第十一話 決壊
「お前はアホなのか!? 触るなと言っただろうが!」
「だって、もう触ったんだからしょうがないでしょ!」
本が所狭しと並ぶ室内。その題名の全てが古代語で、美春には何と書いているのか全く理解できない。
人が二人いるだけで圧迫感を感じるこの部屋には、至る所に竜のレリーフが彫られている。部屋の真ん中にある小さな机の上には、鈍い銀色を放つ竜の像が重圧感を放ちながら存在していた。
「ここ……なんなの?」
さっきまで図書館にいたはずなのに、気づけば見知らぬ部屋にいる。しかも、美春のすぐそばにはディートハルト。
気まずい空気をなんとかしようと、美春は必死で言葉を紡ぐ。
「おそらく王宮の隠し部屋の一つだろう。立ち入り禁止の文字が読めなかったのか?」
「……多分見たと思うけど、こんなことになるなんて思わなかったから」
今回非があるのは間違いなく美春であった。
立ち入り禁止の場所に入り込み、ディートハルトの忠告を聞かずに本に触れ、謎の部屋に飛ばされてしまった。
しかし、とディートハルトは思う。
立ち入り禁止区域は解読されていない本が無数にあり、竜族の許可なき者は入れないようになっているのだ。許可のない者が足を踏み入れようとすれば、透明の壁が行く手を阻むはずだ。しかし、何故か美春に対してはそれが発動しなかった。
「ねえ、ここからはどうやったら出られるの?」
ディートハルトの思考をよそに、美春は周囲の本をきょろきょろと見まわしている。
「知るか。ここはどうやらイノチビトの部屋のようだ、お前が考えろ」
「イノチビトの部屋って?」
「古代語は読めないのか? ここにはイノチビトについて書かれている本ばかりが並んでいる」
「私古代語は苦手で……」
試しに近くにあった本を手に取り、中身をぱらぱらとめくってみる。全て古代語で、美春にはみみずののたくった文字にしか見えない。そんな美春の行動にディートハルトは眉間に皺を寄せた。
「お前には学習能力はないのか? 古代の本に勝手に触るんじゃない」
「何も起こらないからいいでしょ」
「今は起こらなかったがさっきは起こっただろう」
そう言われると美春はもう何も言えなくなる。ディートハルトの制止を無視して本に触れたのは美春だ。
「……とにかく騒ぎになる前にここから出る方法を探すぞ。本が仕掛けだったのだから、恐らく出る方法も本に隠されているだろう。お前が触れた本と同じ本はここにあるか?」
「えーと」
どんな本に触れたのか必死に思いだそうとするが、何も思い出せない。古い本だったのは確かなのだが、ここにある本はすべて古い。正直お手上げだ。
手掛かりは美春の耳に届いた『イノチビト』と言う声。
「声が聞こえて、なんかよく分かんないまま本に触れちゃったから――本の事、覚えてない」
美春の言葉にディートハルトは重たい息を吐く。
「ごめん、なさい」
謝るのは癪だったが、ディートハルトを巻きこんでしまったのは自分だ。若干棒読みになったものの一応謝ることには成功した。
「声が聞こえたと言っていたが、どんな声だ?」
「頭に響いてくる不思議な声だった。まるで竜の声を聞いたときみたいに」
「竜の声、か」
竜族であるディートハルトでさえ、竜化しないと声を聞くことができない。竜化には危険が伴い膨大なエネルギーを使うため、戦の少ない現代では使う事が少ない。
竜の声を聞くと言う事はそれほど大変なことなのだ。それをこの娘は、何の準備もせずに軽々と声を聞くと言う。それだけでも利用価値があるのではないか、そんな考えが頭によぎるが、一度硬化した態度を軟化させることは難しいことであった。
「その本を貸せ」
美春は手に持っていた本をディートハルトに手渡す。
「イノチビトに反応するような魔法か何かがかけられていたのだろうな。まあ、魔法の失われた今となっては確認することもできんが」
ディートハルトは古びた本のページをぱらぱらとめくっていく。美春から見たらちぐはぐな文章も、ディートハルトには呼吸をするように読むことができるのだろう。
