第十四話 醜心2
「へ?」
突然のダグラスの申し出に、美春はつい気の抜けた返事をしてしまう。
「基礎は習得してんだろ? 踊らないとかえって浮くぞ」
気づけば周囲の若い貴族達は軽快な音に合わせて踊り始めている。ぼけーっと突っ立っているのは美春とダグラスくらいだろう。
「ダグラスさん、私ホントに下手なんだけど……」
「大丈夫だ、俺も貴族じゃねえからダンスは苦手だ」
美春の不安を余計に煽るような言葉とともに、ダグラスは美春の手を強引にとる。
「やるぞ」
(嫌だ!!)
美春の心の叫びは届くはずもなく、ダグラスは足を動かし始めた。それを追うように美春も必死に足を動かし始める。
ダンスが苦手、なんて嘘だ。竜騎士団団長と言うだけあって運動神経がもともと良いダグラスは、ダンスも見事なものだった。
しかし美春自身も運動神経は悪くない。そのため短期間で覚えたステップもなんとか標準レベルで踊ることができていた。あくまで標準レベル、だが。
「ディー兄様、私達も踊りますか?」
「踊る訳がないだろう」
普通の男であれば即座に頷くであろうアイリシアの愛らしい誘いを、ディートハルトは一刀両断する。
「じゃあどうして私と一緒にいますの?」
答えは分かり切っているが、あえてアイリシアは問う。
「……虫よけだ」
当たり前のことを言わせるな、とでも言うようにディートハルトは応える。虫、と言うのはディートハルトにむらがる女性達のことだ。后候補はもちろん、候補に選ばれなかった女性陣もあわよくば、とディートハルトを狙っている。
この舞踏会場に辿り着いた時からねっとりと絡まりついてくる無数の視線に、ディートハルトは辟易していた。
「私がコーネリア様からねちねちとした嫌がらせを受けて、身体を壊しても良いと言うことですか?」
アイリシアは腰に手を当てて、可愛らしく頬を膨らませる。その辺にいる女性がやったのであれば嫌味に見えるそれも、不思議とアイリシアがすれば自然に見えた。しかし、幼いころからアイリシアと過ごしているディートハルトにはどんな愛くるしい表情も今さら効きはしない。
「セシカが守ってくれるだろう」
「セシカだっていつも私のそばにいるわけじゃないわ」
「お前の周りにはいつも一流の護衛をつけている」
「そう言う問題じゃないでしょう、ディー兄様」
一人の后候補としてせめて扱ってほしいのに、ディートハルトはアイリシアの事を特別扱いし続けている。后に選ぶのはアイリシアだと決まり切った事のように振舞うのだ。
竜の血をより濃く継承していくためには、濃い血の者同士で結婚した方が効率が良い。前竜王が選んだ女性も竜の血を濃く引く竜族であった。
両親と同じく、ディートハルトの頭の中には竜族の繁栄のことしかなかった。そこに色恋と言った文字はない。アイリシアへの情はあるだろうが、それは妹に向けるものと似ていた。アイリシアだってそうだ。ディートハルトに兄へ向けるような愛情は注げても、恋人に向ける熱情は捧げはしない。それでも、后に選ばれたら役目を全うしようとは思っていた。それが竜族としての役目なのだと自分に言い聞かせてきたのだ。けれど今、アイリシアの心は揺れ動いている。
騎士団長のダグラスと、ぎこちなくも踊る美春を見つめる。
城内でささやかれている噂、ディートハルトが美春に懸想していると言った類のもの。無論、アイリシアはその噂を信じてはいない。けれど、ディートハルトが美春を見つめる瞳はアイリシアと同じく揺れ動いているように見える。
少し、揺さぶりをかけてみるべきか。
「でも、私と来たおかげで、美春様との噂話が少しは沈静化するかもしれませんね」
アイリシアの予期せぬ発言に、ディートハルトは一瞬押し黙る。
「あら、図星ですか?」
「お前が考えているような理由ではない」
「私が考えている理由は何だと思ってますの?」
無邪気さを装ってアイリシアは聞く。
「……何を言わせたい?」
僅かに怒気を含ませるディートハルトの声にアイリシアは肩をすくめた。
「別に何もないですけど、ディー兄様」
これ以上波を起こしても良い結果は生まれない。けれど、アイリシアは感じていた。
美春を中心として生まれてくる新たな波の存在を。小さなさざ波は重なり合い、やがて大きなうねりをあげながらアイリシア達の元にたどり着くだろう。その時、どのような結末がやってくるのか、今は到底予想できない。
天井のシャンデリアに映し出される無数の灯り。あちらこちらでガラスに灯りが反射して光を増幅させていく仕組みだが、光が生まれると同時に、そこには確かに闇も存在する。会場のあちらこちらで囁かれる雑談と密談、交差する思惑。
アイリシアは耐えることしかできない。今までそうしてきたようにこれから先も周囲に流されて生きていくことしか選べない。
――それは違うだろう?
