第十話 探究心
何か、夢を見ていたような気がした。
美しい黒髪の女性が、湖の上で祈り続ける。
そんな夢。
「美春、どうしましたの?」
エナの突然の声に、美春は焦点の合っていなかった目をはっと覚醒させる。
「なんだかまだ眠そうですわね。昨日の竜舎見学の疲れが残っているんじゃないかしら?」
「うーん、そうかもしれない」
昨日竜舎で起こったことはエナには秘密にしていた。イノチビト、のことは他言無用にした方がいいと言うのがあの場にいた全員の結論だったのだ。
「でも、なんか変な夢見た気がする」
「変な夢?」
「うーん、覚えてないんだけど、なんか、悲しい夢だった気がする」
イノチビトに関わる夢だったような気がするが、今となっては何も思い出せない。
「そう言えば今日の私の予定ってどうなってるの?」
「今日は午前中は何もないですわ。午後から踊りのレッスンが入ってます。それと、三日後にコーネリア様主催の舞踏会があるのでドレスを選ぶこともしないといけないですわね」
「舞踏会って……行かなくちゃいけないの?」
美春はめくるめく貴族の世界を想像し、げんなりとする。舞踏会に参加しても好奇の目にさらされるか、嫌がらせを受けるかのどちらかである。それならいっそ行かない方がマシなのではないかと美春は思う。
「他の后候補は皆さま参加するそうですわ」
「アイリシア様も?」
「ええ、おそらく体調が優れない限り出席なさるでしょうね」
「……じゃあ参加するしかないんだね、私」
候補が全員参加するのに美春だけ不参加、と言うわけには恐らくいかないだろう。美春の予想通り、エナは頷く。
「残念ながらそうなりますわ。けれど安心なさってくださいませ。嫌がらせも舞踏会と言う公の場では早々できませんわ」
「まあ嫌がらせはなんとかするよ。それよりも、午前中図書館に行きたいんだけど……」
美春は昨夜から考えていたことを口に出した。イノチビトについてクリスが調べると言ったものの、自分が関係していることなのだ。余計なことかもしれないが、出来る限りのことはしておきたいと言うのが美春の考えであった。そして、行きついた答えが図書館。
「図書館、ですか?」
いきなり美春の口から飛び出て来た図書館、と言う言葉にエナは首をかしげる。
「うん、私この世界について何も知らないでしょ? 竜王のこともいろいろ知りたいと思って……駄目かな?」
本人は自覚がないようであったが、首をかしげて困ったように微笑む美春の表情はとてつもなく可愛らしかった。同性であるエナでさえ、少し頬を赤らめる。
「駄目なわけないですわ! そうですわね、まずは知ることから始めるのが恋と言うものですものね! では護衛の準備をしますわ」
「道さえ教えてくれたら一人で行けるけど」
「誰かに襲われたらどうするんです? 一人でなんて絶対駄目です。美春は剣を扱う事もできないんですから」
「わ、分かった」
自分の身を自分で守れるようになれば、一人で歩き回れるのだろうか。急に思い浮かんだその考えは、美春の中で明確なものになる前に消え失せる。それよりも今は竜族とイノチビトに関する情報が必要なのだ。
ドーニア国の王宮図書館は大陸一の蔵書数を誇る、と言うわけではなかったが、竜に関する蔵書だけは膨大な数が納められている。子供向けのお伽話から竜の生態に関する学術本まで様々な種類の本が天井まで届く棚に窮屈そうに埋まっている。
美春の護衛としてついてきた騎士は二人。どちらもリヒトがいない時によくお供してくれる二人である。美春は二人に少しだけ離れた場所で護衛するようお願いし、無数に並ぶ本と向き合う事にする。