目から入ってくる情報を、ディートハルトは頭の中で整理していく。
その本はイノチビトに関する様々な説が書かれているものであった。その全ての説に共通して言えることは一つ。
――イノチビトは竜を救う者。
おそらく、それは疑いようのない真実。けれど、どのようにして竜を救うのか、と言ったことは謎のままである。そこが一番知りたいところなんだがと、ディートハルトは嘆息する。
本を読み始めてから言葉を発さないディートハルトに痺れを切らし、美春が話しかける。
「ねえ、何が書いてるの?」
「……イノチビトについての憶測が書かれている。この本だけでは分からんな。今から俺が調べる。だからお前は黙ってそこにいろ。何も触るな、いいな?」
「何もしないっていうのは心苦しいと言うか退屈なんだけど」
「何もしないことが最善の策、と言う事はよくあることだ」
余計なことはするなよと、言葉にしなくてもその思いは美春にひしひしと伝わってくる。
けれど、何もしないと言うのは存外難しいものなのだ。その上、密室に一緒にいるのはお世辞にも仲が良いとは言えないディートハルトだ。楽しい会話など出来るはずがなく、重い沈黙が部屋を支配していた。その沈黙をなんとか破ろうと、美春は話題を探した。
「ねえ、イノチビトについて、あなたはどこまで知っているの?」
ディートハルトはページをめくる手を止めずに、唇を動かし始める。
「……イノチビト来たりし時、呪いは消え、竜は再生されるであろう。竜族に伝わる古い伝承だ。方法が曖昧なうえに事実かも分からん。おとぎ話のようなものだ」
いわゆる救世主の様なものなのだろう。
ここで問題になるのは"何"からの救世主なのか、ということだ。
救世主と言えば美春が思い浮かぶのは世界を救うものだ。多くのヒーローものは悪の強敵を倒すことで世界が救われるようになっている。では、この世界で言う悪者とは一体何なのだろう。
呪い、とディートハルトは言った。しかし、美春には呪いの知識などなく、魔術や魔法と言ったものから無縁の世界からやってきたのである。非現実的な分野は専門外である。
呪いを解く方法など知らないが、好奇心から美春は聞いた。
「呪いって、どんな呪い?」
「命の水の話しは聞いてないのか?」
「命の水が湧いている時だけ、竜が繁殖できるって言う話?」
「そうだ……本来、竜はいつでも繁殖できる種だ。誰にも縛られずに生きる偉大なるもの。それが竜族だった」
ディートハルトはそう言葉を置くと、遠くを見るように目を細めた。先ほどからさして表情は変わっていないが、銀色の美しい瞳は悲しみを色濃く映していた。
「今の竜族は疲弊し、終末を待つのみの種族だ。代々竜王の力も衰えている。俺は先祖返りと言われ、偶然にも強い力を手にしているが、その力でさえも古の竜族からすれば小さなものだろう」
今、この瞬間だけは、美春の目にはディートハルトが嫌な奴に見えなかった。
ディートハルトは確かに嫌な奴だけど、竜族の未来を憂いている一人の王であることは間違いない
不思議な人、と美春は思う。
美春の前では嫌な部分しか見えてこないが、エナやリヒトはディートハルトを尊敬している。他の后候補もそうだ。ディートハルトの后になるために己を磨き、時にその感情は歪み他人を蹴落とそうとまでする。この国の人にとってはそこまでして手に入れたい男、それがディートハルトなのだろう。しかし、美春は今のところディートハルトから負の感情しか押し付けられていない。負に対し正で返すほど美春はお人よしの人間ではなかった。目には目を、歯には歯を、悪意には悪意で、善意には善意で返す。
今この時は、ディートハルトは美春に何の感情もぶつけようとしていなかった。そのため、美春は慰めの言葉などは口にせず、ディートハルトの話を黙って聞くことにする。
「古の時代、一人の女が呪いをかけた。己の身を代償にし、竜族に呪いをかけることに成功した、と言われている。その時の呪いの産物があの忌々しい命の水だ。命の水、などと呼ぶのも甚だしいくらいだ」