そう言ってアイリシアを鼓舞してくれる者はもう傍にいない。
今日美春が着てきたのは薄い桃色のドレス。しかし、今そのドレスには赤い斑点が飛び散っていた。ダグラスが咄嗟にかばったおかげで被害は小さくすんだが、薄い色地のドレスに残る濃い赤は目立ちすぎた。
血、ではない。
ほのかに果物の香りがするそれは、皆にふるまれている飲み物だ。赤い果実酒、女性が好んでよく口にするものだと、ダグラスが教えてくれたそれが今、美春のドレスを汚していた。
「あら、ごめんなさい。話に夢中になってしまって」
踊り疲れた美春は、ダグラスとともに果実酒を口にしながら休憩していた。この世界ではお酒は十六歳から構わないとのことで、美春は堂々と酒を口にすることができた。酒を口にしたことがない訳ではないが、こういった公の場でお酒を飲むと、少し自分が大人になった気がしていた。時たまダグラスの知り合いの貴族達と雑談を交わしながら、早く舞踏会が終わることを美春が願っていたときだった。
突然肩に走る衝撃。同時にダグラスが長い腕を突き出し、美春が倒れるのを防ぐと同時に、意図的にかけられる果実酒を広い背で拒む。それでも床に落ちた果実酒は跳ね上がり、美春のドレスを汚す。ダグラスがかばってくれなければ悲惨な事になっていただろう。当のダグラスは背中が濡れてしまってはいるが、濃い紺色の服のおかげであまり目立ってはいない。美春の手に持っていたグラスは何とか死守できたが、ダグラスとコーネリアのグラスは床に落ち、耳障りな音をたて砕ける。周囲の視線がこちらに向くのを美春は感じた。
「本当にごめんなさい、怪我はないかしら?」
白々しいコーネリアの言葉に怒鳴りたくなる気持ちを美春はぐっと堪えた。今ここで怒鳴っては相手の思うつぼだと感じたからだ。
「ダグラスさん、大丈夫?」
「ああ、俺は大丈夫だ。美春様は……ドレスが汚れちまったな。おい、誰か濡れた布巾とガラスの後始末を頼む」
ダグラスの指示に慌てて給仕が布巾を渡しにやってくる。ダグラスは湿気の含んだ布で丁寧に美春のドレスにできた染みを叩いていく。
「ダグラスさん、あの、私自分でやるから!」
「ただの応急処置だ。もう終わる」
「ちょっと、貴方達!? 私を無視なさるおつもり!」
無視をしていた訳ではなかった。美春はコーネリアと会話をしたくなかっただけである。けれど、そういうわけにもいかないのだろう。美春は心を奮い立たせるために背筋を伸ばし、顎を引き、真っ直ぐコーネリアを見つめた。その瞳は穏やかにも見え、怒りに満ちているようにも見えた。黒い瞳を見慣れないコーネリアからすると美春の瞳は得体のしれないものに映った。
そして、美春はにこりとほほ笑んだ。
「コーネリア様、本日は素敵な舞踏会にお招きしていただきありがとうございました。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません」
突然馬鹿丁寧に話し始めた美春を周囲は固唾をのんで見守る。
たび重なる嫌がらせの数々は美春の沸点をとうの昔に越えてしまっていた。我慢していればいつか虐めも納まるだろうとも思っていた。后候補の中でも小物中の小物の美春が気になるのは最初のうちだけだろうと。けれどディートハルトとの接点が増えていくたびに嫌がらせは加速していく。美春がイノチビトである限り、ディートハルトとの関係を断ち切ることは当分不可能である。