美春はまずは竜に関する初歩的な本から調べることにした。思えばこの国にやってきてゆうに一週間は経過した。しかし、美春は肝心の竜について詳しいことをほとんど知らない。ただ、言えるのはこの国にとって竜は神聖な存在であると言う事だけだ。
何故、この国で竜がこれほどまで神聖化されたのか。何故、他国は竜の守りが得られなかったのか。考えれば考えるほど疑問の波は絶えることを知らない。
『ドーニア国の繁栄と竜』
『りゅうのおうこく』
『竜の出現とニルア大陸の変遷』
『竜小噺百選』
美春はとりあえず目についた本を捲る。異世界トリップでは言葉は通じるが文字が読めない、と言ったことが多いが、美春は文字は読むことが出来た。さすがに古代語など難しい文字は読めないが、現代の文字は日本語と同じように理解することが可能である。しかし、書くことは難しく、国語の教師いわく美春の書いた字はとてつもなく汚いらしい。
どの本にも、ある一つのお伽話が載せられている。
それは美春もエナから聞いたことのある話であったが、本によって結末が様々である。おそらくこのお伽話は一つの事実から作られたものなのだろう。その事実について書かれている本はないのだろうかと、美春は一つの本を手に取った。
『誰も知らない竜の国』
比較的新しい本で、文体も読みやすいものであった。
≪竜の国ドーニア。何故そう呼ばれるようになったのか、何故他国に竜がいないのか。その理由をドーニア国の九割の者が知らないであろう。国民が知っているのは、語り継がれる一つのお伽話。それだけなのである。≫
『むかしむかし、あるところに、竜王がくらしていました。
竜王のおおきな口からは巨大な炎がふきだし、その口元にはするどい牙がいつも光かがやいていました。
そんな竜王のまわりにはいつも何もありません。
真っ暗な世界です。
永遠ともおもえるような長い時間を、竜王はひとりですごしてきました。
あるとき。
竜王の目の前に、一人のヒトが現れました。
ヒトは言いました。
あなたが私たちが求めていた全てです、と。
竜王は感激し、ヒトと共に生きようと決めました。』
そしてこの物語から、エナが以前美春に教えてくれた話に繋がるのである。つまり、后候補を六人も選ぶようになった理由の物語に。しかし、誰が竜を見つけ出したのか、などは全くふれられていない。
『誰も知らない竜の国』には、そのいきさつが簡単に述べられていた。
≪原初の時代、ドーニア国の第二王子が竜を発見する。その詳しいいきさつは何一つ我々の時代に伝わってきてはいない。権力争いの末逃亡した第二王子が、偶然竜を連れて来たのだと言う説もあれば、討伐のために派遣されたのではないかと言う説、国を救うための手段を探していたのではないかというものもある。当時、ドーニア国は神聖王国メルニアと敵対関係にあり、戦を繰り返していた。今は失われた魔の力をメルニアは操り、大陸一の魔法王国としてその名を轟かせていたのだ。反面、ドーニア国は今と違い小さな国であった。戦況は明らかにメルニアが優勢であった。それをひっくり返したのが、このお伽話の竜の出現であった≫
「神聖王国メルニア……」
今もまだ残る国の名前である。美春の頭にあったわずかな知識の欠片から思い出したのは、ヒトが中心となり政治を行っている国、というただそれだけである。その国が昔魔法で栄えていた国、と言うのは驚きだ。
何故、魔法は消えてしまったのだろう。
新たな疑問が美春の胸に去来したときだった。
周囲の空気が一瞬で色を変え、近くにいた護衛の緊張が美春にまで伝わって来た。
(何?)