そして、その呪いの結果が竜の繁殖の時期を制限し、竜の力を徐々に奪い取っていくことなのだと言う。
「でも、そんな禍々しい気持ちは、あの水からは感じられなかったけど」
美春はふと、朝見た夢を思い出した。黒髪の女性が湖の上で祈り続けている夢。あれは、本当に夢だったのだろうか。
「お前の直感など知るか。あの呪いの水によって竜族の力は衰え、今やただの獣となりつつある」
「けど、どうして呪いなんかを女の人はかけたの?」
古の時代から竜は尊敬と畏怖の対象であった。それなのに何故、偉大なる竜に呪いをかけようと思ったのだろうか。
「……おとぎ話を知っているか?」
「后候補を選ぶ元になった話のこと?」
「そうだ。竜王に捧げられた六人目の女が竜王と結ばれた、と言う奴だ」
竜王はやさしさをもったヒトと、末永く幸せに暮らしたのです。
ヒトを愛した竜王は、ヒトを守り、ヒトを愛し、ヒトを慈しんでいくことを生涯約束したのです。
めでたし、めでたし。
「しかし、あれはお伽話にすぎない。真実の話ではない」
「真実の話?」
「六人目の女は子を生み、愛する竜王と共にいた。しかし、竜族は年をとるのが遅い。人であった女は、自分だけ年老いていくのが耐えられなかった。醜くなる自分と美しいままの竜王。女は病んでいき、己と竜王を呪ったと伝えられている。呪いの方法は不明だが、当時敵国であった神聖王国メルニアが関わっているのではないか、とされてはいる。……古い時代の話だ。伝聞のみで書物などはないが、女の呪いの話は代々竜族と神官長に伝えられている」
呪い終わった後、女は力尽き死んだ。竜王は悲しみ、その悲しみが命の水を作った。
命の水が湧くと女の呪いの力が弱まり、竜の気が強くなる。そして何故か、召喚が成功した時は竜の気が一層強くなる。
それが、この国の竜王に代々伝えられる呪いの話だ、とディートハルトは静かに語り終えた。
悲しい話だ、と美春は思った。けれど、どこか腑に落ちない話しでもある。
「その話は、本当に真実なの?」
「……どうしてそう思う?」
どうして、と聞かれても美春には答えられない。ただ、違う、と心の中で誰かが叫んでいる気がするのだ。その話は造られたものではないか、と。
「分かんないけど、なんとなく」
「なんとなく、で古から伝わる話に難癖をつけるな」
「だって古の時代からの口伝なんて正確に伝わるはずないでしょ。事実、イノチビトに関してもろくに上手く伝わってないじゃない。呪いを解く者、なんて言われても私は解き方なんて知らないし解く義理もない。いきなり呼び出されて后候補って言われた次はイノチビトでしょ。必要とされるのは嬉しいことだけど、求められても私は答え方を知らない! 知らないの!!」
徐々に感情的になった気持ちは押さえきれず、最後に爆発した。
美春の心の奥底から熱い塊が喉に押し迫ろうとしている。少しでも油断すれば、号泣してしまいそうな感情の嵐が美春を襲っていた。
「おい、落ち着け」
なのに、ディートハルトは落ちついた声で美春をなだめる。いや、その内心は落ちついてなどいなかっただろう。しかし、美春にはディートハルトの心を汲み取る余裕などとうに存在していなかった。
「うるさい!! 何が竜王よ!自分の種族の問題は自分たちでなんとかしなさいよ! 私、后になんてなりたくないっ、もちろんイノチビトにもなりたいなんて言ってない。この世界にいたい理由なんてないの、ねえ、帰して、私を帰してよ!!」
今までずっと我慢していた。
仕方がない、と自分に言い聞かせて、この世界に馴染もうと努力してきた。
けれど、もう限界だ。
私はここで何をしているんだろう?
何を、すればいいのだろう。
イノチビト、と言う役割を得ても、心のざわつきはおさまらない。不確かな存在理由は、美春をこの世界に留める楔にはなりえなかった。
后候補にはなりたくない。イノチビトとしての役目も分からない。
ただ過ぎていこうとする日々が怖い。私はどこに向かおうとしているの?
この問いに答えてくれる声が欲しかった。