我慢しても虐めはやむ事がない。ならば、反撃をしてもいいのではないか。
美春の心の奥で燻っていた怒りが徐々に勢いを増し形になろうとしていた。それに気付いたダグラスが咎めるように視線をおくってくるが、もう遅かった。
大勢の人がいる中で、こんなことをしてはいけない。けれど、美春の激情は誰にも止められない。
先ほど少し口をつけただけのアルコールが美春の気を大きくさせているのも一つの要因だったのだろう。
そして、幸運なことに美春の手の中には半分ほど果実酒が残っていた。
「私はこちらの世界の作法を存じていないのですが、以前突然頭上から水をかけられたこともありました。そして、今回果実酒をかけられそうになりました。これがこちらの礼儀なのでしょうか? だとしたら……」
甲高い女の悲鳴が聞こえた。
何か問題でも起きたのかと、ディートハルトは声のした方へと目を向ける。そこには人だかりができており、女同士で言い争っている声が聞こえた。嫌な予感が頭を過ぎる。
人ごみを押しのけ、騒ぎの原因を目の当たりにした瞬間、ディートハルトは自分の目が信じられなかった。後ろから遅れてアイリシアもやってくる。
薄い桃色のドレスはうっすら赤い斑点で汚れてはいるものの、美春は凛とした佇まいで前を見つめていた。それとは対照的にコーネリアの金色の髪は赤い果実酒でべっとりと濡れ、見るも無残な姿となっている。いつも丁寧に紅が塗られている唇は、血の気が引き怒りからか震えていた。
「こんなことが許されるとでも思ってますの!? 私はトリキス家の……!!」
「私は、貴方の礼儀をそのまま返しただけ」
金切り声で話すコーネリアとは違い、美春は一句一句はっきりと発音し、普段より若干声が低く感じた。
「貴方から受けた事の、ほんの一部だよ」
「私は何もしてないですわ! ただ肩がぶつかって不運にも果実酒がこぼれただけですわ……ディートハルト様! この女は后候補として相応しくありませんわ!!」
コーネリアはディートハルトを見つけ、傍に駆け寄ろうとするが、ディートハルトの冷たい視線に足が凍りつく。
「后候補に相応しいか、相応しくないのか。決めるのはお前ではない。古より続く儀式によって選ばれた者を冒涜することは許される事ではない」
先ほどまで音楽と人々の声で溢れていた第二ホールの空気は一転し、一片の隙もないほど張りつめていた。その中で、ディートハルトの静かな声が会場内を震わしていく。
今までディートハルトの優しい一面しか見ていなかったコーネリアにとって、その変貌は恐怖を与えた。
「あ……言葉のあやですの、申し訳ありません」
コーネリアの声は震えていた。
赤い果実酒によって汚された彼女の姿は、ディートハルトの目には醜く映るのみであった。竜王の后になるべく育てられてきた女性は皆一様に外見が美しい。しかし、その心根は后になると言う妄執に囚われ濁ってしまっている。そう教育したのは彼女たちの周囲の人間だと分かってはいても、心の醜さから目を背ける事などできない。
「ディートハルト様、この場を私に任せてはいただけませんか?」
膠着した場面に突然降ってわいた声。それは、周囲の人間からすると天使の声に聞こえた。
コーネリアより優しい色合いの金色の髪に、人々を安心させる穏やかな藍色の瞳。
穏やかな声の主は騒ぎの中心人物であるコーネリアの兄、レイモンド・トリキスであった。