美春が怪訝に思い振り返った時、そこに見えたのは凍えるように美しい銀の男。簡素な黒の長衣に身を包んではいるが、地味なはずの黒と言う色が、いっそうその男を引き立たせている。
「何をしている?」
見た目と同じようにディートハルトの声は氷のように冷たかった。一瞬、美春の心もディートハルトの冷気に凍りそうになるが、なんとか持ちこたえ声を絞り出す。
「ちょっと、調べたいことがあって……」
何故こんなところにディートハルトがいるのだろうか。いや、その前にクリスはイノチビトについてディートハルトに話したのだろうか。
美春はディートハルトの顔色を窺うためにそっと見上げる。
「お前の知りたいことはここの図書室にはないだろう」
「それ、どういうこと?」
おそらくクリスからすでにイノチビトの聞いたのだろう。でなければ、このように何かを含んだような物言いはしないはずだ。
「下級貴族でも入れるこの図書館に、お前の知りたいことがあるはずがないだろう。でなければ、誰もが知っているはずだ」
そこから先の言葉は、周囲に聞こえないように美春に囁いた。
「イノチビトについて、な」
「貴方は、何か知ってるの?」
ディートハルトにつられ、美春の声も自然と小さくなる。
「仮にも竜王だ。お前よりは知っている。それにクリスは動揺して知らないと言ってしまったようだが、あいつも少なからず知っているぞ」
「え?」
「詳しいことは俺も知らん。しかし、古くから竜族に伝わる言い伝えは聞き噛っている」
「言い伝え?」
「ああ……ここでは人目がありすぎるな。お前が知りたいと思うなら、俺についてくると良い」
「なんか、急に優しくなった気がするんだけど私の気のせいかな」
優しい、と言うよりは普通なのだろうが、今までのディートハルトの態度が悪すぎた。意外に良い人だったのかも、と思い始めた美春の認識を、ディートハルトの次の発言がぶち壊す。
「竜に関わる重要人物だ。媚を売るのは当然だろう」
「あ、そう」
何故こいつはいちいち癪に障ることを言ってくるのだろうか。
美春は心の中で一国の王をこいつ呼ばわりした挙句、ディートハルトを驚かせる行動に出た。
「お生憎様、今さら媚を売られたって買うわけないでしょ! 自分の事については自分で調べるから」
美春の言葉にディートハルトは驚きからか、目を僅かに見開いた。まさか自分の申し出を断られるとは思っていなかったのだろう。
ディートハルトの素の表情の変化に美春も内心驚愕しながら、図書館の奥の方へと足を進めた。もちろん、ディートハルトを無視して、だ。
その行動に周囲の護衛も動揺を隠せず、美春を追うべきなのか、硬直している王に何か言葉をかけるべきなのか考えあぐねいている。その間にディートハルトは瞬時に硬直から立ち直り、美春の後を追う。
「お前らはここにいろ」
と、短く護衛に言葉を残して。
二人の護衛は互いに顔を見合わせ、困惑しながらも王の命令に逆らう事はできずその場を動くことはしなかった。
美春は後ろからディートハルトが追ってきている事が分かり、徐々に歩く速度を上げる。けれども、ディートハルトの長い足を見るとすぐに追いつかれるのは目に見えていた。そこで、マナー違反と分かっていながらも美春は駆け出した。運動神経には自信がある。美春は図書館の棚をかきわけ、途中立ち入り禁止と書かれた札のかかる紐も気にせず飛び越え、姿を隠すように不規則に進んでいく。
そして、図書館の最深部にたどり着く。
誰の気配も感じず、古い本だけが美春の周りに存在していた。
美春は立ち止り、呼吸を落ちつけるために深呼吸する。久しぶりの運動に、自分の体の衰えを実感する。その証拠に心臓の動悸がなかなか鳴りやまない。
何故逃げたのだろう?
何故ディートハルトの申し出を受けなかったのだろう?
そんなの決まっている。
悔しいからだ。
今までお互いに好感度最悪だった相手にいきなり歩み寄るなんて、そこまで美春は素直にできていないのだ。
美春は身体に一気に疲労感が押し寄せるのを感じ、古い本棚にもたれかかる。とにかくくたびれた。
『イノチビト』
「へ?」
誰かに呼ばれた気がして美春は声のした方を振り返る。そこには古の本達が並んでいるだけで人の影はないように思えた。しかし、本の中で一つだけ美春の目を引く者があった。なんの変哲もない本のはずで、題名も古代語で読めない。けれど、何故か気になる。
美春は軽い気持ちでその本に触れようとした。
「そこの本にさわるな!」
言葉の意味を理解すると同時に、指先にふれたのは触るなと言われた本。
何も起こらないじゃない、と美春が口を開きかけたとき、周囲をまばゆい光が覆っていく。
「な、なんなの!?」
白い光で何も見えなくなっていく。近くで舌打ちが聞こえ、美春の手首が強く掴まれる。
そして、図書室の最深部には誰もいなくなったのである。