことはない。
「マティ、私は美しい?」
「后候補の中だけではなく、この大陸の誰よりも、貴方は美しいですよ」
女を狂わせる偽りの言葉たち。それを咎める者は、残念ながらこの場には存在しない。甘くきつい香水の香りが部屋の中に充満し、思考を惑わせる。
「ねえ、マティ。お願いがあるの……」
男は、知っていた。女の望みを誰よりも深く。聞くまでもなかった。男は女の言葉を途中で遮る。
「コーネリア様、何も言わなくてもいいのです。望みは、分かっています」
鮮やかに微笑む女は、男にとっては世界で一番美しい人であった。
「ディートハルト様、昨日の舞踏会は大変だったようですね」
ほほ笑むクリスの手には未処理の書類が膨大に抱えられている。どれもこれもディートハルトが目を通さなくてはいけないもの達だ。
「雑談はいいから書類を渡せ」
昨日の舞踏会の話は早くも神殿まで届いたらしい。しかし、今その事に関してクリスと話す必要はない。ディートハルトはなかなか渡そうとしないクリスの手から無理やり書類を受け取ると、ざっと目を通す。神殿関係の祭事許可申請書がほとんどである。
「どれも良いだろう。適当にお前が俺のサインを真似て書いておけ」
「そんなことできるはずがないでしょうが」
クリスは思わず嘆息する。
ドーニアで崇められている神は、正確に言うと神ではない。お伽話ででてくる初代竜王を竜神としてこの国の人々は奉っているのである。神の子孫でもある王の許可を得ることは、神殿の祭事を行う上で重要となってくる。
「冗談だ、サインしておくからおいていけ。急を要するものは別に分けてな」
用事は済んだはずなのに、いつまでたってもクリスは動こうとしない。ディートハルトはそんなクリスの態度に難色を示す。
「何か他に用事か?」
クリスは一呼吸おいてから静かに話し始めた。扉の外の護衛達に声が届かないように。
「……イノチビトの件ですが、やはり美春さまと竜を会わせてはどうでしょうか」
「その件に関しては何が起こるか分からないから先送りにしたのではなかったか?」
竜と話させ事情を聴きだしたら手っ取り早いのは事実であった。しかし、イノチビトを前に竜が興奮し暴れ始めては大事件に発展する。后候補の儀式選びの期間はまだ半年近く残っている。急ぐ事はないだろうと言うのが二人で出した結論だったはずだ。
「ですが、古い文献を漁ってもイノチビトに関する記述は出てこないのです。図書館で竜はねじ曲がった歴史を知れ、とか言ってたらしいですが、原初の時代のことなど誰が覚えているんです? 可能性があるとすれば魔法大国であったメルニアに文献があるかもしれませんが……あの国も最近きな臭いと聞きます」
古の魔法で保護された文書、それがメルニアにあるかもしれない。魔法が失われた今その効力が続いているかは不明だが。
しかし、ドーニアとメルニアは決して仲が良いとは言えない。むしろ悪い方であろう。いままで竜の力でメルニアを抑圧してきたドーニアであったが、年々竜の数と力が衰退するとともに抑止力が弱くなっているのは事実であった。
「一カ月たっても有力な情報がなければ、竜と会わせよう。騎士の竜だけではなく、サンデガの竜も視野に入れてな」
「サンデガの竜もですか?」
「ああ、あそこの竜は野生の竜だ。ここにいる竜とはまた違う情報を持っている可能性もある」
竜の国ドーニアの西に、神聖王国メルニアはある。二つの国の国境はいくつもの峰によって形成されたサンテガ山脈によって隔てられている。別名、竜の山と呼ばれるその山々は、古より竜種の巣窟として知られていた。今でもその山には竜が住み、隣国メルニアを監視している。
「メルニアがきな臭いと言うなら尚更、一度視察に訪れなければいけないな」
ディートハルトの執務机の上に溢れた書類のように、解決すべき問題は山積みであった。